2-20:頭痛
エヴァが出掛けて数日が過ぎた。
未だ音沙汰はなく、夜の海は何処までも暗い。エルネスは出そうになる溜息を堪えて、ダヴィドに言った。
「今日も帰って来ませんでしたね」
「いずれ戻るさ」
リーダーは気長に待つようで、動くつもりがないらしい。蝋燭ランプの淡い色。揺れる光が照らし出すのは、半壊した元客間。海風が二人の髪を擦り抜けて、星降る夜空に消えていく。天井には大きな穴が開いていた。
「こんな物で家が建つとは不思議だな。そう思わんか?」
ダヴィドが木槌をもてあそぶ。話を反らす彼に、エルネスは冷たい視線を向けた。
「思いませんよ。素手で家が建つとでも?脳筋演技もいい加減にして下さい。セーナでも知っていたのに、知らない方に驚きです」
「まぁセナの知識は…………広くて浅いからな。会話のネタにしかならんだろう?」
こういう物がありまして、と彼女は異世界の便利道具を語ってくれる…………しかし、肝心の作り方を知らない場合が殆どだ。因みに、そこをからかうのが面白い。あっという間に赤くなる頬。身振り手振りでパタパタ動く少女を思い出し、ダヴィドは思わず笑った。
「何を笑っているんです?」
エルネスの声が低くなる。不機嫌な幼馴染の相手など、何も楽しくない。
「すまん、思い出し笑いだ。それでセナは?」
「フェルが勉強を見ていますよ。いずれは、何とかなるでしょう。彼女は努力家ですしね?それよりエヴァです、どうするんです?」
短気な奴め。
ダヴィドは額を押さえて閉口した。男ですらよろめきそうな美貌で、せっかち。それを補うしつこさ。困ったものだ。そう思っても口では勝てない。だから言わない。火に油を注ぐなど馬鹿のする事だ。この手の相手は、後始末まで面倒くさい。
「お前も分かっているだろう?ヤツを海に逃がした時点で、負けだ。打つ手はないぞ?」
「だからと言って、ただ待つと?」
「俺達は一応、休暇中の身だ。いいか休暇だぞ、休暇。羽を伸ばして何が悪い」
「開き直るんですか、ダヴィド。彼が戻る確証もなく」
「あるから待って居るんだろう?」
やる気のないダヴィドに、エルネスは眉をひそめた。無断でパーティーから離れた者を、こうして待つのは異例の事だ。しかもエヴァは偽名。年齢も詐称。信頼出来る要素は何なのか。
「…………貴方は何に気が付きました?」
エヴァにした、分かりやすい嫌がらせ。そつのない人間関係を作れるダヴィドが、初対面でそんな事をするものか。だったら、どこかで会っている筈。水の神人、それも始まりの十人に。
琥珀色の瞳を細めて、彼はニヤリと口角を吊り上げた。
「心配するな。エヴァは必ず戻る」
そして、もう行けと手を振る。部屋の修理は一向に終わりが見えない。どうせなら、直せる見込みの方を心配して欲しいものだ。
「後で業者を呼びましょう。時間の無駄です」
「そうは言っても暇だからな。せめて、屋根だけは何とかせねば」
「こんな所で、うっかり竜体をとるからでしょう?竜人族の大工が来たら、一発でバレますよ」
「だから、直そうと…………」
「余計に壊さないで下さいよ?祖母に何を言われるか、分かりませんから」
エルネスは諦めて部屋を出た。どんなに記憶を探っても、エヴァの顔は出て来ない。そもそも、すれ違った相手さえ思い出せるダヴィドとは、頭の出来が違うのだ。何人の顔を覚えているのかなんて、恐ろしくて聞けない。
あの、性悪…………!
無能で馬鹿なふりをしては、相手で遊ぶ。幼い頃より彼は、そうする事の効果をよく知っていた。だから気付いたエルネスは、始めは脅され、今は腐れ縁で側に居る。ダヴィドを野放しに出来なかった。
次の犠牲者が首を吊りかねない。
エヴァの情報開示をしないのは、絶対に面白がっているからだ。加減のないドッキリなどされて、うっかり心停止でもしたら呪ってやる。この頃はマトモだったから、すっかり安心していたけれど…………ダヴィドは他人の不幸を食って喜ぶ、魔物のような男だ。
エルネスは痛む額を押さえた。
一刻も早く、エヴァに責任を取らせなければ。フェルナンはともかく、星南などひとたまりも無いだろう。足早に二人の居るラウンジに向かう。自分には癒しが必要だ。
最近のフェルナンは、何故か星南をよく構う。
色使いとしての耐性に加え、水を求める本能も薄い。第三種族の天人族。第四の神人とも言われる希少な種族の彼は、エヴァの祝福にも鈍感だった。
それが耐えただけなのか、本当に感じなかったのか、口はついに割れなかったが。嫌った反動で構いたく、はならない筈だ。
何時まで思春期なんだか。
エルネスは少し昔を思い返した。少女のように可愛いかった少年。義母の姉の息子だから、血縁の無い従兄弟にあたる。彼を引き取り育てる事になったのは、天人族が稀故に、育て難い種族だからだ。
竜人族の持つ感知能力で周囲に怯え、人族で最も良い聴力が余計な言葉を耳に届ける。色使いの力は、獣人族からは忌み嫌われるものだ。二色の瞳を持ち、光の女神に祝福される選ばれた人。しかし、親の持つ色彩は遺伝せず、不義の子と陰では言われる人族だ。父親なぞ、終に姿を現さなかった。
「エルにぃー!」
そう呼んで後ろに付いて来る彼は、とても可愛かった。だから構いすぎたのだ。
「うわぁーん、今夜も眠れない!!」
「寝なけりゃ忘れないって、なんだその迷信は」
ラウンジから声が聞こえる。横並びに座る白い髪と黒い髪。私も、とエルネスは目を細めた。周りから見れば、親子にも兄弟にも見えなかったのだろう。それが幼い彼を、傷付けてしまった。
「何言ってるのフェルナン。寝たら半分は忘れるんだよ!?」
星南は不機嫌顔の青年を睨んだ。どうせ賢くありませんよ。フェルナン先生みたいに、見たら覚えちゃう、なんてチートはありませんからね。くそぅ、顔よし頭よしで何様だ。ついでに性格も良かったら、もう少しやる気が出たのに。愚痴を内心でぶちまけて、テーブルに広がる家系図を見る。
夏休みの自由研究二枚分に、名前がぎっしり。書いたのは、隣で涼しい顔をしている青年だ。
「どうにか取っ掛かり探さなきゃ…………」
ブツブツ言っている星南の横で、フェルナンが戸口のエルネスを見た。邪魔しに来るな、という渋い表情だ。彼は机に肘をつき、星南に追い討ちをかける。
「色冠は、親子で被る率が高いんだ。花冠とセットにして、ついでに個名も覚えとけ。バラして混ぜるな!余計分からなくなるぞ?」
「みんな名前長過ぎる」
そして、意味の分からない横文字だ。
「呪文だと思って、まるっと覚えろ」
早口言葉じゃあるまいし、耳慣れないものは覚え難い。しかも、似ている名前まで多いのだ。歴代総理の暗記が、イージーモードに思えてくる。
「コレ、フルネームじゃ無いんでしょ?どうして中途半端なの?こんなの覚えて意味あるの?」
どうやら名前の暗記らしい。エルネスは成程、と思った。始まりの十人を覚えて損は無い。神人同士の身分制度はシビアである。
しかし、水の系譜は鎖国の二百年間が抜けているのだ。果たして実用に足るものか。声を掛けるべきだが、フェルナンが来るなと睨む。エルネスは苦笑した。
「お前、ダヴィドさんの名前は言えるよな?」
「フー・ダヴィド・アロン・アシャールです!」
「じゃあ、エルネスさんは?」
「エルネスさんは…………エルネルワール・サバン・セザール、えぇと、ヴァソール?」
「…………色々混ざりましたね」
「うっ!」
びっくりして振り向くと、扉の影で笑う本人が見えた。聞かれてしまった。多分間違えたであろう本名を。星南は慌てて頭を下げる。
「ごめんなさい!呼ぶ機会がなくって!」
「いいんですよ私の名前なんて」
「そっ、そんな事はっ!」
「フェルの名前はどうです?覚えていますか?」
「えぇと…………」
そお~っと顔色を窺う。それだけで、覚えていないのは丸分かりだ。
「俺は、ヴェール・クレール・フェルナン。ヴェールは魔人族家系を意味する色冠で、クレールも色冠、家名は聖国籍と帝国籍で違うから名乗ってないし、覚えなくていい」
「クレール…………?」
何かが頭に引っかかる。クレール、それは最近聞いた名前だ。思わずフェルナンを凝視して、星南はガタンと立ち上がった。
「お墓参りの人!」
「どういう覚え方してんだよ」
「それは空色の君、クレール様の事ですよ。始まりの十人のひとりで、水の女神の化身と言われた方です」
「あぁっ!クレール・バルト!!神人の大三家の二番目だっけ?ダヴィドさんの片思いの人ですね!?フェルナンと関係あるんですか!!」
フェルナンは頭を抱えた。折角大人しくさせたのに。だからエルネスに来て欲しくなかった。星南は興奮すると、饒舌になる。そして人の話を聞かない。
「そのクレール様です」
見上げてくる灰色の瞳。キラキラしていて、嬉しさを雄弁に湛えていた。その眼差しがこそばゆい。困って頭を撫でると、彼女は慌てて身を引いた。
こういう時、まだ子どもなのだと思う。分かりやすく嫌がると、逆に燃える人間も世には居る。しかし原因は、隣で睨んでくる従兄弟のようだ。ついでに頭を撫でようとした手を、すげなく払われた。
「フェルの色冠は神代古語で色が明るい、という意味なんです。空色の君のものは個名なので、深い意味は無いでしょうね」
勝手に説明されたフェルナンは、フンと鼻を鳴らした。
「何でか知らないけど、天人族は色冠を二つ持つんだよ」
「ひとつでいいのに。苗字も、ひとつにすればいいのに」
星南は頭を抱えた。そんな事をするから、この世界の人々は名前が長い。何処の血筋か分かるように、長い名前になっている。それはまるでペットの血統だ。
神人が親近婚を繰り返し、数千年をかけて第四種族の獣人族に至った。人口は現在、その獣人族が最も多い。普通の人間は存在せず、新たな種族も生まれていない。
「やっぱり名前なんか覚えても、役にたたないよ。薬草覚えた方が身になるし、文字も練習しないと忘れそう」
「ならば明日は、そちらを進めますか?」
エルネスがにっこり微笑んだ。スパルタ授業が苦手な事は、しっかり見抜かれている。ならば選択肢は一つしかない。
「文字の練習をします!」
「発音出来ない文字覚えて、どうすんだ」
「手紙を書きます!!」
胸を張って答えると、二人が微妙な視線を向けてきた。
「セーナ、その手紙とは、誰宛ですか?」
「え、えぇと、親しい人、とか?」
特に決めていなかったので、首を傾げる。御礼状とか感謝状、年賀状などメールのない世界では基本文通だ。色使いなら電話の真似事、神人ならばテレビ電話という裏技も存在するけれど…………自分にそれが、出来る未来が見えてこない。
「手紙って、貰うと嬉しいじゃないですか」
文字を教えてくれたのは、ダヴィドだ。先が平たいガラスペンで、彼はとても綺麗な字を書いた。それに少し憧れた部分も大きい。
「貰って嬉しい手紙、ですか」
「星南にはまだ、早いんじゃないか?」
二人は何故か消極的だ。
「これでも、ダヴィドさんには簡単なのなら大丈夫、ってお墨付き貰ったんです!」
また二人が顔を見合わせた。書くもの持って来る、とフェルナンが席を立ち、エルネスが向かいの席に腰掛ける。
「何だか私は、嫌な予感がするんです」
「エルネスさんひどいですよ!」
「きっとすぐに、ダヴィドが酷いと気が付きます」
かくして手紙を書く事になった。
ダヴィドに教わったのは、共通語の短文だ。アルファベットは三十八字。筆運びに漢字と違う癖があり、そこが難しいポイントとなる。一文字の中で、平たいペン先の太い部分と細い部分を使い分けるのだ。指先の力加減が肝心。ゆっくり正確に書けば大丈夫。
「はい、出来ました!」
張り切ってエルネスに差し出すと、彼は苦笑を浮かべた。
「AとOと、これはSですね。完全に混ざっていますよセーナ?ストロークが甘いようです。これは…………ご武運を、ですか?」
「うっ…………思った通りになるといいね、って教わりましたけど」
若干不安になって、エルネスにペンを渡す。しっかりつづりを直された。三文字が判別不能で、よく読めたものだ。
「もう一度書き直しを」
「は、はい」
でた、エルネスさんのやり直し。薬草師の勉強じゃなくっても、彼が居る限りスパルタなんじゃ…………悪い予感は的中した。ダヴィドは甘々教師だった。一体何に、お墨付きを貰えたのだろう。
「夜更かしは成長に悪いですから、この辺りにしましょうか」
「…………ありがとうございました」
相当量の書き直しをさせられてから、やっと無罪放免となる。指先を攣りそうだ。筆記用具を持って席を立つと、フェルナンが当たり前のように付いて来た。一人になれない事には、少しだけ慣れた。でも、一歩控えた左後ろを歩かれるので、謎の威圧感に苛まれる。背筋を曲げると怒られるし。どうせなら前を歩いて欲しい。
「私、もう部屋から出ないよ」
自分の所在を明かしておけば、彼は見えない場所に居てくれる。本当はもう少し仲良くなりたい。その取っ掛かりは未だ不明だ。圧倒的に機嫌を損ねる、高リスクが待っている。
「今日もありがとう。おやすみなさい」
頭を下げると、珍しくポン、と撫でられた。
「顔にインク付いてるぞ」
「え!」
「あと…………居間だな。エヴァが戻った、かもしれない」
「えぇっ!?」
ツイっと、二色の瞳が廊下に向いた。居間は、突き当りを更に曲がった先にある。火山の三女神の血族。竜人族の持つ感知という能力を引き継ぐ彼は、レーダーみたいに気配に敏い。
「エヴァって分かるの?」
「気配が厚かましい」
そういう事まで分かるんだ。それはちょっと嫌だなぁ。主に自分がどういう扱いなのか、という点において。
「で、行くのか?寝るのか?」
「い、行きます!」
重要な話を聞き逃すと、後が大変だ。先に行けと顎で急かされて、慌てて廊下を歩く。これからずっと、と星南は背後を僅かに顧みた。誰かが付いて来る生活になっちゃったら、きっと胃に穴が開く。護衛対象とか、ビップみたいで少しトキめいたけれど、プライベートとパーソナルスペースをガリガリ削られる苦行だ。
「星南」
「はっ、はいぃ!!」
「なにビク付いてんだよ。落ち着きを持て」
胃に穴が空いたら、一人にしてもらえるかな。多分無理だろう。ならば逆に、始終側に居ても気にならない存在は何か。
…………お友達、とか?
ダヴィドさんからは、完全に初孫みたいな扱いを受けている。一応、不服だ。エルネスさんは、塾の講師と生徒だろうか。フェルナンは…………
「急に止まるな。ふらふら歩くな!」
嫁と姑かもしれない。
これは努力が必要だ。心の平穏は自分で掴む。星南は拳を握った。
「フェルナン!私とお友達になりましょう!!」
「何で急にそうなった?」
新たな頭痛の予感がする。




