2-12:普通
森の奥にいたのは、一頭の大きな馬だった。
灰色の毛並みに青い目。鬣と尾が白いところまで、ナディーヌ号にそっくりだ。
「おいで、ハーフ水馬のお嬢さん」
エヴァが呼びかけると、長い顔がこちらを向く。
「ミズノ…………」
「そうだよ。君がアリスだね?」
ブルルと馬は鼻を鳴らした。アリス姿の私が、アリスという名の馬に会う。ちょっと複雑な気分で笑いかけると、青い瞳が瞬たいた。エヴァが言っていた待ち人とは、馬の事なのだろうか。鞍も荷物も背負ったままで、森をさ迷う筈がない。
「エヴァが呼んだの?馬と話せるの?」
問いかけると、エセ少年はニコニコと笑顔になった。
「ふふふ、秘密。星南はどうなの?」
「私は…………話せるみたい」
近くに来たアリスに、手を出してみる。当然とはいえ、ナディーヌ号との見分けは付かない。けれど、この世界の馬はとても人懐っこい生き物だ。大きな顔を寄せてきた。
「こんにちは」
「コンニチハ」
「あなた、迷子なの?」
「マイゴ?」
どうやら通じなかったらしい。道に迷ったのかと聞くと、違うと答えてくれた。
「アリスは昨夜から、この森で待っててくれたんだよ。さぁ、お腹空いただろう?」
エヴァはそう言って、馬の荷物を漁り始めた。
「勝手に良いの?」
「ほら、手伝って」
昨夜から待っていた馬。水の血を解放していたエヴァ。遡って考える。
「逃げたっていう、家畜?」
閃いた時、ハイと麻袋を渡された。
「正解。家畜の百や千逃げたって、アシャール家の懐は痛まない。補償があれば、裕福な畜産農家は追う事もしないだろう。それが、職や生活に困る平民への施しになる」
「…………そうなの?」
「それに着替えて。自分で出来るね?」
言われて中身を開けてみる。ギルドの制服だ。星南は満面の笑みで頷いた。
アリスに乗って森を進むと、行き着いた先は渓谷だった。切り立つ崖下に、深そうな緑の川が見える。今居る場所は台地の上で、崖下からは遠方まで平野が広がっていた。手綱を持つエヴァの背中にくっ付いて、谷の深さに息を飲む。
「怖いの?」
「だって、この高さだよ?」
エヴァは谷を見たまま、落ちても死なないよ、と首を傾げた。神人には寿命が無い。それは、病や怪我でも死ねないという事らしい。その実感は無くても、痛みや苦痛はちゃんとある。
「怖い思いは、したくない…………」
「まぁ、それもそうだ」
エヴァは同意して、また谷底を見た。
「ねぇ、怖くないの?」
「何が?」
あまりにジッと見つめているので、少し不安になる。今はエヴァだけが頼りなのだ。
「下流ってどっちかなって」
「…………うーん?」
「よく見えないね。やっぱり下りてみる?」
「エヴァ!」
星南が怒ると、彼はクスクス笑った。
「渓谷に沿って進むと、フェル坊が居るって。ダヴィドは南の村で上手くやるだろう。もし一台目の荷馬車に警護が付くと、僕達はどうなると思う?」
「一台目に居ると思われる?」
箱ばかりの一台目には、人が乗っているようには見えない。なのに警護までして、相手を騙せるのだろうか。それよりも襲われたのは、エルネスを乗せた三台目だ。
「速度が落ちた荷馬車は、追いはぎに狙われる。加速するのは用心のある証拠だよ。でも三台目には彼がいる。神人の愛息子なのは有名だ。すぐに父親が介入して、移転回路を自宅まで開く。そうなると、三台目の人々は丸ごと神人の手の中だ」
「ローリエさんが助けてくれたの?」
「彼は協力してくれたんだ。息子の為なら、基本、何でもやるからね」
「…………私、よく分からない」
「それがダヴィドの作戦なんだ」
彼は馬首を東に向けて、アリスの好きなように走らせた。日は高く昇り、多分そろそろ昼時だ。馬の揺れは激しく、自分でエヴァにしがみつかねば落馬していまう。話す事も眠る事も出来ない。
夜間にあったという家畜の脱走。その後、形の違う三台の荷馬車が屋敷を発った。空間祝福というのは目立つらしい。その分強力な守りの壁になるという。それが消えない内に、中から出る必要はあったのだろうか。
「ダヴィドさん、他にも手を打ったの?」
アリスが歩き始めたところで問うと、エルネスワールを回収する手段が必要だよね、と新たな問題が持ち上がる。
「頭がおかしくなりそう。攪乱したいって事は分かったけど!」
「フランソワの空間祝福が消えたタイミングで、貴人を乗せる箱馬車が屋敷から飛び出す。勿論、警護付きだよ。それがローリエのところに逃げ込むと?」
「エルネスさんは、その馬車で抜け出すの?」
「ハズレかな」
ほら考えて、と彼は楽しげに言う。エヴァとダヴィドの二人が話していたのは、星南が御者の男性に話しかけた時しかない。こんな撹乱作戦の全貌を聞く暇なんて、無かった筈だ。
「エヴァの推測?」
「確証だよ」
どうやら違う方に気付いたらしい。それで彼は苦笑した。
「僕が聞いたのは、一番それっぽい囮にするって事。逃がした水馬でフェルナンと合流して欲しいって事だけだよ。屋敷で箱馬車の支度をしていたし、警護に人を呼んでいたのは見てたから、後は予想。でも、エルネスワールを自宅からこっそり出すには、人数が必要なんだ。彼は目立つ。木は森に隠すのが一番だよ」
道は下り坂になり、アリスは走る速度を上げた。森は急に濃くなって、薄暗く変わっていく。アリスは怖がっているようだった。
「減速して」
エヴァが手綱を引いて、ヤダッ、と子どものような声が悲鳴を上げた。星南がビクッと震える。話せる馬に乗る最大のデメリットは、嫌そうだったり、痛そうな声まで聞こえてしまう事だ。
「ゴメンね…………」
アリスを宥め、怯える彼女をゆっくりと谷の方へ進ませる。エヴァはやはり、馬と話せるようだった。何故、秘密にしたのだろう。それを聞こうにも、彼はアリスで手一杯だ。邪魔は出来ない。
私は、何も出来ないままなのだ。
こんなポンコツを、どうしてダヴィドさんは助けてくれるのだろう。パーティーのメンバーだから?でも彼は、水の血を求めているようには見えない。エルネスさんもフェルナンも、そんな風には見えなかった。
理由があるのかな。
星南は表情を曇らせた。利益や報酬。人はタダでは動かない。一体、自分にいくらかかっているのか、既に聞けない額だろう。討伐ギルドの仕事は、病気の子どもを殺す事。私が望んだからと言って、警護をする必要はない。
暗青の設立。
青石の国の開国を望んでいるという、ダヴィドさん。女々しいって何処がだろう。彼とは結び付かない言葉だ。それに、義勇軍ってギルドの事?最後まで聞けなかったから、ちゃんと聞かなくちゃ。自分の所属組織くらい、しっかり知らなくてはいけなかった。
のんびりしてる。
エヴァに回す腕が震えた。彼らはきっと、私に知られたくない事を教えていないのだ。子どもを守る組織だったのに、殺す事になってしまった理由。それでも助けた理由。今も手を尽くしてくれる理由…………
情報が足りない。
ああ、でも。
一つだけ思い出した。ダヴィドさん、はお墓参りがしたいと言っていたんだ。なんて人だっけ?つい最近、その名前をどこかで聞いたのに。
「アリス、お疲れさま」
エヴァの声に意識を戻すと、森の奥から青い光を伴って歩いてくる二人組が見えた。濃紺のローブは青だ。
「エヴァの君、首尾は如何です?」
「呼び捨てで構わないよ、エルネスワール。追手はナシ。下手な芝居が見事に効いた。星南の足は、どうみても男には見えないからね」
「…………そうですか。私の事もエルで構いません。エヴァは愛称なのでしょう?」
うんうんと、エヴァは頷いた。彼は先制して、隣のフェルナンにも呼び捨てを強要している。二色の瞳の青年は、ただ頷いただけだった。
「自由職の皆さんは、逃げた家畜を追うことで手一杯のようです」
「後は、他の神人に探されなければ良いんだね?」
「それが、ちょっと違うらしい」
フェルナンが言うと、エヴァは首を傾げた。
「ダヴィドさんは、この篩を抜ける組織を探してる。だから、その組織に神人がどう絡んでいるか確かめるつもりだ」
「どうやって?」
エヴァと一緒に、首を傾げる。本当の兄妹みたいですよ、とエルネスに笑われ、星南は気をそらされた。
「馬に酔ってはいませんか?」
「は、はい」
「…………頃合いを見て、移転回路を開く」
フェルナンの話を、少し聞き逃したようだ。移転回路は目立つのに、どうしてまた開くのだろう。
「まどろっこしい、どうせ聖国の神人だよ。昔から本当にろくなことをしない奴らだ」
「で、セナ。お前はどうする?」
「えっ!」
聞いていない時に限って、話を振られてしまった。慌てているとエルネスが、一緒で良いですよね、とフォローしてくれる。
「ならいい」
フェルナンは踵を返して歩き始めた。寄り添うように、青い光が付いて行く。エヴァが馬から降りて手綱を引いた。不満げに鼻を鳴らすアリスが、ハシリタイ、と足踏みをする。
「エヴァ…………」
「大丈夫。星南は乗っていて」
灰色の瞳が微笑む。それ以上言うなというように、彼はアリスを見なかった。
「大人しくしているんだよ」
どちらに言ったのだろう。一応頷くと、水馬は大人しいですから、とエルネスが隣にやって来た。歩きだした馬に並ぶ彼は、濃紺のローブに、長い剣を下げている。
「エルネスさん、緑はしないんですか?」
「暫くはこのままです。セーナにも青を着てもらいますよ。三色揃うと目立ちますから」
「なのに、移転回路を開くんですか?」
聞きそびれた事を問うと、そこから先は目立ちたいんです、と言われた。
「青石の国が結界に閉ざされている事は、知っていますね?だから誰も、そこに逃げ込むとは思っていない」
「…………よく分かりません」
わざわざ目立つ必要は無いように思える。火の粉を浴びるメリットが、あるのだろうか。
「始まりの十人について、何処まで学びましたか?」
「えっと、ご存命の方が少ないってところです」
「他には?」
「家名のイニシャルが同じという事?」
「では、神人の大三家と言えば?」
「えっ、えっと…………」
チラリとエヴァを見ると、肩が震えていた。笑うなんてあんまりだ。でも何も頭に浮かんで来ない。イニシャルが同じ十人の神人は、三種族ともなると三十人だ。
「…………分かりません」
「バルテ、バルト、アルエです」
エルネスは苦笑した。また後で聞きます、としっかり釘も刺される。水の神人に関しては、バルバル言っていれば大体それっぽく聞こえるのだ。自分の親戚がそれだったらどうしよう。そう思った事はよく覚えていたのに、もちろん役に立たない。
「ダヴィドは、貴女に何を教えていたんでしょうね?」
「私の覚えが悪いんです…………」
「セーナは悪くありません。生徒にモノを教えられない、教師の方が問題です」
エルネスさん、スパルタだったもんなぁ。
笑顔の、やり直しです、を何度聞いただろうか。ちょっと思い出したくない。星南は代わりに覚えている事を話した。
「大三家は、他の神人よりも強い力を持っているんですよね?」
神様達は均等に十人となった訳ではない。水の女神は一人に半分以上の力を込めたという。それが畏怖される三色菫の水神様だ。
「青石の国には、神々すら避けるという三色菫の水神が居ます。今の時期入国できるという事は、水神の特別扱いに等しい。私達が帝国へ帰っても、もう襲い掛かってくる馬鹿は居なくなるんです」
帝国へ帰った後。
自分では思いもしなかった事だ。そんなところまで、考えていてくれた。その事がとても嬉しい。帰る家。なんて良い響きなのだろう。またお屋敷に帰っていい――――
迷子じゃない。
「その顔は、ダヴィドに見せてあげて下さい」
エルネスが困ったように笑う。馬から見下ろす彼の表情は、何時もよりもよく見える。間違えて先に答えを教えてしまった、先生の顔だ。彼はよく話す人だけど、時々口を滑らせた。口以外でダヴィドには勝てなかったのだ、とも話くてくれた。
「ありがとうございます。エルネスさんが教えてくれなければ、気が付かなかったかもしれません」
「そういう事に、しておきましょう」
パサリとフードを被り、彼は歩みを速めた。フェルナンに並ぶと、そこでまた話し始めたようだ。
「星南は、帝国に帰るの?」
エヴァが見上げてくる。不安そうな顔で聞かれると、はいと直ぐには言えなくなった。
「そのつもりだよ。私は金糸雀のメンバーだしね!」
敢えて明るく答える。彼は成程、と微笑んだ。
「僕も金糸雀のメンバーだよ。ちゃんと正規登録したんだし。ダヴィドのところに押しかけようかな」
「ケンカしないでね?あと、添い寝もお断り!」
「星南はさ、そんなにダヴィドに抱かれたいの?」
「…………私達はっ!ちゃんと、別々のベッドで寝てましたからっ!!」
気を抜くとコレだ。民族衣装のエヴァが、初めて普通の青年に見えた。