2-14:明るい声
お宿のルールとして、客は第一に入浴する義務がある。もちろん、そんな事は知らない。ダヴィドとしても、女性に続き男性不信になられては困る。保険を掛けて、風呂前に二人の女性を待たせておいた。
しかし、それを見た星南が顔色をなくす。肌を見せる事さえ嫌う初々しい反応と、ダヴィドは笑えなかった。トラウマを持たせた責任の一端が、自分にもあるからだ。女が駄目なら仕方ない。彼は苦肉の策に出た。
「あの馬鹿力!」
エヴァが扉の前で項垂れる。朝までに出て来いと、長期戦覚悟の台詞を吐いて、二人は風呂場に閉じ込められた。
「どうしよう」
「どうしようね」
顔を見合わせる。悔しそうにもう一度扉を叩いて、エヴァは頭を振った。
「祝福の使えない神人はこんな感じって、見本になっちゃったね」
「…………ごめん」
「いいよ、分かっていてしてるんだから。ほら行っておいで。僕は此処で、ダヴィドに嫌がらせでもしてるから」
申し訳無さそうな顔で頷き、星南が浴室に消えて行く。エヴァは扉に背を付けて、少しだけ力を解放した。
「もっと穏便な方法があっただろう?」
「そうだったか?」
木戸の向こうで声がした。娼館の扉は基本的に薄いのだ。本気になれば、星南でも壊せただろう。けれどこの状況の落とし前として、エヴァは共犯になる事を選んだ。
「君はあの子を、どうするつもり?」
忙しい身であるのに、ダヴィドはしっかり付いて来るつもりらしい。序列一桁のパーティーは内勤だ。しかも金糸雀は第一位。替えの効かない面々が、危ない橋を渡る必要などない。
「…………どうもせん。俺はただ、約束を果たすだけだ」
何の感情も乗らない声に、エヴァは眉をひそめる。すっかり大人になったものだ。歳を重ねると可愛いげが無くなる。カマを掛けて冷たい声で言い返した。
「彼女を代わりにするの?」
「そうじゃない。蛇人でも神人でも変わらん。あの日たまたま拾った事に、俺は奇跡を信じてみようかと思っただけだ」
「何故、聖ネルベンレートに?」
続けざまに問うと、ダヴィドが苦笑する。それはどこか自嘲を含んでいた。
「俺達は、十年置きにネルベンレートに行く。天界の庭の由来となった姫君の、喪に服す為にな」
扉の向こうで懐かしい名が紡がれる。美しき水の神人、始まりの十人のひとり。ダヴィドの心を今も離さない女性は、既に身重で既婚者だった。
「困らせていた癖に」
「そうだな。俺は彼女に好かれていなかった」
「なのに律義だね」
「クレール様は、いないんだな?」
青石の国に行くまでも無く、答えを知る事になってしまった。長い間諦めていた事だ。ダヴィドは癖で額を押さえたが、思ったほどに心は傷まなかった。その事に自分で、酷く落胆する。
「いないよ。何処にもいない」
エヴァの声が沈んだ。ずっと探していたけれどと、彼は言葉を詰まらせる。気配が悲しみを帯びて、暗く重くなった。神人は骸が残らない。神族の末端故に、死とは大気に還る事を意味する。魂の安らぎを冥界に求める事は叶わないのだ。
「僕は…………クレールを救う事が出来なかった。血を分けた蛇人達よりも守らなければならなかったのは、ただ一人だったのに」
「神人は殺しを好まない。祝福だって、直接殺めるようなものは無いと聞く」
「励ましはいらないよ」
気配が動く。濃厚な水の気が遠ざかり、ダヴィドは詰めていた息を吐き出した。あれで加減しているのだから、恐ろしい。だからこそこの偶然が、奇跡かもしれないと思った。
クレールの夫であるエヴァは、本来こんな場所に居る筈のない神人だ。だから彼は名乗らなかったし、祝福印を封じた姿で現れた。
「セナは彼女の末裔なのか?」
薄暗い廊下にダヴィドの呟きが響いた。
娼館の浴室は中央に丸い池があり、そこに天井から湯が落ちている。湯船はもちろん深いし、魚が泳いでいた。水を綺麗にする為に飼っているらしいが、何故、煮魚にならないのか。泳ぎに自信のない星南は掛け湯でどうにかその場を凌ぎ、待っていたエヴァと交代して浴室から解放された。
「ご飯は何だろうね?」
エヴァはすっかりご機嫌で、スタスタ先を歩いて行く。襟の広い部屋着のような物を着ているので、首筋と右手に青い祝福印が見える。星南は制服のままだ。
「魚が食べたいな。内陸だから無理かな?」
「エヴァは魚が好きなの?」
「ふふふ、どう思う?」
「どうって…………食べたいくらいは、好きなんじゃない?」
「星南は?」
「うーん、何でも食べられるけど。特に魚好きって訳じゃないかな」
そう答えるとエヴァは、魚の殆どは水の女神の創造物で、と言いながら振り向いた。
「共食いになっちゃうかもね」
「えっ!?」
「星南が水を恐れなくなったら、水都に連れていってあげるよ」
非常に楽しげに言って、彼はまた歩きだした。水都とは水中都市の事を言う。水の神人や蛇人族の多くは、他の種族が訪れない水底に住んでいる。
水の神人は溺れない。
星南には日本で溺れた記憶があるし、水嫌いを自負している。それを話したらエヴァは、この世界の水は君に優しいよ、と苦笑していた。
だからといって、泳ぎたいとは思わない。
水中都市に住むなんて、真っ平御免だ。陸上で身をを立てて、金糸雀の一員としてやって行けるようになりたい。彼らが病気の子どもを殺さずにすむ世界に、どうしたらなるのだろう。毒を飲んでまで剣を持つ必要はあるのだろうか。思った事は壮大で、おんぶにだっこの現状では、とても口に出せなかった。
「ねぇ、エヴァ」
彼はくるりと振り向いた。五百歳らしさのない可愛い顔が、問うように微笑む。
「毒を食べた事ある?」
「あるかもね?神人にはほとんど効かないよ」
「でも効果はあるんだ?」
「即効性なら」
エヴァは星南が何となく不安なのだと分かった。どう見ても金糸雀の面々は、彼女に与える情報を選んでいる。それが優しさなのか利害なのか、一概には言えないけれど。
「知らない事が多いと不安だよね。大丈夫、神人は望まぬ限り死なないよ。それに僕達は、星南が薬を使わなきゃならない下手をしない予定だし」
「…………私はまだ見習いで、薬は使えないけど」
「そうなの?」
星南は首を傾げた。
心にある、モヤモヤとしたものの正体が分からない。折角、屋敷の外に出たのに、どうしても軽い気分になれなかった。
「お腹減ったなぁ。星南は?」
「…………あんまり」
「それでも食べなきゃ駄目だよ」
こちらに戻って来たエヴァは、星南の手を掬い取る。そのまま歩き出すので、彼に引かれて歩調が速まった。
「マナー違反だよ」
少し上にある青みの灰色を見上げて、注意する。ダヴィドのせいで、すっかり口癖になってしまった。
「神人は我儘だよ。生まれたら最後、死なんてあって無いようなものだ。やりたいように生きるしか、する事がない」
彼はやっぱり笑っていて、ご飯食べてさっさと寝よう、と足を速めた。そのせいで星南は走る事になる。気持ちが沈むと、良い事が思いつかない。それを思い出して口角を無理やり上げる。
へこたれてる暇なんて、無い!
もりもり食事をして美人の踊りに赤面し、ダヴィドにからかわれて怒っている内に眠たくなってきた。慣れない馬での移動が、思いの外体力を削っていたのだ。床に散らばるクッションに倒れ込んで、星南はすっかり寝入ってしまった。
「僕達、信用されてるんだね」
エヴァが見下ろして言うと、俺には幼くしか見えん、とダヴィドが毛布を掛ける。
「此処に寝かせるの?」
「ベッドに運んでも良いが、夜守りはどうする?出来るのか?」
「僕?」
少年のような見た目の彼は、不意に零れた欠伸を噛み殺した。
「僕も此処で寝ようかな。二人まとめて守ってよ」
「都合のいい奴め」
ダヴィドは短く息を吐く。此処で彼に寝られると少し面倒だ。何がと言えば、寝台に引っ込めないと女達の相手をしなければならない。十人は流石に多いし、そんな事をしていると守りが薄くなる。
「まとめて面倒見てやるから、閨に行くぞ」
そっと星南を抱き上げ、顎でエヴァを急かす。彼は名残惜しそうな踊り子達を流し見て、あんなに呼ぶからだろ、と冷たい視線を向けてきた。
「この人数を集めた、というのがミソだ」
「アシャール家のボンクラ息子に、拍車を掛けるつもり?何処まで自分の評判を落とせば、気が済むの?」
「評判など犬に食わせてしまえ、邪魔だ」
エヴァはダヴィドを見上げて苦笑した。
「いい性格なのに、君は血が濃過ぎるんだね」
夜中だと思う。
目のさめた星南は、隣で丸くなるエヴァに微妙な視線を向け、自分の姿に頭痛を覚えた。神への願いと呼ばれる襟とシャツ、ボトムはスリットの深すぎるショートパンツのみだった。室内は暖かく何も掛けずにベッドに転がされている。
薄着で寝ないと風邪をひく。
というのが、ダヴィドの自論だ。透ける天蓋の向こうに、この格好にしただろう犯人が見えた。彼は嫌なら女に慣れるんだな、と笑うだろう。けれど星南の慣れた事といえば、薄着にされる方だ。
「…………おはようございます」
「まだ早いぞ」
顔を出すと彼は、ストール片手にやって来た。
「寒かったか?」
「いえ、あの…………」
「便所はソコだ」
ダヴィドが天蓋を開くので、正座をして足を隠した。そのつもりが、スリットが開いて太ももが露になる。慌ててシャツを引き下げると、彼は小さく笑ったようだ。
「骨が浮いている」
「大きなお世話です!」
どうして見た感想を言うのか。真っ赤な顔で睨むと、わしゃわしゃ頭を撫でられた。
「成人まで、あと二十年。慌てる事はない」
ストールを星南に掛けて、彼はくつくつ笑いながらソファーに戻って行った。星南は大判のストールを腰に巻き、素足を床に下ろす。冷たい石床だ。出した足を思わず引っ込め、靴を探すも見当たらない。ダヴィドの方に視線を向けると、額を押さえて肩を震わせていた。
「ダヴィドさん、靴を隠したんですか」
「そんな事をして何になる」
琥珀色の瞳がこちらを向く。ガス灯が薄暗いせいで、彼の笑顔が意地悪そうに見えた。だったら何をしたのだろう。背後でエヴァは熟睡中。呑気なものだ。
「私の服、どうしたんですか?」
「さあな?」
「…………ダヴィドさん、寝不足ですか?」
「まぁ、そうなるな」
足を組んで、そこに肘をついたダヴィドは、何故かニコニコしている。他に何か言ってみろ、とでも言わんばかりの様子だ。彼は何かと優しいし、過保護で無駄に構ってくる。こんな風に困らされた事はあまりない。
機嫌悪いのかな。
星南は首を傾げて、寝起きのスッキリ頭で考えた。折角娼館に来ているのに遊べていない彼。まぁ嬉しくはないが、不機嫌にもなるのかもしれい。だからって、どうぞ行って下さいとは言えない。信頼しているダヴィドが、欲の捌け口を求めるなんてやっぱり嫌だ。
「あの、こっちに来ませんか?」
天蓋を開いて呼ぶと、俺にどうして欲しい、と彼は溜息交じりに苦笑した。
「二人で寝ててごめんなさい。私、大人しくしてますから、少し横になりませんか?」
それで疲れが緩和するかは分からないが、他に良い案が浮かばない。出来る事は寝不足の改善くらいだ。片手を出して名前を呼ぶ。女性に手を出されたら、男性は断れない。断る事が出来るのは、身分が上の場合と、相手が嫌いな時だけだ。
「セナは、もっと頭を使った方がいい」
失礼な事を言われたが、優位に扱われると、全ての状況が優位だと勘違いしてしまう。星南は重ねたダヴィドの手を引いて、ベッドに引きずり込もうとした。彼が素直に寝そうには思えなかったのだ。
抵抗されると思った。
だから思い切り引っ張って、勢い余ってベッドに倒れ込む。その上にダヴィドが降ってきた。彼は笑っている。優しいような甘いような、見た事のない顔だった。
「っ!」
「ベッドの上に男を呼ぶな。自分で招き入れるなど、以ての外だ」
オレンジ色の頭が首筋に埋まる。くすぐったいし、ぞわぞわするし、横を向けばエヴァが寝ている。頭の中が混沌とした。少し休んで欲しかったのに、ダヴィドの姿勢は太陽礼拝のアレだ。敷物よろしく敷かれている星南は、硬い身体を押す。足はストールを踏まれていて動かせない。
「ダヴィドさん、横になって!」
「聞こえんな」
ゆっくりと紡がれる言葉。暖かな息か肌を撫でる。何だか急に、恥ずかしくなってきた。
「くすぐったいです!横になって下さい!!」
「寝言のうるさいシーツだ。どうしてくれよう」
「…………どうしてくれようは、僕のセリフなんだけど」
横でエヴァが起き上がった。
「何してるの、ダヴィド?」
「エヴァ、違うの…………」
星南は弱り切った顔でエヴァを見た。後悔はしたくない。嘘も懲りごりだ。
「私が押し倒したの」
「…………押し倒されてるのは、君だけど」
「それは結果で…………」
自分の失敗を語るのは、なんと惨めなものだろう。星南はダヴィドが寝不足で、どうにか寝かせようとした経緯を話す事になった。
「非力な女の子に庇われる気分はどう?」
「悪くない」
エヴァはダヴィドの横っ腹を足蹴にする。彼は痛がるフリをして星南を開放すると、明るい声を上げて笑い出した。




