2-11:祝福印
エヴァを迎えた私達は、夜も明けきらない内に帝都フェネオンを後にした。
移転回路が開くと、神人には筒抜け状態で分かるらしい。青石の国への道が開けるのは、フランソワただ一人。それを逆手に取る作戦だ。
星南は遠くなる都の空を見つめた。
朝焼けの赤が、コリンヌの髪色を思わせる。話す間もない出立だった。けれど文句なんて言えない。誰の為なのか、理解しているつもりだからだ。
「少し寝たらどうた?」
ダヴィドに言われて首を振る。貫徹なのに、目はしっかり冴えていた。道は平らに均されていて、屋根なし荷馬車の揺れは少ない。ネルベンレートの道とは雲泥の差だ。御者の男性は買い付けを装い、このまま帝都南方の村まで行くと言う。強面の割に、随分おどおどした老人だった。三台の荷馬車は目立つだろうが、隠れるにはいいらしい。
何から隠れるのだろう。
そう思って辺りを見ていると、脇道から二台の荷馬車が現れた。木箱を山と積んでいる。最後尾に合流したそれを見て、ダヴィドは片手を振った。
「いいタイミングだ」
エルネスの乗る三台目、幌付きの荷馬車がスピードを落とし始める。
「どうするんですか?」
星南が聞くと、彼は同乗しているエヴァに視線を向けた。二人はそれで分かったらしい。こっちにおいで、とエヴァに呼ばれる。
「僕達は兄弟のフリでもしていよう?」
「何をするの?」
「追いはぎがね、この道には出るらしいんだ」
おいはぎ?
星南が驚いた顔をすると、エヴァは目深に被ったフードの奥で笑った。
「この二百年で、随分と獣人族が増えたらしい。ルーク=ドラフェルーン帝国は第二、第三種族の国だから、第四種族は肩身が狭い。職にあぶれる」
「だから、追いはぎ?」
「魔人族は狡賢いんだ。国から獣人族を追い出したくて、犯罪に向かうよう仕向けてる」
「そんな…………」
離れていく後方の荷馬車を見つめ、返す言葉を探す。まだまだ世間には疎かった。
「獣人どもは、キナ臭い」
後ろを見たまま、ダヴィドが言う。
「アイツらは水を求める本能が薄い。なのに、事あれば蛇人狩りだの、水都探しだ」
「百年程しか寿命が無いから、他の種族が妬ましいのさ。その矛先は、陸上での力が弱い蛇人族だったけれど…………」
「青石の国は鎖国した。この二百年で獣人族は増え続け、上位種族を従える機会を窺っている」
「じゃあ、なんで追いはぎ?」
ダヴィドは口角を上げた。簡素な服装の彼は、オレンジの髪を掻き上げる。伸ばされた指の先に、美しい濃紺の鞘があった。
「富は格差を生む。短命種族は奉仕を知らん――――エヴァ」
「任せて。荒事も得意だから」
笑顔で答えた彼は、右頬の模様に触れた。神人の祝福印。楽譜の記号みたいな形だ。今はその多くを封印していて、手数は少ないと言っていた。
なのに、何をするのだろう。
「星南、僕達は兄弟だよ。そうそう、フードが脱げないように死守してね。スカートなのも忘れずに」
なんだかおかしい。外套のフードを更に引き下ろし、星南は声を落とした。
「…………私が弟なの?」
「そうだよ。僕達は囮なんだ」
「え?」
話が見えてこない。首を傾げていると腕を引かれた。朝日の届かぬフードの中で、青みの強い瞳が細くなる。
「命を欲しがるのは、追いはぎじゃない」
なんとなく、嫌な予感がした。エヴァは先に謝っておくよ、と言って指を星南の外套に掛け、力任せに左右へ開く。ブツンと音がして、ボタンが弾け飛ぶ。星南は呆気に取られた。
「わあぁぁぁぁぁっ!!」
エヴァが叫んだ。その声で馬が嘶き、荷馬車が急停車する。
「弟にこんな格好をさせて、騙しましたね!」
「違う!待てッ!!」
ダヴィドがスラリと剣を抜いた。彼は楽しそうな笑顔だ。呆然とする星南の腕を、エヴァがぐいっと引っ張る。
「逃げるよ!」
「えっ!?」
二人の顔を見比べて戸惑っていると、前を走る荷馬車が速度を上げた。ダヴィドの剣がカチャリと音を立てて、白く朝日を弾く。
「逃げても良い事はないぞ?」
「ダうっ!」
言い切る前にエヴァに担がれた。少年と言っても、もちろん星南よりは長身だ。二人分の重さを感じさせない跳躍で荷馬車から飛び降り、森へと駆けだした。エルネスの乗った三台目から土煙が上がる。対面の森から粗末な服の獣人達が飛び出し、襲い掛かっているようだ。
「エヴァっ!」
呼んでも彼は答えない。疾走されると激しく身体が揺れる。肩がお腹に食い込んで、吐いてしまいそうだ。
「とめてっ!」
何度か名前を呼んで、逃げようと暴れ、やっと地面に下ろされたのは大分後の事だった。
ぐったり倒れ込んだ星南の背を、エヴァは済まなそうに撫でてくる。
「ごめんね、まともな運び方出来なくて」
「なんで…………」
「心配しないで。全部、手筈通りの演技だよ」
…………演技?
どうにか呼吸を整えて顔を上げると、汗に濡れたエヴァの顔が見えた。
「星南は知らない方がそれっぽいって、ダヴィドが言ったんだ。でも、悲鳴くらいは協力して欲しかったな」
「…………エヴァ」
「あーあ、日頃の運動不足を改めなきゃ」
フードを払い落として寝ころんだ少年…………に見える老人を、複雑な気分で見つめた。自称、五百歳。この世界の人々は長命だ。エヴァは童顔で肌理の細かい肌をしている。これで五百歳なんて、冗談もいいところだ。
どちらかと言えば。
星南は自分の顔に触れた。エヴァは日本人に似ている。テレビに出られそうな、整った顔の方だけど。飾らない表情は裏表が無さそうだ。汗で額に張り付いた黒髪を払って、彼は暑そうに外套を脱ぎだした。下は白い民族衣装。その格好になると、急に近寄り難い神聖な雰囲気を纏う。愚痴など言えなかった。
溜息をついて、辺りを見回してみる。朝の光が木々の間から射し込んで、夜を隅へと追いやるようだ。普通の森に見える。
「これから、どうするの?」
エヴァは森の奥を指さした。
「移転回路が開くと、周辺の場に強い作用が起こるんだ。そのせいで昨夜、二ヶ所、家畜の脱走事件が起きた」
「そんな事が起こるんだ?」
「両方とも、故意にだよ」
「えっ!?」
リーダーの顔が頭に浮かぶ。フェルナンの姿を見かけないのは、何故なのか。
「フー・ダヴィドは策士だね。彼を義勇軍のトップで遊ばせるなんて、皇帝も耄碌したのかな」
エヴァは、脱いだ外套を星南に差し出した。
「破ってごめんね。でも、悲鳴はすぐに出せる方がいいよ。守られる側の協力があると、守る方もやりやすいから」
「…………あの、義勇軍って、なに?」
問うと、エヴァは首を傾げた。
「星南って、ぼんやりしてるって言われない?」
「…………言われたら、なんなの?」
「褒め言葉かな、君に対しては」
答える気が無いようだ。彼は立ち上がって、うーん、とマイペースに伸びをした。大きな袖がスルリと落ちて、一気に肘まで露になる。一瞬ウロコかと思った。びっしりと両腕に刻まれていたのは、青い祝福印だ。
「エヴァ、それ…………」
「ん?」
驚いた様子の星南に、彼は苦笑した。
「今ね、水の血を解放してるんだ。待ち人が来たら、また見えなくするよ」
「消せるの?」
「勿論。星南だって消している状態だよ。だから他の種族に襲われなかったんだ」
つまり、ささやかと言われた自分が、フランソワみたいに嫌われるという可能性。星南はぶんぶん首を振った。
「私、ずっと見えなくていい!」
「…………子どもの内は良いんじゃない?」
エヴァは、聞く気が無さそうに顔を反らせた。毛先に癖のある黒髪は、美容院でセットしたみたいに乱れていない。汗が引いてしまうと、色白の横顔は陶器の人形のように見えた。その動きそうにない唇が、祝福印を消すなんて自殺行為だよ、と言葉を落とす。
「僕は剣が使えるし、自分の身は十二分に守れる。そうじゃなきゃ、血を封じるなんて出来ない事だ。祝福の使えない神人は、人族最弱もいいところだからね」
「神人にも、身の危険があるの?」
「獣人に言わせれば、薬になるらしい」
この世界のモフモフ種族は、癒しにはならないようだ。逆に、自分が薬となって癒す側。痛そうだ。嬉しくない。
「私、まだ狙われてるんだね?」
「星南はモテるから」
他人事みたいに言われた。エヴァは鎖国の国から来たにしては、世情に明るい。何故だろう?
「ねぇ星南。君に聞きたい事があるんだけど」
手の平を朝日に透かせて、すっかり青くなった瞳が見下ろしてくる。
「人見知りって聞いてたんだけど、違うの?」
「…………フランソワさんから聞いたの?」
「毎晩毎晩、愚痴聞かされたんだよ、僕は」
真面目な事を聞かれるのかと思ったら、そんなどうでもいい話だった。星南はげんなりとした顔でエヴァを見る。
「あの人、毎晩部屋に来るんだよ。添い寝してあげるって!」
「寝ればいいじゃん。どうせ星南は、一人で寝かせて貰えなかったよ」
「…………どういう事?」
フランソワは添い寝魔だ。すっかりその認識だった。彼のせいで毎晩ダヴィドのベッドを占領する事になり、余計リーダーに頭が上がらない。エルネスは自宅に帰ってしまうようで、夜間は不在が多かった。フェルナンに至っては助けてくれずに、突き帰される。
「やっぱり星南って、のんびりしてるよね。無力な神人が一人寝なんて、普通はしない。使用人は何時でも部屋に入れるんだよ?」
「…………私、どうして神人なんだろう」
昨晩会ったばかりのエヴァに分かる事が、分からない。世界の違いを思い知る。下地が無いと言うのだろう。やっと成人したというのに、また一からやり直しだ。へこたれてはいられない。
「親が神人だったんだ。生まれは選べないよ」
「そうだね」
私の親は、泣き虫の父と仕事命の母。この二人以外はあり得ない。エヴァを見上げると、木漏れ日を浴びて、眩しそうに細めた目と視線が重なる。灰色の瞳は、日本であまり見る事のなかった同じ色。不思議と彼は話しやすい。見た目が少年のように可愛いからか。それとも、背が低い親近感だろうか。
だから、一緒にされたのかな。
いい加減なようでいて、しっかり見ているのがダヴィドだ。館の主としては当然なのかもしれないけれど、誰に誰、何処に誰、という采配を瞬時に決める姿は頼もしかった。言いなりでやっていても、上手くいくような気分になる。
それを自信と言うのだろう。
「私、何に気を付けたら良いか、知らないのかも。ダヴィドさん達は、あんまりそういう事、教えてくれないんだ」
「ふふふ、そうれはそうだよ」
エヴァは面白そうに笑った。
「フー・ダヴィドが秘密にしたがっている事を、教えてあげる。彼はね、星南に女々しいと思われたく無かったんだ」
どうしてエヴァは、そんな事を知っているのだろう。逆にそちらの方が気になってしまう。曖昧に首を傾げると、エセ少年は隣に座り込んで声を落とした。
「帝国には、手の付けようの無い悪餓鬼が居たんだ。どうにかしようと大人達が、物静かで血筋の良い友人をあてがった。でも、その友人も感化されて、どうしようもない二人組になってしまったんだ」
ダヴィドさんと、エルネスさんの事だろうか。ちょっと想像出来ない。微妙な表情になった星南に、大人達は次の手を考えた、とエヴァは話を続ける気満々だ。
「嫁を取らせようと、青石の国に送り込んで来たんだよ。いい迷惑さ」
「…………だからエヴァは知ってるんだ?」
「よく遊んであげたんだよ。でも運悪くネルベンレートが攻めて来たのも、あの頃だった。二人はすぐ帝国に帰されて、僕らの国は鎖国という形で聖国を締め出す。それしか出来ない深手を負ったんだ」
戦争は怖いものらしい。二度と起こしてはいけないと、聞いた事しか無い世界で生きてきた。だから、なんて慰めの言葉を掛けて良いのか思い付かない。エヴァは陰りを帯びた笑顔で、彼はあれから変わったんだよ、とまだ話を止めなかった。
「生まれる子どもを守るんだって、組織を立ち上げた。青国の闇を払うと、古語で暗青の名を冠し、初めて黒色病専門の機関が出来たんだ。すぐに増えて、すぐに死ぬ獣人達の病なんて、第二種族が先頭に立ってする事じゃないよ。でも彼は鎖国されると困るんだ。だから、戦争の原因をどうにかしようとした」
エヴァは立ち上がって、森の奥に手を振った。その腕はすっかり普通の腕で、肌が青く見える程の祝福印はきれいさっぱり無くなっていた。




