2-6:事務職
そんなものだよ、とフランソワは苦笑した。
思念語であるオールは、黄金という意味があるらしい。元は神々の言葉であり、完全な言語であったそうだ。けれど人族が発展して大陸共通語が普及するにつれ、完全は崩れていった。
「思念語と言う呼び方が良い例かな」
同じソファーに座るフランソワは、先程からカップ片手に説明を繰り広げている。時刻は昼下がり。暁の間には色々なソファーが置かれ、エルネスとフェルナンが好きな椅子を占拠して、彼の話に耳を傾けていた。星南のカップに紅茶を注いだダヴィドが、腹は減らないか、と問いかける。
「大丈夫です」
小さく答えると、彼は笑みを一つ返してエルネスの横に陣取った。
「何か食べても、いいんだよ?」
「いえ…………それでオールは、思念語って意味なんですね?」
平静を装い事務的に聞き返すと、フランソワはそうだよ、と苦笑した。
「ともかく当て字や古語に弱くてね。聞く分にはあまり違和感が無いのだけれど…………まぁ慣れてしまえば、言葉の裏まで聞けて便利だと思って?」
思念語はかなり使い難い言語のようだった。普通に話せればそれで良かったのに。どうしてと嘆きたくなるのを堪えて、無駄な事だと溜息をつく。諦めは肝心だ。けれど話せる事に期待していた分、落胆は大きい。空気の神様は、とことん私に特典を付けてくれる気が無いようだ。
「普通の神人は五十年をかける。まだ半分以下の星南が、難しいと思うのは仕方が無いよ…………それでも貴女は、耳の封じが無い状態だった。訳されて聞こえてしまう共通語を覚えるのは、相当骨が折れるだろう」
「誰がそんな事を?」
ダヴィドが問うと、フランソワは頭を振った。
「耳の封じだけが無いなんて、初めてだよ。まぁそれが無かったから、言われる言葉は分かったのだし。良い方に考えよう」
「そうだな。セナは話す練習か」
「あとは、此方の常識ですね」
「読み書きもやった方がいいぞ」
カナリの三人は、相変わらずスパルタだ。やる事は無いよりも、ある方がいい。
でも――――
日本に帰れるのだろうか。
膝に置いていたカップを、ミニチェストのソーサーへ戻す。そんな事を聞いて、今イエスと言われたら。きっと全力で頑張れない。知りたいけれど、何故か誰もその話題に触れないのだ。
「しかし、家庭教師を呼ぶわけにはいかんぞ?」
「休暇中の暇人が、三人居るではありませんか」
エルネスがサラッと言うと、ダヴィドとフェルナンが微妙な顔をした。
「お前、誰を人数から抜いた?」
「私ですが」
「僕も頭数?」
フランソワが驚いた様子で尋ねると、勿論ですとも、とエルネスが微笑み返す。父親が神人の彼には、遠慮というものが無いらしい。
「うーん、何を教えれば良いかな?祝福関係は一切無理だし、言葉は話すしか無いよ。文字は手書きなら問題なく読めるだろうしね」
「読めるんですか?」
思わず口をはさむ。読み書きは習得必須だ。思念語にも良い所はあるらしい。
「そっちでも苦労した?手書きなら、それこそ線一本でも込められた思念を読み解ける」
「なら、薬草師の勉強もしましょう」
「えっ!」
言った瞬間、全員が笑いだした。
「セーナお得の“えっ”が聞けないのは残念ですね」
「本音がだだ漏れだぞ」
「それでも見習い薬草師か、ウスタージュの代わりに気概を見せろ」
なんて聞こえたの!?
話せても、本心が飛び出すまさかの事態。余計に口数は減っていく。ご利用は計画的に。悪循環だ。
「まぁまぁ程々に。僕は長居できませんよ」
「その後セナはどうなる?」
「結界の隙間を抜ける移転です…………祝福耐性の無い彼女には、負荷があり過ぎてとても。暫く此処に残すしかありませんね」
「…………では、十年後に青石の国へ?」
エルネスが問うと、神人は表情を曇らせた。
「僕としては、一秒たりとも帝国に置くわけにはいかない、と思っています。貴殿方の庇護があっても、皇帝には逆らえない。後宮に召し上げともなれば、即開戦ですよ。でも…………我が国も安全ではありません」
「現状維持が最善と?」
「力が無いばかりに…………」
フランソワが頭を垂れた。それで決着がついたらしい。ダヴィドが、ならば今後について早急に決めねばならん、とこちらを向く。
「セナ、青石の国へ戻りたいか?」
その話かと奥歯を噛み締めた。先延ばしにしようとした事を、聞かねばならなくなったのだ。
「私が戻りたいのは、日本です」
部屋に沈黙が降りる。それが何よりの答えだ。
――――神人には時空を渡る能力がある。でもね、好きな場所に行けるわけじゃ無い。
フランソワはそう言った。結局のところ、私はどちらの答えも聞きたくない。知ってどうするの?納得なんて絶対に出来ない。無音に堪えきれず耳に手を置く。答えが怖い。
「星南、彼方に残したものが恋しい?」
問いかけてくるフランソワの声。視線を上げると、思念語に耳は関係ないんだよ、と困ったように笑う顔が見えた。
「僕はね、今の星南に必要な場所に居れば良いと思うんだ。神人は神人にしか育てられない。親戚だって、青石の国には居るんだよ」
「…………え?」
「会ってから考えても、遅くないだろう?」
私の親戚が、この世界に?
遺産を争い、位牌を取り上げ、葬儀までろくに会った事も無いような、あの人達以外の親戚?
心が揺れる。
嘘かもしれないし、そんな事は分からない。ただこれは救いだ。突然来てしまった異世界で、私にもすべき事がある、という。でもさ…………そんな事で誤魔化される程、子どもじゃないんですよ!
「戻れ、ないんですね?」
フランソワは答えなかった。泣きそうな微笑みを浮かべて、ただ頭を撫でてくる。この人苦手な、と思った。答えを知っているのに言わないのは、優しさじゃない。ダメな方の甘やかしだ。
迷子は確かに可哀想。でも、私は大人だ。家に帰れない大人に、オブラートなんて必要ない。帰る努力も出来るし、帰る場所だって作れる。私にとって無力ではない証、それが大人だ。
「この世界の事、教えて下さい」
後悔したくない。過去も今も、未来にも。
「どんな街があって、どんな人が暮らすのか」
両親の棺の前で約束したんだ。心配するなと。だから異世界の夢枕に何度も父を立たせては、その内、母さんの雷が落ちる。凄く恐い、絶対に嫌だ。
「長い川や高い山、気候とか、名産――――色々あると思います」
後二十年くらい過ごせば、日本と同じ月日に相当する。絶対に何とかなる。どうせ成人は五十歳だ。今から始めて丁度いい。大丈夫、私は大丈夫だ。
「…………頑張ります、だから」
なんとか成るように何かをしていく。全ては積み重ねだって、経験してる。だって、一度は成人まで育ててもらったんだから!
深く頭を下げた。
「どうか、よろしくお願いします」
胸が痛い。滑らかなブラウスを握りしめて、気付かないフリをした。辛い事を自覚したって、辛く無くなるわけじゃない。悪い事を考えるとガンになる。母の口癖だ。前を向け。せっかく、カッコいい名前を付けてもらったんだ。
これ以上のモノなんてない。
欲しいものは、私がずっと持っている!
「たくさん勉強します。助けて貰った恩を、必ず返します――――」
「セナ」
ダヴィドが名前を呼んだ。いつの間にか潤んでいた目。袖で乱暴に拭って顔を上げると、琥珀色の瞳がホッとしたように和んだ。
「思念語初心者とは、恐ろしいな」
そう言われて、ふとエルネスの方を見ると、困ったように微笑まれた。フェルナンは沈痛な面持ちでこめかみを押さえていて、目が合うと重い溜息。なんだこの空気は。恐る恐る横のフランソワを見ると…………人目も憚らず号泣していた。
「えっ!?」
「こ、こんなんじゃ、僕、国に帰れない」
なんでこんな状況に。むしろ泣きたいのは私だ。
「…………フランソワさん」
「ごめん、ごめんね、星南」
困り果ててダヴィドを見ると、エルネスの頭をポンポンとして、その手を叩き落とされている。やれやれというように肩を竦めた彼は、助けてくれる気が無いようだ。フェルナンもジト目を向けてきて、自分でなんとかしろと明後日を見る。
撫でるの?私が?
戸惑いながらフランソワに手を伸ばすと、その腕をガシッっと掴まれた。濡れた灰色の瞳が一瞬見えて、あっという間に抱き込まれる。
「わぅっ!」
変な声が出た。慌ててもがくも抜け出せない。ちっとも華奢な人じゃなかった。鼻がつぶれる!
「星南、青石の国へおいで。今度は僕らも頑張るから。貴女は一人じゃないよ」
頭の奥で囁くような声に、気持ち悪さが込み上げる。怖い。思念語って、こんな風に聞こえるの?混乱したまま顔を上げると、真っ青になった瞳と目が合った。
「少し時間をおくれ。そうだな…………観光するといい。何時までも此処に空間祝福をしているわけにはいかないし。貴女には慣れる時間も必要だ」
「どうやって、他の神人から守るんだ?」
空気を読まずにフェルナンが問う。フランソワは苦笑して、ちょっと待って、と姿勢を戻した。その隙に、さりげなく距離を取る。彼が普通の人間では無い一端を、垣間見た気がした。どこか優しそうで、見えないところで恐ろしいセザールさんを思い出す。人ではない人、神人。この人と私が同じだなんて、信じられない。
「あぁ、こんなに泣かされると思わなかった」
「セーナは役者になれますね」
役者?エルネスの言葉に嫌な予感がした。何で彼はあんなに泣いたのか。身に覚えが無いのなら、答えは一つ…………誤訳だ。どんなに悲劇的なセリフを吐いたって、言いたい事が伝わらなければ喜劇の方がマシだ。
泣けば良かった…………
泣いてるヤツのうわ言だと、思ってもらえば良かった!急に恥ずかしくなってくる。涙を我慢した分、胸がモヤモヤした。何を言ったら、大の男が泣くのか。
それよりも大変な事に気付いた。
私は人を泣かせたんだ!!
星南が一人衝撃を受けている横で、すっかり持ち直したフランソワが口を開いた。
「白飾銀の首飾りを一パーティー分残します。元は琥珀の一種ですが、実は、祝福加工する事で神人の力を受け難くする特性が――――」
「白飾銀?聞いた事が無いな」
ダヴィドが首を傾げる。多分あのネックレスだ。星南は、もう一つの大変な事を思い出した。アレルギーが出る前に外さないといけない。少し首の高いブラウスの襟に指を突っ込み、触れた鎖を引っ張り出す。
「これ、ですか?」
「蔦に絡む菫は僕の意匠だよ。おさがりでごめん」
「本当に琥珀なんですか?」
エルネスが身を乗り出した。外して見せようと思ったが、首の後ろにアジャスターが見つからない。案の定、彼はソファーから立ち上がった。そのまま、こちらにやって来る。まずい。首飾りの長さは短いのだ。
今アップでエルネスさんを見たら、泣ける。世の中の理不尽に対して、絶対に!
「セーナ、隣を良いですか?」
降って来た声に、頬が引きつった。このソファーに座るって?場所は確かにあるけれど、確実にサンドイッチの具だ。それもメインじゃないやつ。黒髪を三人並べたって、一番見劣りするのは私で確定している。星南は立ち上がって、どうぞと両手で場所を勧めた。その手を何故か握られる。
「貴女も可愛い事をしますね」
何を勘違いしたのか、座ったエルネスの膝に横座りで乗せられた。違うよ!そういう意味じゃありません!!
「本当に仲が良いんだな」
フランソワが苦笑した。
「私達は仲間です。当然ですとも」
エルネスが腕の力を強める。思わずその顔を見上げると、視線はフランソワに向いたままだった。おかしい、目が全く笑っていない。
「ソイツは見習いだけど、一応貴重な赤だ」
フェルナンが言うと、神人に手を出されなければ十分、とダヴィドが口角を上げる。
何かが変だ。
でも理由が分からない。
「水の神人、青石の国の姫を…………」
フランソワの声から温度が消えた。ダヴィドに向く横顔は笑顔でも、まるで悪魔のような恐ろしいものに見える。
「一桁のパーティーが、守りきれると?」
「当然だ」
守られたんだ。サッとダヴィドを見ると、ニッコリ微笑み返される。フランソワは徹底的に子ども扱いをする人だ。選択肢も決定権も、子どもにはあるようで、ない。ここで主張しなくては、カナリの仲間と離されてしまう。
身の振り方を決められるなんて、ごめんだ。
「私はカナリのメンバーです。仲間とは離れたくありません」
「…………星南。貴女を残して、僕は戻らなきゃならない。確かな守りが必要になる」
「この世界に来てからずっと、私を五体満足で守ってくれたのは、ダヴィドさん達です!」
「その実績は認めるけれど、彼らは…………一応、事務職なんだよ?」
事務職?




