2-19:ピヤタ
嫌な名前だと思った。
そんなところにまで皮肉を利かせるあたり、流石と言うべきか。エヴァは目を細めて亡き妻を思い出す。この秘密を教えるとしたら、彼女しか居ないからだ。
――――クレール、君は。
どうして問題ばかり起こすんだ。そのツケを払うのは、何時だって僕なのに。久しぶりに味わう諦めの境地は、やはり苦い。眉間にシワを寄せたエヴァは、諦めて背中のボタンを外し、制服のシャツを脱ぎ捨てた。
「…………見たいのは、これ?」
「それが暗青の刻印ですか」
エルネスの声に、意外と普通だな、とダヴィドが驚く。これは他の祝福印より色が暗い、その程度の違いしかない。
「よく知っていた、と誉めるべきかな。どの水の神人にもある訳じゃないのに…………」
「しかしその祝福印が無くても、水の血筋は他種族を受け入れませんが」
「それはそうだよ。これは祝福印だから、祝福という側面もある」
エヴァはシャツを拾って軽く羽織ると、人質の星南を呼んだ。やっと、エルネスから解放される。
これ幸いと手招かれるまま近寄ると、腕を引かれて抱きしめられた。
…………あれ?
そう思って離れようとすると、ぐっと拘束が強くなる。見上げたエヴァは、青い目だった。
「僕が今、暗青の祝福を使うと…………君はどうなるだろうね?」
「え?」
「もし予想通りなら…………白飾銀があったとしても、意識を失うだろうけど」
「な、なら、やめようよ?」
「何故?」
彼はニッコリ微笑んだ。身長差はゲンコツ二個分。だから顔が近くて気恥ずかしい。エヴァは細身だ。だから、どうにか逃げられる筈。そう思って掴んだ物は、ろくにボタンの留まらないシャツ。するりとはだけて鎖骨が見えた。
「引っ張らないでよ星南。背ボタンは苦手なんだ」
さっき、一人で脱いでたじゃん!!
助けを求めて背後を見ると、序にセーナも剥きますか、とエルネスが恐ろしい事を言っていた。
次に危ないのは、自分の服だ。神々しいエヴァの半裸を見た後に、比較対象になるのはイヤだ。そもそも私は、一度脱いでいる。二度目は断固拒否だ。
「ね、エヴァ!祝福耐性無いのって危ないんでしょ?私に祝福使うのは、危ないよね!?」
「…………そうでもないよ?僕と同じ祝福を持っていれば、君は同じ祝福を返すから、過剰反応で意識を失うかもしれない。持っていなければ、祝福を受けるだけになる」
「それ、どんな効果なの?」
「感覚に作用するよ。身体に害はないから安心して?」
「有害だって!」
暴れたらエヴァのシャツが脱げてしまう。だから結局、首を振るばかりだ。焦りが募る。そして誰も助けにも来てくれない。
「その祝福、効果範囲は?」
「この家くらいかな」
ダヴィドの声は全く以って普段通りだ。なんて四面楚歌。味方が居ない。微笑むエヴァは悪い顔になっている。まさか脱がされた腹いせなのか。だったらエルネスさんと、二人でやればいいのに!私を巻き込んでも、クッション材にはならないよ。むしろ一瞬でぺたんこになる。
「エヴァ離して!そんな祝福、受けたくないっ!」
「効果時間は短いよ。それにね――――」
青い瞳に自分が映る。深さを増して吸い込まれそうな海の色。なのに鮮やか過ぎて、どこか怖い。
「君が暗青の刻印を持っていれば良いと、僕は願っているよ。遅かれ早かれ試す事になったんだ。それが今でも変わらない」
ゴクリと唾を飲む。これはマジな目だ。服を脱いで変なスイッチでも入ってしまったのか、微笑む顔に、今まであった気安さがない。
「どうして水の女神は、身体に刻まれた運命の相手を、拒む事が出来たと思う?」
「パパが好きだったから…………」
ファザコンの女神様は、大人しく結婚しなかった。それはもう何千年の昔の事で、神話時代のおとぎ話だ。なのにその代償といったら、現代にまでしつこく残る優勢遺伝。女神は責任を取るべきだ。
「大神を好き、というのは女神の気持ちであって、肉体的にはそうじゃない。それを疑似体験できるのが、暗青の祝福なんだ」
そんなの体験したくない。私は家族が大好きで、それは恋とは違うもの。混同なんてしたくない。そういう気持ちは、操作してはいけないものだ。
身体が感じた事で、心が変わる?
そんなの、拷問と一緒じゃないか。
「ヤバそうだよエヴァ。やめよう?ね?」
一生懸命説得しているのに、面白そうだな、と空気を読まないダヴィドが笑う。
「つまり何だ?それを受けると、俺達はセナが疎ましくなる訳か?」
「感覚的にね」
お願いダヴィドさん、エヴァを刺激しないで!
目線で訴えても効果は皆無だ。エルネスは肩を竦めて、諦めろの体裁。フェルナンは溜息をついて、ひとりお茶を飲んでいた。こっちはピンチだというのに、あんまりだ。
「そもそも君達は水を求める性にある。身体的に求める反動が大きくなれば、逆にそれが辛くなり、疎ましくしか感じない。だから僕らは…………水の血筋しか受け入れられなくなったんだ」
そして女神は心を守る。自分固有の感情を。
「大神に唯一創れなかったもの。それを感覚から操作する祝福は、女神の執念なのだろうね。僕には、呪いにしか感じないけれど――――」
キーンと高い耳鳴りがした。あっという間に暗転する視界に、泣きそうなエヴァが見えた。
なんでなの。
消えゆく意識の片隅で、星南も泣きたくなった。
目を開けようとして、上手くいかない。顔に何か乗っている。それをどかして起き上がると、すっかり夜になっていた。
「まだ寝てろ」
フェルナンが近くに居て、貸せ、と手を伸ばしてくる。明らかに機嫌の悪い顔だった。
「…………だ、大丈夫?」
聞いただけなのにギロリと睨まれる。大丈夫じゃないのはお前だろ、と今度は頬を抓られた。
「いた、い、です」
顔を背けて文句を言うと、今度は舌打ち。これは相当機嫌が悪い。思わず、ごめんなさいと謝った。なのにやっぱり睨まれる。
「…………あの、みんなは?」
矛先を反らそうと聞けば、口元だけで彼は笑った。うわぁ、これは地雷を踏んだ。不機嫌顔が嗤うと、怖さに迫力がプラスする。
「ダヴィドさんはピヤタの親木伐りに行くって暴れて、一部屋半壊。エル兄はずっとウロウロしてたと思ったら、目を放した隙に変な薬飲んで起きやしねぇ。エヴァは水都に行くって聞かないし、様子見に来たら、お前は寝ながら泣いてるし…………冷してやったら直ぐに起きるし!何なんだお前ら!!俺に恨みでもあんのか!?」
「ありませんッ!!」
色々大変だったようだ。思わず、手に持つタオルへ視線を逸らす。詳しく聞きたいけれど、これ以上キレられるのは怖い。彼は面倒見が良くて、パーティーのママとウスタージュは言うけれど…………こうなってくると、ママと言うより、もはやアレ。
「中間管理職」
「はぁ?」
更に怖い顔をされた。損な役回りって事だよ、と慌てて言い換えたら眉間にシワが増える。しまった、これも失言だ。
「…………損ならやらねぇよ!」
持ったままのタオルを取られ、そのまま距離を詰められた。緑と黄色。据わった二色の瞳が細くなる。ぞぞっと悪寒を感じて身を引くと、寝泣きは充血しないのか、と彼は仏頂面で呟いた。
「…………私、泣いてた?」
「じゃなきゃ冷やさねぇよ!」
「すみませんでした!お手数おかけしました!!」
勢い良く頭を下げる。シーツに長い影が落ちて、コツンと脳天を叩かれた。地味に痛い。
「いちいち謝るな」
「でも、忙しい時に手間かけたから」
「…………謝まりゃ許されると?」
「それは」
口ごもると溜息を吐かれる。怒らせたく無いのに上手くいかない。寝起きの頭って、スッキリ冴えてる筈なのに。どうしてか、余計な一言ばかり思い付く。
「いいか、俺が損してるように見えるなら、それは俺のせいじゃない」
「ごもっともです」
「お前は俺の損なのか?」
「…………ならないように頑張りますッ!」
「それでいい。ったく、そんなんだと誰かにつけ込まれるぞ。もっと堂々としろよ。じゃなくてもチビっこいのに、それ以上、小ささアピールしてどうすんだ!」
「すっ、好きで小さい訳じゃ!」
そこは抗議だ。睨むと鼻で笑われた。小バカにした態度が余計にムカつく。ケンカはしたく無いけれど、売る気ならば買うのもアリだ。
「私が小さいのは…………っ」
そこまで言って、星南はぽかんとした。フェルナンが急に、優しげな笑みを浮かべたからだ。
二色の瞳がゆっくり瞬き、とろんと視線を絡め取られる。彼は言い聞かせるように、低く囁いた。
「成人は五十歳。まだ身長が、伸びるかもな」
「え?」
「…………お前の胴がながーく伸びるように、俺が祈ってやるよ!」
見惚れた笑みが、一気に怪しい雲行きになる。
「っやめて!胴長にするのはやめて!!」
思わず背後の枕を掴んで、振り上げた。顔に熱が集まる。一瞬でも彼に心奪われたのを、本人に見られたのだ。羞恥で死ねそう!標準おこのフェルナンが笑うなんて、変だと思った。わざとやったに違いない。
「フェルナンのバカ!」
勢いを付けて投げようとした枕を、片手で阻止される。それを見上げた瞬間、ツーっと脇腹をなぞられた。
「ひゃぁぁぁっ!」
「神人の子どもは、こうやって触りながら、成長を願うらしいぞ」
「なにそれ!?やだやだ!胴長は絶対にイヤ!!」
「心配すんな。腰から下はダヴィドさんに任せとけ」
「どういう事!?」
「エルネスさんは…………」
またフェルナンの手が伸びてくる。ぎょっとしてベッドの端に縮こまると、優しく髪を撫でられた。
「髪、随分伸びたの気付いたか?」
「え?」
「犯人はエルネスさんだな」
「な、なんで?」
自分の髪を触る。伸びたのかは分からない。けれど確かに、目に掛かって最近邪魔だ。
「鏡、は…………?」
「ない」
「じゃ、じゃあいい…………ね、ねぇ、どうしてエルネスさんが犯人なの?」
めげずに聞くと、フェルナンは大きな溜息をついた。
彼女が落ち込んでいなくて良かった。良くも悪くも、通常通り抜けてボケて元気だ。エヴァに酷い事をされた自覚が無いのか、それすら覚えていないのか。見上げてくる灰色の瞳は、少し苛めただけで潤んでいるのに。
水の神人。
女神の末裔。その威厳など皆無の星南が、どうしてこうも狙われるのか。どうして始まりの十人のエヴァに、目をかけられる?アイツは同族の神人に、慈悲など欠片も見せなかった。蛇人が大切というのだって、疑わしいものだ。
「エルネスさんの父親は神人だぞ。子どもの育て方を知らない筈がないだろう?それに…………一番お前に触ってるのは、誰だ?」
「…………ソウデスネ」
よく触られるような気はした。エルネスさんはあの容姿。不快になるのは難しい。別に嫌いじゃないし、触るなと言うのは自信過剰みたいで出来そうにない。だから結局何かにつけて触られる。
しかも星南にとって、見た目の三十路は随分大人に見えた。なのに彼は二百歳を越える老人で、そんな年齢を感じさせない性格をしている。だから、取り扱いがイマイチ分からないのだ。
第一、長髪は嫌いと言っていた。
なのに、なんで髪?
「…………ほっといても伸びるのに」
「神人は髪を伸ばすもの、だからじゃないか?」
「そうなの?じゃぁ、エヴァは?」
思いっきり短い。それで余計に少年っぽく見える。パーティー最年長の貫禄などサッパリない。
「アイツは知らねぇよ。五百歳なんて嘘言うくらいだ。他にも何か隠してる…………」
フェルナンはそう言って、取り上げた枕をベッドに抛る。お前何か聞き出せよ、と無茶な注文を付けられ、星南はぼやいた。
「えーそんなの無理だよ。エヴァってなんか変だし。実は不思議系?五百歳が嘘ってなんで?それより、祝福を使われた後ってどうなったの?何時ここから…………」
「一度に聞くな。何度言えば分かる!」
すぐさま怒られた。首を竦めてフェルナンの顔色を窺うと、桶でタオルを濯ぐ横顔が見える。シャツの袖を肘までめくり、筋の浮かぶ腕がぎゅっと水を絞った。
「え、えぇと、エヴァは?」
「…………水都に行きやがった」
「なんでかな…………」
「此処には空間祝福がある。ハッキリ言えば、俺達が居なくてもお前の身は安全だ」
彼はジトっと星南の方を見た。
何故、一番知りたいのがエヴァなのか。もっと嫌うとダヴィドは踏んで、彼の強行を許した筈なのに。それが失敗なら、あの生きた化石の良い様になったという事だ。
これは面白くない。
「エヴァを恨んでいないのか?」
「…………なんで?」
不思議そうな顔に、フェルナンはまた溜息が零れた。
「下手したら、死ぬかもしれないんだぞ?なのにアイツは祝福を使った」
「気を失うくらいだって、言われたけれど」
「それを鵜呑みにするなよ。少しは疑え!」
「…………そんな事言われたって」
現在無事で何もない。
恨む理由などあるものか。
「そこまで、いかないんだよね」
星南はポツリと呟いた。
「私ってツイてないなって、思ってさ。もちろん怖かったけど…………」
――――遅かれ早かれ試す事になったんだ。
エヴァは思念語を使う。よく考えれば、私達の会話が共通語なのかすら不明だ。顔色を窺ってフェルナンを見上げると、通常モードの不機嫌顔になっていた。
「誰かに恨まれるって、怖いよね。だから私もしたくない。恨まれる何かが自分にあるって思うのも、怖いし。どうしたら他の人に好かれるか考えて、相手にまで頭まわんないよ。私は何時も、自分ひとりで手一杯」
多分、上手く笑えなかった。だからか、フェルナンの眉間に皺が増える。慌てて頭を下げて、謝罪の言葉を飲み込んだ。それが分かったかのように、特大の溜息が降ってきた。
そう言えばコイツ、重度の平和ボケだった。
恨むなんて高等技術は、到底無理らしい。ならば、次にする事は一つだ。
「水の始まりの十人、姓を全部言ってみろ」
「な、なんで?」
「単なるテストだ。覚えてなかったら、夕飯はピヤタにするからな」
「えぇぇー!!」
そのボケた存在を前面に出し、エヴァの秘密を探るらせる。星南の物覚えは悪くない。出たボロに気付く知識があれば、十分だ。
その日の夕飯は、もちろんピヤタだった。




