2-3:私にとっては
ダヴィドさんは、一体どういう人なのだろう。
一通り紹介された部屋の中は、寝室一間のワンルーム。にも拘わらず、自宅アパートよりも広かった。足の細い家具で統一されており、絵付けの花瓶やエナメルのカーテン。どれも高そうだ。きょろきょろしていると案の定、笑われた。
「気に入らないか?」
「…………いえ」
「何処が気に入った?」
「えっ!」
そして、この切り返し。庶民には広さも調度も落ち着かない。焦って天井を指差した。白く波のような曲線の彫刻は、雲を表しているのだろう。控え目なシャンデリアの上部は深彫りされていて、青く色付けされている。空と太陽だ。
「やっぱり、セナは子どもだな」
「うっ!」
「失敗した。子ども部屋にすべきだった」
「そっ、それはやめて下さい!」
「なんだ、嫌なのか?」
子どもに見えるのは、身長ですか、顔ですか。まさか中身だったら由々しき事態。しかし言葉は伝わらないままだ。否定するには、首を振るしかない。子どもっぽい行動だという自覚はある。そのジレンマを吹き飛ばすべく、ぶんぶん顔を振った。一気に乱れた髪を、彼の大きな手が撫で付ける。
「大分、戻ってきたな…………」
ダヴィドはそう呟いて立ち上がった。そこで伸びをひとつ。何故か制服のジャケットを脱ぎ始め、ベッドの上で見上げる星南にバサリと掛けた。
「わっ!」
「子どもだと言われたくないなら、自分の姿に気を使え」
ボンッ、と音がする勢いで顔が熱くなる。すっかりノーブラに慣れた身体は、下着レスにすら順応しそうな勢いだ。あり得ない。人として越えてはいけない何かを、過ぎるところだった。
でも。
ダヴィドさんは、どの段階でそう思ったのだろう。今度は一気に青ざめた。胸は揺れる程無い。
「まずは着替えと言いたいところだが、いい加減腹が減ったな」
ぼやきながら歩いて行った彼は、両開きの扉を引いた。カラカラとキャスターの音がする。入って来たのはキッチンワゴン。それを押していたのはフェルナンだった。
「此処の使用人はどうなってんだ。普通、客に給事押し付けるかよ」
「全員古参だ。お前など、赤子も同然だろう」
「肩持つな!」
相変わらず不機嫌らしい。置いて行かれたんじゃないと、彼を見てやっと安心した。自分のよりも大きい分、重たいジャケットに袖を通す。完全にぶかぶかだ。脱ぐという選択肢がない以上、袖を折るしか道はない。けれど、元より厚手の生地だ。
一度脱がなきゃ無理だよね。
袖を見たまま頭を捻る。透けたのか何なのか、着ているのは疑惑の服だ。そもそも誰が着せたの?少なくとも三回は、誰かに裸を見られた計算になる。嫁入り前なのにあんまりだ。それでも何もなかったと、幼児体型に感謝すべきか。いや、それはない。
「セナ」
呼ばれて顔を上げると、ダヴィドが再びベッドサイドに座った所だった。
「腹は減らないか?程よく出来立てだぞ?」
「ダヴィドさんが泣かせまくってるから、冷めた」
「不可抗力だ…………」
歩み寄って来たフェルナンが、大きな溜息をついた。それで、不機嫌というよりも疲れた顔だと気付く。
「チビ助、こっちは予定が押してんだ。さっさと食って着替えろ。じゃなきゃ使用人を呼ぶ。頭から風呂に突っ込まれて、ゴシゴシ洗われるぞ。いいのか?」
「良くない!」
「風呂か?」
「いいえ!」
「飯か?」
「ハイッ!!」
「セナはこうやって扱うんだ」
その後は、三人で食事を取った。シフォンケーキにパウンドケーキ。主食の粉物はどれも暖かく、ふんわりと柔らかい。茹で野菜のサラダに、スープは多分コンソメだ。時々変わった香りのハーブが使われていたけれど、良いホテルの朝ごはんといったメニューに似ている。
「先程の話と被るが――――」
食事中の話題は、エルネスさんの家から此処に来た経緯だった。風の神人であるセザールさん。あんな優しそうな見た目なのに、腹黒い奥さんばかりを娶っているらしい。身に覚えがあり過ぎて、否定できないでいると、もし戻るなら、とフェルナンが水を差した。
「あの男に、身体中を撫でまわされる覚悟をするんだな」
「こら」
直ぐにダヴィドが咎めるものの、聞いてしまったものは消す事が出来ない。固まった星南に、フェルナンは叔父の犯罪を暴露した。
「お前の服がココに無いのは、月桂樹が持ってるからだ。意味、分かるな?」
「は、はい」
震える声で返事をすると、で、と彼はダヴィドの方を向いた。
「フェル坊、頼むから穏便に話を進めてくれ」
「まどろっこしい。セナは見た目程ガキじゃねぇよ。言わなきゃ馬鹿な事しかしないんだ」
「…………セナ」
額を押さえたダヴィドが、諦めたように首を振る。彼が渋々話した事は、着替えについてだった。
本来なら使用人に全部任せるらしいが、ローリエに加え、十六夫人の事があったばかり。また一人にされた上、肌を見せるのは嫌だろう、と気を使ってくれたのだ。
「残る選択肢は、フェルナンに着付けされるか、自力で着れる物を探すか、そのままだ」
「けどな、お前が泣き過ぎたせいで時間が無い。着付けか、そのままの二択だ」
それじゃぁ、そのままという選択肢しか無いだろう。そう思って、借り物のジャケットに触れる。せっかく袖も折ってもらったし、重いくらいは当然の我慢だ。
「セナ、悪いんだが、それは着て行けないぞ?」
「えっ!」
「ベッドに入って、調子悪いですって顔しとけ」
仮病を示唆された。時間が無いと言っていたところからして、誰かと会うのだろう。どうせ会っても言葉は通じない。唯一、話が出来たのは月桂樹こと、セザールさんだけだ。色々話したかった。けれど、知らない間に服を剥いだ相手と分かった今、信用は出来ない。
「そう思い詰めるな。運の良い事に遠路青石の国からお越しになっていた、水の神人紫菫の君という方がお見えになる」
「水の、神人…………」
「気性の穏やかな方らしいぞ。俺は見た事ないけど」
「そうと決まれば、セナはベッドだ」
カップを置いたタイミングで抱き上げられる。思わず抵抗した星南を、ダヴィドはフッと鼻で笑った。
「暴れると、知らんぞ?」
「え?」
彼はそれ以上何も言わない。意味深過ぎて反論に困る。見上げるしか出来ない星南は、結局、何枚も上手なのを理解させられてベッドに戻された。渋々ジャケットを返し、寝具に潜り込む。食べてすぐに寝たら、太りそうだ。小さい分軽いのが売りなのに、重くなったらどうしよう。恨みがましい視線をダヴィドに向ける。
「よし、良い子だ」
機嫌の良さそうな笑みを返された。悔しい。
「さて、俺は御仁を出迎えに行ってくる。フェルナンを残して行くから、何かったら言え」
「…………はい」
口を挟むタイミングが掴めなかった。あんなに長く感じた一日が、この部屋では駆け足に流れている気がする。ここに来て、どれくらい経ったのだろう。せっせとテーブルの上を片付けるフェルナンの服装は、あの不思議な部屋で見た時と変わらない。濃紺のギルドの制服に、腰には二ふりの剣。見ていた事に気付いたのか、彼は大きな溜息をついた。
「そこで寝ていろ。手伝いは要らねぇよ、仕事が増える」
最後が余計だ。
仕方なく天井の彫刻を見上げた。細かいから、暇つぶしどころか目が回りそうだ。何故に天井がこれなのか。溜息の出る思いで視線を下げて、手近に積まれたクッションを数え、それに花が刺繍されている事に気付く。このバツ印の刺繍は、日本でも見た事があった。でも名前が思い出せない。
戻れるのだろうか。
無断欠勤何日目?それさえ最早分からない。空き巣に入られていたらどうしよう。失踪届は、まだ出されていないだろうけれど…………こんなに面倒を見てくれているのに、じゃぁ帰ります、と背を向けても良いのだろうか。
後ろめたい。
そう思う程に、縛られだしている。この世界は悪い場所じゃない。いずれ、帰りたいとすら思わなくなるのだろうか。
日本に帰る、理由は無い。
でも帰りたくない、訳じゃない。慣れた世界だ。一人でも生きていける、身の丈にあった世界。思い出も友達も、全部向こう側にある。帰らなきゃいけない。
帰るつもりで居なければ、私は。
扉の開く音にハッとした。ダヴィドの声と共に、知らない男性の声がする。隠れるように布団の中で小さくなると、足音が近付いて来た。
「セナ、と言うのかな?」
「…………」
残念ながら、真っ先に声を掛けられた。恐る恐る顔を出すと、見える位置にはダヴィドしか居ない。彼がベッドサイドに座りながら視線を下げる。それに釣られて下を見ると、ベッドマットに肘をつく、という低い位置に彼は居た。オールバックの黒い髪に、グレーの瞳。ぎょっとして飛び起きると、驚かせてごめんね、と笑いながら立ち上がった。
「僕は、ヴィオレット・ブルーエ・フランソワ・ジュール・ラ・バルテル・バルテ。青石の国の神祝長補佐官をしています。歳は三千くらいかな?」
また、何処から突っ込めば良いのか分からない人が出てきた。細身の身体に、白いゆったりとした長い服。腰には鮮やかな織物の帯を締め、動くたびに揺れる装身具が音を立てる。
髪型が違ったら、かなり中性的な人物だ。
「大分、子どもみたいだね。名前を聞いて良い?」
「…………桂田 星南です」
「かつらだせいな?それは、何か意味がある言葉みたいだけれど、知っている?」
「え、えぇと、私の言葉、分かるんですか?」
「分かるよ。神人だからね」
神人だから分かる。セザールさんも神人だ。だから話せたのか。一人納得と神様への理不尽を訴えながら、星南は小学生の頃の記憶を引っ張り出した。
「桂というのは、木の名前。田は田んぼの意味です。星南は――――」
サザンクロスと言うんだよ。
カッコいいだろうと父が言った時、意味も分からず喜んだ。中学生くらいに、親の新婚旅行先を知って、ダメージを受けたけれど。
「星です。南の空に浮かぶ、星座のこと」
「良い名前だね。僕なんて、ふわふわしてそうだからって、フランソワなんだ」
「え?」
「本気にした?」
「…………嘘なんですか?」
「割と真実。何か辛い事を聞いてしまった?顔色が悪いよ」
そんなに顔に出易いのだろうか。思わず片頬を押さえて否定すると、両親は、と不意打ちのように聞かれる。表情が凍り付いたのが、自分でも分かった。
「…………亡くなり、ました」
しかも事故で。海岸の道でスリップして、海に落ちたのだ。あの安全運転の父が。
「セナ」
ダヴィドが心配そうな顔で、ハンカチを差し出していた。それで涙に気付く。
「ご両親は他界されているそうだ」
フランソワがそう言って、部屋の空気が一層重くなった。信じられない。もう一年も会っていないなんて。もう二度と会えないなんて。
――――帰りたい。
過去に。今じゃない何処かに。戻って今度こそ、後悔の無い別れを。
「駄目だよ、しっかりして」
肩を揺すられて身体が跳ねた。冷や水を浴びたみたいに、身体が震えだす。見下ろしたままのフランソワの瞳が、青く変化した。
「全てにおいて不安定だ。ともかく、あまり思い詰めない方が良い。神人には時空を渡る能力がある。でもね、好きな場所に行けるわけじゃ無い」
手を離した彼は、息をついてベッドサイドに腰かけた。立ったままのフェルナンが、突然時空を渡るのか、と問いかける。
「そうだよ。自分の力を理解していないのに、彼女の力は半分解放されている。神人の成人が五十なのは、扱う能力が大きいからだ。何の備えもなく手に有っても、身を亡ぼすだけになる」
「どうにか出来は?」
「再び封じる事は出来ない。けれど、ある程度血が近ければあるいは…………星南、といったね。貴女はどうしたい?」
頭がくらくらする。どう答えて良いのか分からず、半ば呆然とフランソワを見た。
「年を聞いても良い?顔色が良くないな。少し横になって」
言われるまま横になると、酷くホッとした。小さく二十三歳と言うと、半分以下か、と困った笑みに頬を掻く姿が見える。
「仕方ないから、言語だけは開放してしまおうか。僕よりも君達の方が話しやすいだろう?」
「セナと話が出来るように?」
聞き返したダヴィドに、フランソワは出来るけれど、と注釈を付けた。
「思念語は単純故に難しい。思った事が音になるし、場合によってはキツく当たられていると勘違いする事もあるだろう。二人は知識者だろうから、子どもの言葉にいちいち悩みはしないだろう?けれど、上手く導くには周りの努力が必要不可欠だね」
まぁ、と苦笑して灰色になった瞳がこちらに向く。
「星南が会話を望むなら、というのが前提だよ」
会話が出来る。
「本当に…………?」
話せる見込みは薄いと思っていた。話せれば良かったと、何度も思った。起き上がりかけた星南の額を枕に押し戻し、フランソワは良い事ばかりじゃないよ、と囁いた。
「僕は今、貴女にしか分からない言語を話している。その違いが星南には分からないだろう?」
全く分からない。本当にそうなのかすらも、分からなかった。この世界は分からない事だらけだ。
「私の居た世界では、二十で成人です。大学を出て仕事もしてて、一人で暮らしていました。話せない事は、辛いです。思った事が伝わらないのは、歯痒いし、申し訳ないと、思います」
「…………もしかして、完全に時空の向こう側で育ったの?」
「この世界が、私にとっては異世界です」




