2-15:木蔦の緑
そのまま結局、誰も眠らずに夜が明けた。
身支度をと部屋に残された星南は、制服を着て石皮靴の紐をぐぐっと締める。ローブの掛け金は出来ないままなので腕に下げて廊下に出ると、すぐフェルナンに叱られた。
「ちゃんと着て来い!」
言い訳の間もなく、ローブを腕から奪われる。そのままサッサと着せられてフードを乱暴に下ろされた。
「ここまでやって準備だ!それくらい一人でやれ」
「…………あ、ありがとう」
朝の彼は三割増しで、不機嫌顔だ。掛け金のコツを聞ける雰囲気はない。
「おはようございます、セーナ。ダヴィドとエヴァが待っています。準備がいいなら行きましょう」
「あの、これからどうするんですか?」
緑のフードを揺らせ、エルネスは鏡の湖へと、聞いた事のある地名を口にした。確か、帝国で一番大きな湖だ。
「ココって帝都の近くですよね?馬なんですか?」
「途中からは馬になります。酔いそうですか?」
「…………水馬じゃなければ」
エヴァと同じ事を言うんですね、とエルネスが笑う。隠し事はしたくないけれど、自分のせいで他人の秘密をバラしたくもない。困った笑顔は、不安そうに見えたようだ。
「大丈夫ですよ、荷馬は使いません。悪路を跳ばすので、冥馬で行きます」
勝手知ったるエルネスは、次々と角を曲がっていく。綺麗な内装は段々薄暗く、薄汚れて、とうとう石煉瓦だけになった。壁で燃えるガス灯を頼りに、黙々と進んで行く背中を追う。どう考えても地下だ。馬がこんな場所に居るのだろうか。冥馬は紺色で、帝国では軍馬に調教される事が多い。
襲撃を予想しているのかな。
全員で出て行ったら、目立つ事は確実だ。攪乱作戦が台無しになる。
「エル、そこで止まってくれ」
ダヴィドの声でエルネスが足を止めた。前を窺うと、地下室のような部屋に場違いな半裸の人が見える。長い黒髪に、上半身は白い布をたすき掛けにした一枚のみ。見える肌には所どころ、青緑の刺青が入っていた。
「この次に鏡の湖へ」
「分かりました」
丁寧に話すダヴィドに、彼が神人なのだと気付く。祝福印が少ないのは、力を封じているからだろうか。
「お待たせしました。此方へ」
呼ばれて進み出るエルネスに続くと、君は、と声をかけられた。もしかすると、話してはいけないのかもしれない。星南の足が止まると、すぐにエヴァがやって来た。
「あまり怖がらせないで。彼は初陣なんだ」
「この子が君の弟かい?随分小さいね」
「気にしてるんだ、言わないでやって」
布石を敷いていたのだろう。微笑む彼の頬には、緑の軟骨。祝福印を隠すにしても大胆すぎるし、雑すぎる。しかも何とも言えない悪臭がした。
「蛇人の兄弟くん、早くお並び」
「はーい!」
エヴァはとても楽しそうだ。彼を囲むように並ぶと、すぐ移転回路が開かれる。娼館から帰る客を送る為に、それはこっそりと地中を伝う。血の薄まった神人には特定が難しくなるらしい。真っ暗なエレベーターに乗るような、密室特有の感覚がした。
そして明るくなった先は、もう別の部屋だ。
山小屋だろうか。高い天井には木の梁が渡り、家財道具は何もない。窓の外は日の光に満ちていて、青々とした草木が眩しく見える。そこで鞍を付けたままの馬が、のんびり草を食んでいた。
「此処からは、注意が必要だ」
ダヴィドがそう言って進み出ると、他のメンバーも足を詰めて輪が小さくなる。
「襲撃される可能性は低いが、内情に詳しければそうとも限らん。もしもがあればエル、お前がセナを最優先で鏡の湖へ届けろ」
「分かりました」
「フェルナン、色術式は控えておけ」
「了解」
「エヴァ、お前はギリギリまで何もするな」
「なぜ?」
頬の軟骨を拭きながら、彼は首を傾げた。
「セナには蛇人疑惑と殺しの容疑、その他諸々の疑いが掛かっている。一人で背負わせた方が守りやすい」
「僕が蛇人っぽいとマズイ?神人でも困るんだ?」
「そうだ。水の神人は青石の国に帰った。そこから一人出て来たなど、誰も知らない」
「だからって、星南を餌にする必要はある?」
ダヴィドがこちらを見る。要するに囮だ。分かっていると頷くと、微妙な顔をされた。
「お前は男だと思われている。敢えてそうしたが、向こうは俺達の顔を知っている筈だ」
首を傾げると、いいか、とダヴィドは自分を指さした。
「帝国で金糸雀と言えば、顔の分かる奴が殆どだ。なのに攻撃してくるのは何故か。大義か金か?どうでもいいが、蛇人として狙っているなら、間違いなく顔を攻撃される」
「顔、ですか?」
エルネスが揃えた指を、左肩から右へと動かす。首を落とすというジェスチャーに、やっと忘れかけていた雨の草原が甦った。
「殺しの報酬は、首が無ければ出ない。また、誰の首か分からない場合も出ない。蛇人として長く使いたいなら、顔が原型を留めていると不便だ。殺しの奴らが何時までも狙ってくるからな」
顔が原型って…………
殺しもそうじゃない方も怖過ぎる。女とバレれたら、今度は慰み者か後宮だ。立場は一向に悪いままだった。
「鏡の湖で、月桂樹の君が待っている。エルネスと一緒にいれば、全力で守ってくれるだろう。離れるなよ?」
「はいっ!」
「神人は基本的に死にません。大丈夫ですよ」
それは大丈夫なのだろうか。
エルネスは行きましょう、と微笑んだ。情けなく震える手を差し出すと彼が取り、上にダヴィド、エヴァと手袋に包まれた手が重なっていく。最後にフェルナンが手を添えて、星南を見た。
彼らに円陣を教えたのは、一度きり。それを覚えていて、ちゃんと使ってくれるのは嬉しい事だ。
「怪我なく、無事にっ!」
声を上げると、重なる手が圧力を増す。
「了解だ」
ダヴィドが締めて、円陣がとける。守られるだけなのに、気まで使わせてしまった事に気が付いた。
なんて情けない!
「よろしくお願いしますっ!!」
「その意気だ、行くぞ?」
冥馬が四騎、森へと駆ける。帝都周辺の直轄領と隣接するこの一帯は、古くは黒き土地と畏れられたヴェリエの領地。エルネスの祖母であり、風の始まりの十人のひとりを擁する森林地帯だ。と言っても林道は、ぬかるんだ下り坂。湖面を臨む別宅を目指して縦列陣形で突き進む。
もしもの時は、エヴァが祝福の力を振るうと約束してくれた。だから鉄製の一の剣を青は持たず、星南以外は白飾銀を身に着けていない。それは間違いなく臨戦態勢だ。
「ここまで来ればいいだろう」
先頭のダヴィドが馬を止め、片腕を直角に上げる。これがギルドの正式な労いのポーズだ。それぞれが腕を上げ労いを交わす。近くに月桂樹の君が居るのだろうか。辺りを見回すものの、木立の合間に湖は見えても人影はない。
「早かったようです。まだ居ません」
「待って、水が変だ」
エヴァが声を上げる。ダヴィドが首を振り、感知内に人の気配がない事を示した。
「祝福の気配…………これは結果になるかも!」
「なに?」
対岸と空を映す湖面は、その名の通り鏡のように輝き、澄んで静かだった。
「どう思う?」
「水の神人しかいない。此処は青石の国の外だよ?どうって言われても、味方には思えないな」
「帝国内に水の神人は居ませんからね…………」
とぷん、と湖から音がした。
凪いだ水面に大きな王冠を作り、湖は一気に氷結し始める。ダヴィドが行け、と鋭く叫んだ。エルネスは左の手袋を抜き去ると同時に馬を走らせ、全速力の襲歩を促す。軽いとはいえ乗り慣れはい初心者が一緒。長く走らせる事は出来ない。
神人が相手なら、広い場所は不利か。
彼は鍾乳洞が多い山側へ進路を取った。こうなってしまうと、月桂樹を頼る事は出来ない。風の神人は、火や水の神人よりも遥かに劣る。人になったのが神の半分だけだからだ。
「鞍を離して、私の腕を」
後ろからエルネスが指示を出す。
「えっ!」
星南の身長では、足で馬を挟みきれない。手を離したら確実に落ちる。
「無理ですっ!」
返事と共に手綱が引かれ、馬が大きく前足を蹴り上げた。鞍から手の離れた星南に腕を回し、エルネスは指を鳴らす。そのまま全ての詠唱を省いて古き緑を発動し、振り落とされるまま飛び降りた。色づく風が二人を木の上へと押し上げる。
「っ!」
乗っていた馬が一瞬で氷付けになった。エルネスが舌打ちし、私に掴まって、と顔を寄せる。慌てて首に腕を回すと、足を抱えられた。
『偽りなき色 変わりなき色 不変の緑よ 絶え間なく 影より出でし矛先となれ――――樅の緑』
発動した色術式の風を受け、枝の合間をすごい速さで移動する。途中でエルネスはローブを落とし、方向を変えて指を鳴らしては色術式を使い続けた。
追いかけられている。
振り落とされないように腕に力を込めて、見える後方の景色は葉っぱと枝しか分からない。相手を探していると、森の緑が冷気と共に白く変わっていく。それは急速ともいえる変化だった。
「エルネスさん、ヤバいです!」
とても逃げ切れるスピードじゃない。
「私をおいて逃げて!!」
「馬鹿言うんじゃありません!死にたいと思ったら、神人だって死にますよ」
「でもっ!」
このままじゃ逃げきれない。
彼の荷物だ。自称死なない神人なんて、抱えてまで逃げてなくていい。何かあったら死んでしまう、エルネスさんこそ、一人でも逃げるべきだ。そう思うのに、腕は震えてしがみ付くばかり。指の鳴る音。エルネスは無詠唱の古き緑で高く空に飛び上がる。荒く息を吐き、また指を鳴らした。
『神の作りし 始まりの色 春の地を染め 初めを謳い 手折るものには屈する勿れ――――古き緑っ!』
自由落下の途中で色術式は発動し、更に宙へと吹き飛ばされる。足元の森は氷って真っ白だ。フードが脱げて、随分遠くに湖が見えた。
そこから火柱が上がる。
「大丈夫、すぐダヴィドが来ます」
エルネスは、また指を鳴らした。
『昼の闇 永久なる緑 絶える事無き針の葉に 終わりなき死を静かに運べ 朽ちぬ闇より勝るもの無し 久遠の慈悲を与え給え――――糸杉の緑ッ!!』
一際、強烈な風が巻き起こる。氷の砕ける高い音と爆発したような轟音。落ちる勢いより早く、青空に吹き飛ばされる。地上に居たら氷漬け。逃げ道は空にしかない。
「ダヴィドっ!」
『動くなよ!!』
ダヴィドの声と同時に、地響きのする重い咆哮が響く。空中で身体が反転し、クレーターのように抉れた地面が小さく見えた。想像以上に上空だ。落ちたら凍る以前に色々マズい。
揺れる視界に、赤い飛竜が滑り込む。
鱗を白く反射させ、飛膜は鮮やかなオレンジ。ギザギザの歯が並ぶ口を開け、それはダヴィドの声で叫んだ。
『セナを背負え!』
「分かってますよっ!!」
叫び返したエルネスの手が、星南の腕を掴む。
「背中に回って」
「えっ!?」
肘を強く握られて、痛みで力が緩んだ。そのまま彼が身体を捻ると、ローブと一緒に星南ははためく。
「っ!」
両手の空いたエルネスは、制服の飾り帯を引き抜いて腰に回した。それで星南と自分を気休め程度に固定する。
『エル!』
影が落ちる。何時の間にか背後から赤い竜が迫っていた。体に対して長い首が伸びてきて、鋭い琥珀色の瞳が見える。
『圧は調整する、掴まれ!』
バサッと羽ばたく音。エルネスが腕を伸ばす。竜の首回りには、ふっさりとした毛が生えていて、彼はそれを掴んだ。
「うぅっ!!」
瞬間、押しつぶされそうな圧力がかかる。竜は大きく羽ばたいた。
『旋回するぞ!』
「ダヴィド、加減して下さいっ!」
エルネスが叫ぶものの、真横に森が見える。傾く背中に風圧でくっ付いているだけだ。ちょっとした弾みで落ちてしまうかもしれない。腕の感覚が恐怖に飽和して、とうとうズルリと緩んだ。
「セナッ!落ちますよ!!」
そんな事を言われても、指先まで震えている。気を失わない事が奇跡のようだ。
「ダヴィド!!」
『エヴァが即片付けると言っていた。終わるまで地上に降りれん。凍るぞ!』
二人乗せているから、飛行速度は落とせない。エルネスは鬣を掴む自身の手に牙を立てた。
『大樹に添いし蔦の葉よ 艶やかなりし影の葉よ この手に寄りて悪しきを祓え――――木蔦の緑』




