2-2:翻弄
お姫様、と呼ぶ夫人から逃げて随分経った。
もうその声は聞こえて来ないし、人の気配も無いようだ。植え込みの下に這い蹲っていた星南は、のろのろと小道に頭を出した。さっきよりも影が長い気がする。死に物狂いで逃げて来たから、何処に行けば戻れるのかも分からない。
むしろ、戻りたくない。
よもや女性に対して、身の危険を覚える日が来ようとは。服を汚してしまったけれど、逃げる隙があったのだから仕方ない。
「はぁ」
溜息が零れた。白いノースリーブのドレス。解けかけた肩紐を締め直すと、あちこち擦りむいた腕が見えた。頬もヒリヒリするから、顔に傷を作ったかもしれない。別の植え込みの陰に隠れ直して、枯れ葉の上に座り込む。長いスカートを膝に抱えると、身体の側面がヒヤリとした。腰まで入る深いスリット。もちろんパンツは穿いてない。片側だけと自分を慰め、顔を伏せる。
靴や靴下、装身具。投げられる物は全て、投げて来た。
そうする以外に、止めて貰う術が無かったから。
カナリのメンバーが、どれ程気を使ってくれたのか。それを今更ながらに気が付いた。泣きながら逃げなくてはならないような、そんな事があるなんて…………されるまで思い付きもしなかった。腕の傷を押さえて、とうとう嗚咽が堪えられなくなってくる。馬鹿だ。もっと他の方法があった筈なのに。
もう泣いても、どうにもならないと励ます事が出来なくなっていた。
パーティーのお荷物だったから、きっと置いて行かれたのだ。私が居なければ、彼らが危険な目に遭う事も無いだろう。
それくらいしか、役に立てない。
むしろ、これで役に立ったと言えるのかすら。
涙に霞む庭を見ていると、不思議な事にキラキラと光り出した。見間違いかと思い、目を擦ってよく見てみると、淡い緑色の光が降り注いでいるようだ。慌てて上を向く。日の射しこむ緑の梢――――違う。この光は、魔法だ。
「ふぇる…………」
言いかけながら瞬いた視界は、もう田舎の家だった。星南と父に名前を呼ばれ、夢だと分かるからこそ抱き付いた。
「お父さんっ!」
どうしてこんな夢を見せるの。
それでも心地いい、覚めて欲しくない夢だ。泣き虫だなぁ、と父が笑う。記憶通りの声が、一気に夢へと星南を誘った。私よりも泣き虫な癖に!
「そんなに泣くと、目が溶けちゃうぞ」
「うそつき!」
「溶けたら困るぞ?パパが畑にまいちゃうからな」
「やだー!」
「大根さんが喜ぶぞ~!」
「それもやだー!」
「じゃぁ、こちょこちょだ!」
笑い声が重なる。幼い星南を抱き上げて、白髪交じりの男は言った。
星南は、小さいままで良いんだよ――――
エルネスが星南を見つけたのは、勿論、偶然ではない。そこに居ると分かって来た。けれど、とても話し掛けられる雰囲気では無く、どう励ませば良いのかも分からなかった。全身泥だらけで、頭に葉っぱも付いている。なにより、腕も顔にも細い傷が付いていて、薄っすらと血の香りが漂っていた。
彼女は手当を嫌がる。
突然、物を投げて暴れ出したと言われたが、十六夫人は女だ。女は可愛い嘘をつく。そしてセーナは、そんな事を理由もなくしない。愚かで従順、そして子どもだ。事を拗れさせるより、眠らせて仕切り直す方が最善に思えた。
艾の緑の色術式が眠りと麻痺の光を降らせると、小さな身体が傾いでいく。呼んだ名前は違ったものの、一瞬見えた安堵の顔に、自分の中で何かがキレた。
突然暴れるものか。
言い返しはしなかった。父は毒婦を好む。だから嫌いだ。この家も。
「セーナ」
以前は忽ち治った傷が、まだ赤く濡れている。そこに予備のガーゼを当てて、素早く包帯を巻いた。時空の歪みを治した身体。もう異常な回復力は見られない。
力があれば。
神人の傷は忽ち治る。それが出来ない子どもには、保護者が確かに必要だ。けれど、誰でも良い訳ではない。
ダヴィドは夫人の足止めをしている。フェルナンはローリエだ。こんな場所にセーナを置く事は出来ない。意見は一瞬で一致した。自宅に戻っても、制服を着ていたのには訳がある。色々と隠すには便利なのだ。
父は、俗世に疎い。
「三日もあれば…………別の鳥籠を用意するくらい、造作も無いんです」
外したローブを地面に敷いて、色術式耐性を設置する。自分の気配を変える事で、ダヴィドには準備が整ったと伝わる手筈。空間祝福が施された空に波紋が広がり、彼が次の手に進んだ事が分かった。星南をそっと抱き上げる。軽くて細くて、眠っていると儚さばかりが際立つ。
早急に太らせねば。
見ている方が、痩せ具合に罪悪感を覚える体型だ。どんな過酷な場所で育ったのだろう。
「それも聞かせて戴きましょう」
エルネスはやっと笑みを浮かべた。落とさないように縦抱きにして、パチンと耳飾りに触れた指を鳴らす。準備していた青紫の石を握りしめ、創造の言葉を口にした。
『求めし先は彼方 遥か彼方に有りて 辿り辿りて 吐息を探す 印されし色は此処に 大気に交じる事無く 色を持つ者――――紫菫の君を探せ』
空は歪まない。
いくら国一番の祝福印所持者と言えど、上には上がいる。保険も掛けた。
ローブの上に光を纏った人影が現れる。硬い表情の男だ。エルネスは跪いて正式な礼を取り、そのまま星南を横抱きに持ち替えた。
「お呼び立てのご無礼、お許しください」
「構わないよ。彼女が?」
問われて立ち上がる。自分と同じ姿をする人物が、驚いたのが分かった。
「風の神人に追い回された?」
「そんな所です」
エルネスは、サラッと父親のマイナス点を加算した。手荒く扱ったのは彼ではないが、無断で囲い込もうとした事には腹が立つ。その苛立ちを微塵も見せない微笑みを浮かべて、頭を垂れた。
「アシャール家別宅に、空間祝福を施せる場所を用意しました。一時そちらで保護したく」
「成る程。僕がそれを施しても構わない?」
「勿論です」
「…………分かった。彼の方がお戻りになるタイミングで、此処を抜ける。彼女をいい?」
同じ姿を映す男が腕を差し出した。自分と変わらぬ顔が、穏やかな笑みを浮かべる。
「連れ去ったりしないよ。暗青との契約は、神人同士の約束よりも重いんだ。それにこの色術式は君だろう?信頼されていなければ、もうとっくに目覚めてる」
次第に光に変わっていく二人を見送り、エルネスはローブを拾った。穏やかな午後の空が、微かに歪んで波紋を残す。何をしているのだろうと、頭のどこかで思った。事を大きくしたら、退路が減るだけだ。
セナが泣いたら――――
ダヴィドの言葉が頭を過ぎる。
持てる権力全てを使ってでも、奪い返す。
セナの仲間は俺達だと、言い切れる彼が羨ましい。けれど、そうあって欲しいとも思った。神話の時代より求められる水の血筋。このままだと何時か、仲間内で血を見る日が来てしまうのではないか。
あのセーナ相手に?
…………不思議と想像できない。
「さて、後始末をしなくては」
馬鹿馬鹿しい事を考えてしまった。エルネスがもう一度見上げた空は、変わらず青いままだった。
小さく呻いて、星南は目を開けた。何処かの部屋だ。しかも天上に凄い彫刻がされている。そぉっと顔を横に向けると、あと三人は寝られそうなベッドの上だという事が分かった。クッションがこれでもかと置かれている。冷たい落胆が胸に広がった。
また、知らない場所だ。
逆側に顔を向けると、オレンジ色の頭が見える。ベッドに突っ伏すダヴィドみたいだ。ギルドの制服に、少し先の尖った耳。緩やかなウェーブのかかる髪は、その顔をすっかり隠していた。
呼びかけようかと思って、ゴクリと唾を飲む。
もし、ダヴィドさんじゃ無かったら。もし、別れの挨拶を口にされたら。
どうしよう。
ぐるぐる不安が頭を回る。結局、星南はベッドの逆側に降りた。模様の織り込まれた毛足の短い絨毯が、足の裏にチクチク刺さる。ぶかぶかの寝巻は、柔らかなクリーム色。長い袖を捲ると、腕に巻かれた白い包帯が見えた。命の危険はない。服の寿命が短いだけだ。
薄暗い室内。近くにある窓に歩み寄り、そっとカーテンを開いてみる。
巨大な白亜の噴水を中心に、左右対称に剪定された草木が見えた。丁度顔を出したお日様が、一気に長い影を作る。広大な庭だ。
まさか。
星南はザッと青ざめた。後宮の二文字が頭に浮かぶ。これは絶対にヤバイ。
急いでベッドに引き返し、寝ている人物を凝視する。揺り起こしたいのは山々だが、起きた瞬間に捕まるのは困る。もしダヴィドじゃなかった場合、ベッドの上で男女が一緒。悪い予感しかしない。
頭を捻った結果、星南はベッドの真ん中で仁王立ちになった。そして跳ねた。容赦ない両足飛び。ベッドに恨みでもあるかのような、大ジャンプだ。スプリングが音を立てて、綺麗に並んでいたクッションが崩れていく。けれど、寝ている人は起きなかった。
なんて寝汚い!!
これ以上、触らず穏便に起こす方法は思い付かない。大声を出して、他に人が来るのも駄目だ。息が上がって来た。寝起きにホッピングとか、するもんじゃない。そんな後悔を踏みつけながら、すぐに止めてもらえない、目覚まし時計の苦悩を味わう。脇腹が痛くなってきて、溜息と共に膝を突いた。荒い呼吸に眼を閉じると、ベッドが小さく揺れている事に気付く。
「セナ、お前の朝は激しすぎるぞ」
ダヴィドの声だった。彼は突っ伏した姿勢で爆笑していたのだ。
「いいか、そういう風に暴れる場所じゃないからな。全くこんなに、ぐちゃぐちゃにして…………」
「ダヴィドさんっ!」
飛び付いた。セナ、と咎めるように名前を呼ばれたが、無視だ。ぎゅうぎゅうと首に抱き付くと、彼は諦めたのか、ぽすんと後ろ頭に手を置いた。身体が震えだす。嬉しさなのか、思い出した恐怖なのか。もう分からなかった。ギシッとベッドが沈み、膝で乗り上げたダヴィドが、しっかり星南を抱きしめる。
「怖い思いをさせた。もう大丈夫だ」
「…………はい」
涙が溢れた。
そのまま泣いて、大分泣いて――――星南が落ち着いたのは、朝日がすっかり空に昇った頃だった。
聖ネルベンレート王国の聖都の森から、エルネスの父である神人、月桂樹・サパン・セザールの力を借りて大陸北部を占めるルーク=ドラフェルーン帝国に移動した、までは良かったとダヴィドが話す。
「その後お前は、時空の歪みを戻すための部屋に閉じ込められた。月桂樹の君は、変わった女性を好むから、まさか囲うとは思わなくてだな…………すまん、辛い思いをさせた」
なんで、彼が謝るのだろう。
「セナ?」
呼ばれた声に頷く。だって言葉が通じない。涙腺は弛みっぱなしで、目元に乗せられた冷たい布の下で、まためそめそ泣いた。
「目が溶けるぞ…………」
呆れた声が聞こえてくる。
「…………溶けません。だから畑にも撒けないんです」
「冷やす意味が無くなる」
その布を取られて、溜息をつく彼が見えた。
「頼むから泣き止んでくれ。一日中、腕立てをする事になるんだが」
なんて理由だ。
もしかして、証拠隠滅の為に目元を冷やされてるの?疑いの目をダヴィドに向ける。それに気付いて、彼はクッと喉で笑った。
「冗談だ。もうペナルティーは無い」
「え?」
「保護すると預かったお前を、こんなに泣かせたら…………胸が痛むというものだ」
急に切なそうな顔をした。そこに漂う色気に、思わずきょとんとする。何だか意外な一面を見せられた。
「セナは妙に腕立てに敏感だからな。ほら、泣き止んだ」
ダヴィドはそう言って、カラッと笑った。じっと見上げていると、クシャっと頭を撫でられる。
「俺を悲しませた罰だ。その腫れが引くまで、ベッドから降りられないものと思え」
「えっ!?」
「このままだと、朝飯を食いっぱぐれるぞ」
それは困る、かもしれない。
星南はお腹を押さえた。久しぶりに空いている。グーと鳴らないのが不思議なくらいだ。また目に濡れた布を置かれ、この家は、と話し出す声が聞こえる。
すっかり翻弄されて、もう涙は出てこなかった。




