1-30:悲痛な叫び
視線を反らしてしまったエルネスを見上げ疲れて、星南は目を閉じた。熱いような、寒いような。もうよく分からない。こっそり嘆息して重たい瞼を開くと、そこは、見た事のない明るい庭園だった。
ぷかぷかと浮かぶ光の玉。色とりどりのランプと花が咲き乱れ、昼のように優しい光が満ちている。あれっと思って瞬く瞼から、一筋、涙が零れ落ちた。
「可哀想に。対価に子どもを使うなんて」
初めて聞いた低い声。そっと目元に触れたハンカチの主を探すと、長い黒髪の人が困った笑顔で、すぐ隣に屈み込んでいた。
「私が見えるかい?」
「え?」
「キミ、嫌な物を持っているね。それが抵抗を大きくしたんだ。エルの術式は失敗だよ。ある意味ね…………痛かっただろう?」
辺りを見回そうとして、身体が動かない事に気付く。これが金縛りと言うものなのか、まるで石になったみたいだ。
「エルは、何と言っているかい?」
「…………?」
視線を動かすと、まさに石のような色をしたエルネスが見えた。ぎょっとしたけれど、この場所自体がどうにもおかしい。
もしかして、気を失っている?
星南は夢かもしれない、と思った。掴まれたままの左腕。それを見詰めるエルネスの横顔は、彫像そのものだ。色を失って灰色になっている。こう言っては失礼だろうが、あまり違和感がない。
「状況を良く分かっていないようだね。早くこの回線を落とした方がいい。きっと慌てているよ。けれど、うちの子は…………多分私に急用があったんだ。何か、知っている事を話してはくれないかい?」
「…………あ、あの」
「うん」
返事のように微笑まれ、これはいよいよ夢かもしれないと思う。エルネスさんの美形っぷりに充てられた頭が、彼に似て、似ても似付かない穏やかな人を登場させたのかも。胸が平らだから、中性的でも男性だろう。自分の頭も中々にけしからん。
「えぇと、あの…………」
何から話そうかと思って、一番の懸案を尋ねる。
「私の言葉、分かります?」
「もちろん。今の状況は?」
「えっ!?えっと、森で襲撃犯を、その…………」
「何処のだい?分からなければいいよ、続けて?」
矢継ぎ早に問い返されて、びっくりした。これは夢で確定だ。この人には言葉が通じる。そう思うとじわじわ嬉しくなってきて、涙が目元に滲んできた。弱ったな、と彼は苦笑する。それを再びハンカチで拭ってくれてから、さぁ話して、と先を急かされた。自分の夢には、ゆとりすら無いらしい。
「えぇと、耳の尖った獣みたいな人を、その、殺したんです。そうしたら胸から火が…………大気に還るって」
ダヴィド達の姿が甦る。けれど話の内容が出てこない。だから結局、普段言いたくても伝わらない事が口から溢れた。
「私、人殺しと間違われてて。殺されそうなんです…………蛇人族でも無いのに、捕まったら後宮とか。全然ついていけなくて。本当は、日本って言う異世界から来たんです…………帰りたいんです。なのに、みんなに迷惑かけてて、なにも出来なくて…………」
「なんだって?」
「えっと?」
「今、異世界と言ったかい?」
肯定すると、その人は何て事だと顔を覆ってしまった。
「あ、あの。私、帰れるでしょうか?」
おずおず尋ねると、彼は泣きそうな顔を上げる。
「…………すまないね、その話は後にしよう。状況は分かったよ。恐らく、複数の神人がキミを探しているだろう。指定の位置へ行くまで、もう接触は控えた方がいいね。直ぐに動けるパーティーを手配してあげるから、上手く逃げなさい」
「で、でも私、言葉が通じないんです!」
「あぁ、そんな見た目だから失念していた…………どうしようか」
暗い顔で顎に手を当てた彼は、綺麗な顔に皺を寄せて悩み、こめかみを揉んで唸り、腕を組んで首を傾げてと、困った人の三段活用を披露した。何というか、見ているこちらまで不安になってくる。星南の視線に気付いた彼は、何かを閃いたのか、パッと表情を明るくした。
「そうだ!キミの保護を、私が名乗り出れば良いんだ!!あの方は青石の国から動けない。これでエル達とキミ、両方を助けられるよ」
よく聞いて、と頬を包まれて瞬きをする。ずいぶんと話す人だ。表情が豊かだし。夢なのに、ちっとも思い通りにならない。もっと話したかったのに、彼の方が話してばかりだった。疲れた声で、はい、と返事をすると、目が覚めたら、と直ぐに用件を話し出す。本気で聞くべきなのだろうか。起きたら、夢なんて殆ど忘れてしまうのに。
「いいね、私の名前を呼ぶんだよ?」
「…………はい」
返事をした瞬間、視界に霧が掛かる。胸に一抹の不安が過った。もし夢じゃ無かったら、彼が言った事をしなければならない。
「あっ、あの!待って!!」
自分の声が響く。白い空間に投げ出される感覚がして、思わず目を閉じた。それでも数秒だ。慌てて目を開いた時、見えたのは暗い天井だった。
名前を聞き忘れた!
魔法が普通にある世界。夢オチなんて都合のいい事が、幸運度が枯渇気味の私に起こる筈がない。星南は青くなって飛び起きた。そこは馬車の中のクッションだらけの箱の中だった。
振り向いた後方、幌の隙間から弱い光が射し込んでいる。
目が覚めたら、月の位置を確かめて。
言われた言葉が頭を過る。慌てて箱から這い出して、自分の上半身が白い襟だけという、際どい姿だと気が付いた。
何で脱がされてるの!?
ぎょっとして腕を抱くと、首から下がる鍵が目に入る。これを外せと言われたのだ。迷い無く首から外して、幌を開いた。月はほぼ真上に近い。
「チビ助!服を着て来い!!」
「フェルナン!あの人の名前教えてっ!!」
「風邪引いても知らないからな!」
くるりと背を向けた彼に手を伸ばし、星南は掴んだ物を引っ張った。
「お願い!時間が無いの!!」
「髪を引っ張るんじゃねぇよっ!!」
「フェルナン!」
彼女が余りに必死だったから、怖い夢でも見たのかと思った。血の気の引いた顔に涙を浮かべ、左腕には痛々しい包帯。あるのか無いのか分からない胸に、平らな腹と小さな臍まで堂々と晒して…………頭が痛い。女の恥じらい方を、どうして俺が教えなきゃならないんだ。フェルナンはやや据わった視線を星南に向けた。
「服を着て来い。それとも脱がされたいか?好きな方を選べ!話は後だッ!!」
「はっ、はいぃっ!」
慌てて幌の中に逃げ込んだ。星南は、自分を落ち着かせようと首を振る。言葉は通じないのだ。ちゃんと頭を使わないと、人の名前など到底聞き出せない。
荷箱の上に置かれたシャツを、急いで羽織ってボタンを留める。裾をズボンに入れる暇さえ惜しんで、再び幌から顔を出すと、ダヴィドとエルネスが近くにやって来た。
「元気に騒いでいたな」
「具合はどうです?」
微笑みを浮かべるエルネスの顔を見て、星南はハッと閃いた。あの人は彼に似ているのだ。何故、父が暇人だという話を、私に聞かせたのだろう。彼もエルと言っていたのだから、もしかしてあの人は、エルネスさんのお父さん?
彼に向けて、立てた親指をグーっと見せる。三人から、可哀想なものを見るような視線が返ってきた。私のバカ!こんなジェスチャーじゃ、日本人相手でも通じない!
「…………セナ、暫く休んでいて良いぞ?」
ダヴィドが頭を撫でた。月はもう真上だ。それ指して、迷いながらエルネスを見る。
「私ですか?」
首をひねった彼を見て、星南は自分の顎を摘まんだ。うーん、とわざとらしく声を出し、眉間にシワを寄せる。次はこめかみを揉んで、もう一度唸った。困った人の三段活用。こんな行動をする人は珍しいに違いない。最後は腕を組んで首を傾げる。
「月桂樹の君に見えたのか!?」
真っ先にダヴィドがモノマネに気付いた。名前にしては変わっているけれど、時間が無い。星南は両手を少し欠けた月に向け、ローリエ、と叫んだ。
…………何も起こらない。
「やっぱり夢オチ!?」
「ローリエ・サパン・セザール・エタン・ラ・ヴェリエ・ヴェルデです」
「え?」
エルネスが下げた星南の手を上げさせて、もう一度長い名前を口にする。とても覚えられない。
「繋げて言えば大丈夫です。私の後に復唱して」
言われるがままに、月に向かってその名を呼ぶ。
「よくできました!」
声が頭に響いた。同時に激しい耳鳴りがする。あっという間に意識は遠退いて、エルネスが崩れる身体を抱き止めた。
駄目神人っ!なんて事を!!
自分が負荷をかけ過ぎたというのに、どうして媒介に選んだのか。しかも、このマズイ状況で通信を開くなんて、他の神人の介入を誘発する最悪のパターンだ。
「エルー!パパだよー!!」
月から零れ落ちた光が、人の形を作る。この場合、星南を真似た姿になる筈だった。なのに見慣れた本人の姿が現れる。長い黒髪にゆったりとした白い服。開いた瞳の色がエルネスを映した途端に、薄い緑から暗い青緑へと変化した。
「あれ?お姫様は寝ちゃったのかい?」
エルネスは無言で星南をダヴィドに預け、気の抜けた笑顔を浮かべる父親に殴りかかった。
「ご機嫌斜めだねぇ」
投影された身体には通じない。分かっているだろうに、と眉尻を下げる男は、エル、と困った様子で名前を呼んだ。
「今なら移転回路を開けるけれど、どうする?」
「は?」
とうとうボケたのか、という冷たい視線を返された。息子は今日も冷たい。
「月桂樹の君、移転回路を開ける、とはどういう事でしょう?」
ダヴィドが問いかけると、淡い光を纏ったままの神人は、そのままの意味だよ、と微笑んだ。
「キミが抱いているその子はね、とても大切な水の国のお姫様なんだ。けれど結界が閉じている今、彼らは自由に動けない。だから私が、保護を名乗り出たんだ」
水の国のお姫様?
一瞬ポカンとしたのは、ダヴィドだけでは無かった。その反応を見て、ローリエがクスクス笑う。
「蛇人族の方じゃないよ?その子は、水の神人だ」
「父上、何処からが冗談なんですか?このややこしい状況を、かき混ぜるのなら帰って下さい!」
「…………全部、本当なんだけど」
「まさか」
エルネスが星南の方を見る。ダヴィドも抱える少女を見ろして、神人、と無意識に呟いた。彼女はその条件を、どれも満たしてはいなかったのだ。
「今なら青石の国を跨ぐ移転が可能だよ」
「それは、俺達を含めて、という事ですか?」
どうにか立ち直ったダヴィドが問うと、もちろん、と即答される。フェルナンが進み出て、ウスタージュが薬草採集に出たままだ、と現状を報告した。
「なら、君たちと入れ替わりでパーティー鳶をココへ寄越そう。少し時間が押しているんだ。今も火の神人が、通信に介入しようとしていてね。数が増えると流石に…………辛いかなぁ?」
「ウスタージュは呼び戻せないのか?」
「海岸の方だ。多分アイツ、竜体で飛んでるぞ」
「…………分かった。置いて行く」
エルネスがダヴィドの方を見た。本気か、と問われたのだ。
「セナはこの状態だ。神人としての能力は皆無。聖都を抜けてエリオの森に行くまでに、最低でも七日はかかる。火の神人が出てきたら、俺達に出来る事は無いぞ」
「ですが――――」
「アイツは研究機関候補だ。研究職のありがちな失敗として、今回の事は教訓になるだろう」
ダヴィドは、遠くに行かないようにと、戻る時刻を指定したのだ。
パーティーが揃って帰還出来ない事は辛い。しかし、人の身体を解いてまで遠方に行ってしまった彼には、苦い薬が必要だ。
「ならば決まりだね」
ローリエがふわりと両手を広げた。淡い緑色の輪が空中に広がって、金属の擦れ合うような高い音がする。
「一の剣は持っていけないよ、彼女は私に」
「父上、本当にセーナは神人なんですか?」
「嘘を言ってどうしろと言うんだい?さぁ、支度を急いで」
傾き始めた月へ、光の粒が幾重にも昇って行く。
海岸絶壁の薬草採取に夢中になっていたウスタージュは、それさえも見逃した。約束の時刻ギリギリで拠点に戻ると、居る筈のない気配を感知する。
「副団長!?」
慌てて焚き火に駆け寄ると、濃紺のローブを纏った四人の男が立ち上がった。全員が青であり緑。魔人族のみで構成される、危険な仕事専門の熟練パーティーだ。
「よお、クロケの坊っちゃん」
「ど、どうしてここに?ダヴィドさん達は?」
ジリジリと嫌な予感が這い上がる。綺麗さっぱり、馴染んだ気配が見付からない。
「道草が過ぎたな。お前は今日から鳶の配属だ。しごいてやるから、感謝しろよ?」
ウスタージュの悲痛な叫びが、森に響いた。
一章の最終話になります。
ウスタージュとは暫しお別れ。




