2-5:恥は付き物
一人のお風呂を勝ち取った星南は、とても後悔していた。
異世界だと忘れた訳では無い。けれど、大差ないと高を括っていたのは確かだ。
「…………」
言葉が出なかった。怖い顔をしたカタツムリのオブジェが、ザバザバお湯を吐き、それが足元を流れて水路に落ちる。床はタイルでも、そこかしこに熱帯樹とシダが生え、虫を食べそうな花まで咲いていた。こんなのお風呂じゃない、植物園だ。バスタオル一枚で立っている自分が、馬鹿らしくなる。
「どうにかしなきゃ…………」
一列に並ぶ、お湯吐きカタツムリ。どうしてリバースを選んだのか。口から物を出すという発想がいただけない。ともかく、そのお湯は熱くて浴びる事が出来ないし、室内もサウナのように高温だ。
お風呂じゃないよ、これは。
ちゃんと入り方を聞けば良かったのだが、大人だから一人で大丈夫、と大口を叩いた上での今がある。最終的には、どこぞへ流れていくリバースされたお湯を使うしかない。どうにかして入った感を出さないと、次がピンチだ。
知らない多人数に洗われるか、一人の異性に付き添われるか。どっちも却下だ、絶対に。
「…………何かないかな。せめて桶とか」
ともかく、ここに居ても仕方ない。まずは出だしに戻ろう。用があるのはお風呂であって、植物園じゃない。星南は勝手に脱衣場と決めた部屋へ、引き返す事にした。
「それ以上来るな」
ぬっと顔の前に腕が伸びて、驚きと共に足を止める。部屋と部屋との境界線。視界を遮る腕の主は、フェルナンだった。
「なっ、なんで居るの!?」
「見られたくなきゃ出て来んな…………火傷してないだろうな?」
一応彼は、背中を向けている。だから色々言いたい事はあったけど、もうそんな事より地獄に仏の心境だ。
「火傷は無いよ。でも、お湯が熱くて…………」
上げていた手で額を押さえた彼は、服すら着れないヤツが一人で大丈夫とかねぇよ、と苦々しく呟いた。紫菫が許したのは、空間祝福の効果内であり、彼女の身に何かあれば分かる状態だったから。ダヴィドが許したのは、風呂場が感知の範囲内という理由に他ならない。
それでも、一人にしてどうすんだ、とフェルナンは思った。
竜人族は女に甘いが、決して優しい訳ではない。仕事の増える最悪のパターンは、ともかく潰すに限る。出来るだけ早急に。
「信頼出来るのを一人連れて来た。お前が良いなら呼んでやる」
「…………えっ、えぇと、どんな人?」
「ダヴィドさんの乳母」
「呼んで…………!」
答えた後に、乳母ってなんだ、と首を傾げる。聞いた事はあるけれど、身近ではない。やってきた女性は、白髪の混じる赤い髪のおばさんだった。多分、私の母より歳上だ。彼女はスカートの横を摘まみ、ゆっくりと頭を下げて敬意を示す。
「コリンヌと申します、水の姫君」
「上手く話せないらしいが、気にするな。頼む」
フェルナンがそう言って、一度も振り返らぬまま出て行った。それだけの為に居たのだろうか。流石はカナリのママだけど、とうとう一人で残された。やっぱり不安だ。
「ささ、一度此方にいらして下さいませ。湯着をお出し致しましょう」
「は、はい」
ふわりとした長いスカート。多分、ドレスと呼んでいい服だ。茶色と白の色合いが、甘そうなカフェオレを思い出す。彼女はダヴィドさんの乳母。子育て経験のある人が、小さいとか子どもみたいとか、そんな理由で襲い掛かっては来ない筈。おっかなびっくり後ろに続くと、苦笑気味に振り向かれた。
「如何されました?」
琥珀色の瞳。年齢と共に増えただろう皺の深さ。呼んでもらったのは私だ。覚悟を決めないといけない。
「あの」
言いかけて、彼女の手にある浴衣のような物に気付く。大丈夫そうな人だと思う。けれど裸を見られるのは、とても抵抗があった。
「…………それは?」
「湯着でございますよ。入浴の際、お召しいただきます」
「あなたも?」
馬鹿な質問だ。言ってしまってから思った。けれど彼女は、きょとんとした顔をすぐ笑みに変え、お許しいただけるなら、と言ったのだ。
曖昧な返事をしたのが悪かった。彼女はあっという間に服を脱いでしまって、湯着に袖を通す。
「ささ、姫様も」
先に全裸を見せられた星南は、すっかりコリンヌに抵抗出来なくなった。白い湯着を着せられ、手を引かれて浴室へ逆戻り。熱湯リバースのカタツムリの前を過ぎ、水路に沿って奥へと進んで行くと、大きな池が現れた。
「お待ち下さいね。一人で入ってはいけませんよ」
「は、はい」
まさかこの池、湯船とか?
希望というより絶望だ。タイルの敷かれた水底は見えるが、明らかに深い。さらによく見てみると、魚が泳いでいた。プールは嫌いだ。そもそも泳げない。
「…………やっぱり、こんなのお風呂じゃない」
「ここがお風呂ですよ?ささ、石鹸はどの香りに致しましょう?」
「あの、魚が…………」
「それがどうかしましたか?」
カルチャーショックだ。色々考えるのが面倒になってくる。つい適当な返事をして、容赦なく洗われ、お約束のように足を滑らせてコリンヌと池に落ちた。彼女はとても、よく笑う人だった。
終わってみれば、ちょっと楽しかったバスタイム。けれど、まったりのんびりな至福の時間への道のりは、まだまだ長そうだ。
異世界でも、意外とやっていけるかもしれない。
白いペチコートを着せられた星南は、そう思った根拠を思い出そうとした。けれど白いソックスを履かされ、白いレースの靴下留めが出てきたところで、嫌な予感に回想を中断する。
「コリンヌさん、あの」
「まっすぐに立っていて下さいね。お着付け致しますから」
「着付け?」
あっという間に、言おうとした内容が吹き飛んだ。着付けは、語数の関係で上手く訳されなかった筈だ。それがどうして彼女の口から出て来たのか。
「着付け、ですか?」
「ええ、着せて差し上げますよ」
「…………」
これは私の方の問題なのでは、と流石に思う。彼女には、着せて、と聞こえているようだ。どうして上手く訳されないのだろう。
「お首回り失礼しますね」
「あ、はい」
返事をすると、冷たい物がシャラリと掛けられる。白に近い金属の、これはネックレスだ。
「コリンヌさん、私、金属アレルギーが」
「…………金属発疹ですか?」
もはや、話せるようになったのか、悪化したのか分からない。
「金属でかぶれるんです」
コリンヌは首を傾げた。一体、何と聞こえたのだろう。下手に話すと、やっと作れそうだったマトモな人間関係がダメになりそうだ。
痛いけど、かぶれくらい我慢するしかないのか。諦めの心境で、気にしないでと首を振る。
「すぐ終わらせますね」
彼女は安心したように微笑んだ。誤訳の予想が付かない。話す事に躊躇いを持った星南は、自分が不思議の国をさ迷う少女みたいな服を着せられても、何も言えなかった。
皮肉の効きすぎた格好に、涙が出そうだ。
「フェルナン様、お支度が整いました」
「…………行くぞ」
入り口の側に居たのだろう。つかつかと部屋に入って来た彼に、手を掬い取られた。
「悪いが急ぐ。話は後だ」
そのまま歩き出されて、何時も通り従いそうになったが、今は一応話せるのだ。
「ちょっと待って。少しだけ」
言ってみると溜息をつかれた。けれど指先が離され、顎で早くと急かされる。日本人として、人として、ずっと出来なかった事がある。星南はコリンヌに駆け寄って、敬意と感謝と信頼を込めて、深々と頭を下げた。
「お世話になりました!」
しかし何故か、部屋の空気が氷った。
「…………チビ助、なにやってんだ」
フェルナンにグッと手を引かれて、顔を振り上げる。文句を言おうとした。けれど、床に膝を付いて深く深く頭を下げるコリンヌに言葉が出ない。さっきまでの気安さは、もう何処にも存在しなかった。
誤訳だ。
絶対、変な風に訳された。
早急にフランソワさんへ相談しなくては。堪えても涙目になってくる。どうして上手くいかないのだろう。何の努力も出来ていないのは、私のせいじゃないのに。とぼとぼと会話もなく廊下を進んでいると、フェルナンが舌打ちをした。
「…………ったく、来たのかよ」
くよくよしているから、機嫌を損ねたのかもしれない。慌てて彼の表情を窺うと、歩いてきた廊下の奥を見ている。真紅の絨毯を颯爽と歩いてくる人影が見えた。緑のローブに黒い髪、エルネスだ。彼らは私服を着ないのだろうか。アリスコスをするくらいなら、ギルドの制服が良かったのに。
「セーナ」
優しそうな微笑みを浮かべて、彼は真っ先に声をかけてくる。ともかく会釈で答えると、下げた頭を撫でられた。
「具合は如何ですか?まだ貧血気味と聞きましたが」
「それほど辛くは…………」
立ち眩みでもしない限り、貧血の自覚が曖昧だ。そう思って言ったせいか、見事に誤訳された。
「よく分からない、のですか?」
「ん?」
「…………なるほど、これが語数の弊害ですか」
エルネスはすぐに納得したようだ。けれどこれは、語数じゃなくて多分私の問題だ。口で言う言葉より、思った事が優先されるなら、下手に話すときっと大変な事になる。
「セーナ、私が怖いですか?」
ぶんぶん首を横に振る。怖くないとは言い切れない。でも、必要な事だったと納得はしているのだ。エルネスは苦笑した。言えないほど怖かったのだろう、と判断したからだ。
「代わりに、私の腕でも噛みますか?」
「えっ!?」
「水の神人に牙は無い」
フェルナンが即答して、気持ちの問題です、とエルネスに言い返される。二人の目線がこちらを向いた。何も言うまい。星南は慌てて首を振る。その全力否定は、確かに伝わったらしい。
「まぁいいでしょう。ひとまず暁の間に。水の御仁がお待ちですよ」
「心配性か?空間祝福の範囲内だろう?」
「私達には、それを出し抜いた前科がありますからね」
先頭に立ち、エルネスが歩きはじめる。横を過ぎる風とともに、フェルナンにしか聞こえない囁き声が問った。遠回りの理由だ。
分かった癖に。
いちいち聞いてくるなんて、機嫌でも悪いのかもしれない。フェルナンは眉を寄せた。月桂樹の君は、エルネスを溺愛している。一人息子であり、貴重な魔人族の第一世代。水の神人を逃がしたのが彼でも、許すことは確実だ。
「セナ、めそめそすんなよ。ほら行くぞ」
そう言っても、彼女は手を差し出して来ない。こっちもこっちで扱い難いままだ。不安げな表情で見上げてくる少女。灰色の瞳は何かを窺うように見え、その実、彼女は何も言わない。話せても口数が少ないのか、言いたくない事なのか、ともかく溜息が出そうだ。思っているなら言えばいい。けれど、そう言っても多分泣かれる。仕方なく星南の右手を掬い取ると、きゅっと小さな手が握り返してきた。
嫌われてはいない。
エルネスとダヴィドが言うには、好かれているらしいが。全くそうは思えない。好意を寄せる女の行動は、ある程度決まっている。セナには、どれも当てはまらない。
「この先に、秋薔薇の庭がある。時間ができたら行くといい」
「秋薔薇…………?」
幸い、花には興味があるらしい。やっと女らしい反応が帰ってきた。
「品種はダヴィドさんに聞けよ…………ほら」
フェルナンが向いた方を見る。床から天井までのガラス窓から、花園が見えた。これは薔薇、なのだろうか。八重咲きの撫子みたいだ。ギザギザとした花弁は、白から濃いピンクへのグラデーション。緑の葉との鮮やかなコントラストは、作り物みたいに見える。
「香りが良いのですよ」
エルネスが足を止めて、ガラスをコツンとノックした。
「はめ殺しでね、此処から庭には出られませんが」
「…………」
「行きたいなら、後で連れてってやる」
「ほんと?」
いいの、と言った言葉はやっぱり違う言葉になった。フェルナンが肯定したので、星南は気付かない。
「…………綺麗だね」
やっと表情が緩む。手探りで話すしかない。努力に恥は付き物だ。




