1-29:後味
青白い炎に足元を照らされながら、夜の森を歩く。先頭はフェルナンで、その後をダヴィドとウスタージュ。星南はエルネスと並んで最後尾だった。
埋葬地の森。気分はすっかり肝試し。
「セナ」
エルネスが囁いて、手袋に包まれた長い指を一本、自身の唇に押し当てる。両手で自分の口を押さえたけれど、私は何も喋っていない。
前を歩くダヴィドが片手を上げて、それで全員が停止した。止まり損ねた星南は、エルネスに首根っこを掴まれる。
「一人多い」
その呟きを合図に、足元から光が消えた。暗い森。明かりを探して見上げた空には、まだ月が無い。
「セナ」
エルネスが呼んだ。抱き寄せるように腕が回って、肩が強張る。それでも周りは真っ暗で、腕を回して、と指示されれば迷う余地は無かった。ここに一人で残されても、気付かない自信がある。逃がさないとばかりにしがみ付いた星南を、彼は小さく笑った。
「神人ではないな」
安堵を含むダヴィドの声に、でも全員殺られました、とウスタージュが補足する。
「その一人、押さえますね?」
「――――当然だ」
鞘を滑る金属音。震えだす指先を、自分でどうにも出来ない。怖い。馬車に残されるのと、どっちがマシだっただろう。弱音を吐きそうになる唇を噛んで、そっと背後を窺った。真っ暗だ。みんなには見えているのだろうか。
ザワザワと黒い木々が風に揺れ、ローブの裾が翻る。その音さえも、怖いものに感じた。
「来るぞ――――!」
ダヴィドの声を合図に、パチンと指の鳴る音が二つする。
『勿忘草の青っ!』
『神の羽のひと欠けよ 大地に根付きしその息吹 白く苦しめ 眠りを誘え その身は痺れ 霧の彼方へ――――艾の緑』
青白く森が照らし出されて、淡い緑の雨が降る。
その中を、一直線に走って来る人影があった。角のように尖った耳。身体は逆三角形で足は細く、両手に抜身の剣を持つ。顔まで毛だらけだ。人と言うより、二息歩行の獣に見える。
真っ先に飛び出したダヴィドが男の剣を二本とも受け、駄目だな、と琥珀色の目を細くした。呪いか、とその背後に回ったフェルナンが答え、振り上げた白い光が一直線に男に落ちる。あっと息を止めた星南の視界は、緑色に閉ざされた。エルネスのローブだ。
「見る必要はありません」
それでも断末魔が聞こえてきて、しがみつく腕に力が入る。
「討伐ギルドに盾突く以上、命は覚悟の上でしょう。それに――――」
殺して、しまったのだろうか。言葉の続きは頭に入って来なかった。こんなに簡単に。
――――人が死ぬ。
キーン、と高い耳鳴りがする。一瞬身体の感覚が遠のいて、消えかかった意識を、きつく抱き締められる事で取り戻す。
「しっかりして下さい、セナ」
頭が痛い。気持ちが悪い。どうしてこんな世界なの。空気の癖に神様ルールが厳しくて、何故か来てしまった私は放置。それだけでもやるせないのに、捕まると命が危ない種族疑惑に殺人容疑。何か、含むところでも有るのでしょうか!?
なんとかなる。
なんとか出来るのか。自力では最早ムリな気がする。それでも、ですよっ!!
何もしないで悔やむのは、もう止めるんだ。私はまだ、何もしていない。星南はエルネスの身体をそっと押した。背中の腕が緩み、見下ろす彼の顔が見える。困ったような苦い笑顔だ。
ローブのフードを背に払い落として、隠された現実に目を向ける。
フェルナンが僅かに表情を固くした。その足元に、焦げ茶色の毛並みが転がっている。剣を鞘に収めたダヴィドが、フードを被れ、と咎めた。
「イヤです」
この人は、死んでるのだろうか。気を失っているだけじゃない?そう思って近付いて行く。
「っ!」
開いたまま口。血の飛び散っ服。肩から腰へとバッサリ裂けて、今も染みが広がるばかり。
「生きてねぇよ」
殺されるかもしれないと、恐怖した相手。名前すら知らない誰か。こんな風に殺された事を、哀れむ資格なんて、私にはないのに。ひどいと、何に対して思ってしまったのか。今や私は、加害者だ。
「それは人形だ。意思を持たない時点で、人族とは認められん」
そう言ったダヴィドが、うつ伏せの体に足先を入れて、ひっくり返す。
「フェルナン、見せてやれ」
短い溜息を吐いて、フェルナンの剣が動かぬ犬人の胸に突き刺さった。あまりの行為に口を押さえて、目を見開く。
「第一種族の神人は…………俺達に言わせれば人外だ。人を人だったモノにする事が出来る時点で、対等な相手じゃねぇ」
ダヴィドがクッと顎を上げる。それを合図に、フェルナンの剣が胸から抜けて、赤い火花が弾けた。血ではない。溢れ出たのは炎だった。あっという間に全身へ燃え広がり、嫌な臭いが立ち上る。距離を取ったダヴィドが星南の腕を引き、更に後方へ下がらせた。
「これが神人の祝福を受けた代償だ。神の力は、人の身には強すぎる。土へ戻れない時点で、冥界には行けん」
「大気に還るんですよ。大神より授かった命を返納する、唯一の方法でもあります」
エルネスが星南にフードを被らせた。赤いローブ。魔除けの色。その血がまだ赤い事を、意図せず料理で確かめた。怪我の治癒力の高さも同様に。
そして、神人に目を付けられている少女だ。
「マズイな」
パシッと額を押さえたダヴィドが呻く。ウスタージュが確認に行っている方の刺客は、冒険者ギルドという何でもやる集団の人間だった。しかも殺し専門の高給取り。竜人の感知を阻害するローブを身に付けていた時点で、背後に権力者、曳いては神人の存在がちら付いている。
そしてこの男に至っては、加護を宿していた。
「すぐに聖都へ逃げ込むと、逆に特定されかねん」
「そうでしょうが、ここに留まっても…………」
無駄に数居る殺し屋が、報酬目当てにやって来る事は確実だ。そして彼らが、神人に所在を伝えてしまう。
「俺達が非感知対策の金属を所持していても、役に立たん」
「他のパーティーを動かせませんか?」
「小夜鳴鳥なら呼べるが…………伝達回線を開けば、この位置を神人に特定されるぞ」
「コイツを燃やした時点で、バレてんだろ?」
嘆息したダヴィドの視線がこちらに向いた。琥珀色の綺麗な瞳。ポカンと見返した星南の頭に手を乗せて、目線を合わせるように片膝をつく。
「非常に良くない状況だ。セナ、お前にも協力してもらわねばならん」
「…………はい」
「まず、腕を出せ」
彼に近い左手を差し出した。側で燃え続ける火の中は、もう何も残って居ないように見える。大気に還るという事は、骨さえ残らないのだろうか。良くも悪くも、それは現実味の薄い光景だった。整理の付かない頭の中。手首を掴んだダヴィドの手が、ジャケットの袖を捲って、シャツの袖ボタンを外す。
え?
思った時には肘まで袖を上げられて、手袋が引き抜かれた後だった。
「エル、やれ」
「…………此処でセーナを使うんですか」
「すぐに出血が止まる。痕も残らん。非戦闘員だ、問題ない」
「えっ!?」
低い位置のダヴィドを見て、エルネスを見上げる。何かをするのではなく、何かを、されそうな状況なのだ。やっと気付いて、おろおろ二人の顔を見比べる。
「セーナは子どもです。色を提供するには適しません――――フェル」
「何でだよっ!ここはセナだろう!?」
ぎょっとした顔で、フェルナンが抗議した。
「それくらい役に立ってって!ソイツは荷物じゃなくて、メンバーなんだ」
「出来るな、セナ?」
「え…………」
子どもだから、色を提供するのに適さない。でも、剥かれているのは腕一本。メンバーだから、役には立ちたい。貞操の危機?でもエルネスさんは、フェルナンでも替わりが利くような言い方だった。
「フェルナン、もうウスタージュを引かせろ。エルは諦めてくれ。セナが頑張る気でいる内に済ませるんだな。泣かれるぞ?」
「もう泣きそうですよ…………フェルを貸して下さい。腕立てなんて御免です」
「フェルナンは駄目だ。青の力を落とす訳にはいかん」
「では、ウスタージュですね」
「分かった、もういい。腕立て無しだ。セナで我慢しろ!」
「そうですか。泣こうが喚こうが、ペナルティーは無しですね?」
逆の腕が引かれる。目を見開いたダヴィドの顔に、しまった、と書いてあるようだった。
「フェル、明かりを一つ寄越して下さい」
「了解」
「えっエルネスさん!」
無駄に歩数を増やしただけで、抵抗虚しく、木の根元まで連れていかれる。助けを求めて、ダヴィドの方に手を伸ばした。その素肌を晒したままの腕に、エルネスの指が掛かる。
「むむむ無理ですっ!何をするんですかっ!?」
「安心して下さい。貴女が差し出せるものは、血液だけです。その代わり、量を必要とされるでしょうけれど。致死量という事はありません」
腕が上へと引き伸ばされる。足がつま先立ちになって、背中を支えられるままに、離れたい相手の服を掴んだ。細くて白い腕。涙を浮かべる灰色の瞳が、縋るように見上げてくる。
可哀そうに。
優しくエルネスは顔を綻ばせて、セーナと名を呼んだ。
「そんな顔を見せられて止める男は、少数派です。覚えておきなさい」
言われた言葉が、逆の耳から抜けていく。直視を避けていた顔。作り物みたいで繊細な、天使のような優しい笑顔。それを見てしまった効果は絶大だった。いっぱいいっぱいの思考が凍り付く。痛いくらいに吊り上げられた腕に、綺麗な顔が頬を寄せた。サラリと動いた髪の向こうで、そこに唇が触れ、薄青い瞳が一瞬こちらを見下ろす。
『沼の底 暗き緑を冠する者よ』
もう一度、腕に唇が押し当てられた。そのまま手首の方から肘の内側へと、何かを探すように下りてくる。ぞわりと背筋が震えて、爪先立ちの身体が揺らぐ。更にきつく抱きしめられて、息が詰まった。話し掛けられる雰囲気は、もう何処にも無い。
『血脈を継し闇の青より 対価を持って音を届ける』
「っ!!」
彼の口が大きく開いて、白い歯が見えた。それが腕に沈む。
食い千切られたと、思うような痛さだった。
声すら出せず、強張る身体は抱きしめられて、何処にも痛みを逃がせない。ぎゅっと目を閉じた時、その場所からカッと熱が広がった。頭を殴られたような衝撃に、身体が痙攣する。生暖かいものが肘の方に流れていく感覚が、怖い程に鮮明だった。やめてと言おうとした口からは、もう空気しか出てこない。
必死に見上げたエルネスの顔は真剣だ。また腕に寄せられるその顔が、水の幕に歪んで見える。
『熱持ち 色を結べ――――!』
自分に火が付いたのかと思った。身体がガクンとのたうって、崩れ落ちるままに座り込む。
「セーナ、意識を失わないで下さい」
抱き込んだ姿勢のまま、膝をつくエルネスを見上げる。唇の端が赤かった。それが自分の血かと思うと、訳の分からない羞恥に襲われる。けれど、彼の瞳は冷静なままだ。抑揚の無い声の出し方は、魔法の呪文を唱える時と同じ。これはきっと医療行為の親戚なのだ。そう言い聞かせて、どうにか呼吸を整える。死なないと言っていたから、大丈夫。私はお荷物なんかになってちゃダメなんだ。合わない歯の根を噛み締めて、しっかりエルネスを見返した。
せめて、カッコよく役に立ちたい!
口をへの字に曲げてめそめそ泣いている星南に、そんなカッコ良さは残っていなかったが――――真っ直ぐな視線を向けられた彼を、複雑な気分にさせた。
「私の父は暇人ですから。きっと、直ぐに答えてくれます」
そうで無ければ、やり直しだ。
多分彼女は、二回目には耐えられない。掴んでいる手首が、小刻みに震えたままだった。思った以上に血が抜けたのかもしれない。
他者に対価を求める色術式を、子ども相手に使った事が無い訳ではないが。あの子は泣き叫んで大変だったし、少し大人しくなってちょうど良かった。比べてセーナは、声も出せずに泣いている。
それは、子どもの反応でも、大人の反応でも無かった。その気のある女性を泣かせる事には、微塵も胸は痛まない。けれど今は、確実に無理を強いた状況だ。泣き喚くと思っていた。
こんな泣き方をされるとは…………
どうして自分は、信頼の眼差しを向けられているのだろうか。怯えられても良いと、すっかり諦めていたのに。そういう立場で良いと、諦めていたのだ。困惑の中で思い至ると、とても悪い事をした気分になってくる。
血の止まらない細い腕を見て、エルネスは頭の中で叫んだ。
何をしているんです、駄目神人っ!
しっかり深く噛んだから、傷が残ってしまうかもしれない。浅いと余計に痛い思いをする。魔人族は尖った犬歯を上顎に持つ。それの本来の使い方は、紛う方なき現状なのだが…………
なんと後味が悪いのだろう。




