1-27:初手
ガタゴトと馬車が揺れる。
予定を早く切り上げて、パーティー金糸雀はベルコを発った。この時期は村への出入りが激しく、早朝ともなれば行商人の群れに紛れて都合がいい。一見ギルドの馬車とは分からぬように、幌の色はくすんだグレー。御者席のエルネスも茶色のローブを着込んでいる。
「えーびーしー?」
星南が聞き返したのは、同じ馬車に乗っているウスタージュだった。ちなみに荷物の山の後方ので、ダヴィドとフェルナンが仮眠している。
「エービーシーって言ってるだろう?」
「えーびーしー…………」
「ほんっとうに、耳が悪いな」
彼は文字を教えようとしていたのだが、ついでに発音もと欲を出した。自動翻訳恐るべし。知らない文字を読むウスタージュの発音は、アルファベットのABCそのものだったのだ。しかしココの基本は三十八字。YとZの後はどうなるのだろう。
「ウスタージュ、発音は諦めて下さい」
エルネスが早々に助け船を出した。彼の耳にも、不毛なやり取りに聞こえたらしい。
「単語と意味を教えて様子を見ましょう。出来たら、薬草辞典を読める程度に仕上がると良いんですが」
「やっ、薬草辞典!?」
ウスタージュが絶望的な顔をした。そんなにマズイものなのか。木箱の上に置かれたその本を手に取ると、辞典と言うわりには薄く、畳まれた新聞紙ほどの大きさだった。外側の材質は革かもしれない。中の紙はコピー紙よりも薄かった。
こんなに紙も作れるんだ。
そこに感心しながらページをめくる。次々と現れる植物の絵は、芸術方面に造詣の深いモノだった。写真は流石に無いらしい。でも多分印刷だ。ある程度ページを進めて、星南はそっと辞典を閉じた。
全部雑草じゃなかろうか。
草だから緑なのは仕方ない。でも、明らかに四ページくらいは同じ絵だった気がする。間違い探しか、そんな筈ない。ならば違う植物だろう。
文字を読む以前の問題が発生した。
タラリと嫌な汗をかく。薬草師への要求レベルが高過ぎるのだ。
「いーだろう?携帯用の最新版なんだぜ」
星南が興味を持ったと勘違いしたウスタージュは、辞典の表紙を指でなぞってタイトルを読み上げた。聖都の主要な薬草集――――主要って事は、主要じゃない物もある訳だ。これでも農家出身で、普通の人よりは植物に詳しいと思う。主に育て方と除草について。
「頑張るから、見捨てないでね?」
「だよなぁ、感動するよなぁー」
言葉が通じない障害を、心底恨んだ瞬間だった。
「じゃ、今日は十種類くらいから進めるか?丁度、この辺にも自生してるって話だし」
この辞典の持ち主は、ウスタージュだ。もしかすると、このパーティーの本来の薬草師は彼だったのかもしれない。今は鎧も着ていないし、剣も持っていない。きっと、戦闘要員では無いのだ。
「ちゃんと聞いてるか、セーナ」
「…………ハイ」
写真に慣れた星南の目には、絵の違いを探すだけでも大仕事だった。ウスタージュが許すなら、文字に和訳を書かないと覚えられそうにない。
「ウスタージュ…………」
「ん?」
「何か書く物ある?メモ用紙とか」
「茎と根には薬効があるんだぞ」
「…………この世界の神様なんて、空気清浄機に浄化されちゃえばいいのに」
「なんだよ、もごもご話すなって」
前途多難である。
馬車が横道に逸れたのは、日が西に傾く頃だった。長閑な田園風景は鬱蒼とした森に変わって、道もだんだん悪くなる。ウスタージュが呪文のように植物名や特徴、処理方法に用途などを口にするので、星南は復唱し続けていた。文字を教えるのは諦めたらしい。
それにしても、また雰囲気のある森である。酸性雨でも降ったのか、枯れて骨化している木や、倒木がちらほら見えた。
「外が気になりますか?」
エルネスの問いに肯定すると、顔を出しても良いですよ、と思わぬ返事を返された。ウスタージュが御者席側の幌を開いてくれたので、いそいそそちらに移動する。ホラーハウスとかコウモリとか、そういう雰囲気が濃厚になっただけだった。夕方なのが、きっといけない。
「此処は聖都の森と呼ばれる場所です。端的に言うなら、埋葬地ですね」
なんてこった。
しかも埋葬地って、含みのある言い方だと思う。墓地とどう違うのか。
「私達は、この森で討伐依頼をこなします。長ければ数週間の滞在になりますよ」
「その間に、薬草の扱いも教えてやるよ」
「埋葬地って一体…………」
この世界には普通の森って無いのかな。というか、もしかして野宿?
埋葬地で野宿なの!?
いやまて、落ち着け。野宿なんて経験済みだ。立地が精神的に宜しくないだけで。けれどエルネスは、四頭の馬を操り前を向いたままだ。ウスタージュは空気を読めずに、薬草の話を続け出している。星南は何も問えず、呆然とホラーな森を眺めるしかなかった。
程なくして馬車が止まる。
道から少し外れた更地は、もう一台馬車が止まれそうな広さがあった。空は茜色に染まり、黒々と影を濃くする森が一層不気味さを増している。空にはコウモリが飛んでおり、カラスみたいな鳥が数羽、西へと飛び立った。
「今夜は鳥鍋ですかね」
それを見上げてエルネスが呟く。ウスタージュはダヴィドと一緒に火を熾しており、フェルナンは見回りに出ていた。
「セーナ、鍵はしっかり身に付けていますね?」
「はい」
返してもらった家の鍵は、紐を通して首に掛けてある。神への願いと呼ばれる、白い襟の下なので、出して見せるのも容易ではない。
「…………不安そうな顔をしていますよ」
エルネスと二人揃って馬車での待機を命じられ、何故か隣に座るよう言われた星南に、逃げ場はなかった。
「暗緑の森と違って、此処は動物も植物も豊富です。よく雷が落ちる事以外は、気を付ける事はありません」
よしよしと頭を撫でられ、そのまま星南は俯いた。この森から出る頃、自分には何か憑いているかもしれない。神様にも見放される運の無さだ。肩が重いのは気のせいだろうか。
「セーナ」
頬を包んだ彼の手が、伏せた顔を上げさせる。無駄にキラキラしい微笑みだった。星南は光の速さで顔を反らす。けれどエルネスはくすくす笑って、自分に向けられた小さな耳に囁きかけた。
「死にたくなければ、一人にならない事ですよ」
「っ!」
耳を隠そうとした手を捕らえられ、反射的に戻した視線が絡み合う。彼の顔はびっくりする程近くにあって、ぎょっとしたまま言葉に詰まる。にこりと笑顔を浮かべたエルネスは、そのまま凍り付いた星南のこめかみに口付けた。
「ダヴィドには、何処まで許したんです?」
何の話ですか!?
全力で仰け反ったせいで、御者席から落ちかけた。その背を支えたのは、やり取りを見ていたダヴィドだ。
「大人しく座っていろ。此処から落ちたら、下手をすると首の骨を折るぞ」
「ダッ、ダヴィドさん!私を一人にしないで下さい!!エルネスさんは危ない人なんです!」
「落ち着け、落ち着け、な?」
ダヴィドはどうどうと星南を宥めて、片腕に彼女を抱き上げた。エルネスの隣に戻されてはたまらない。太い首にしっかり抱き付くと、背中を軽くたたかれる。まるで子どもだ。急に冷静になった星南は、居たたまれなさに顔を伏せた。
「どうして、ダヴィドの方が好かれているんです?」
不満げにエルネスが言う。自分以上にマイナス要素を重ねているのに、抱き付かれる程慕われているのは納得できない。この身に流れる血が濃い為に、水の血筋を求めてしまう。彼女みたいに陰りを知らず、あまり賢くない女性はタイプではない。それでも構いたくなるし、好かれたいと思うのは、本能的な何かのせいだ。
「納得できませんね」
「お前が納得している方が珍しいと思うぞ?」
「…………私を何だと思っているんです?」
ひねくれ者だ。
ダヴィドは、ニヤリと笑っただけだった。そのまま星南を持って炉へ向かう。
「ウスタージュ、ここはもういい。薪拾いに行ってこい」
「了解です」
「セナ、お前は火の番だ」
「ハイッ!」
妙なトーンで返事を返されたから、苦手なんだな、とダヴィドはこそり苦笑した。少女は子どもではない。大人でも無いが、大人にするのも一興だ。あの程度で動揺するなら、暫く先には進めそうも無いが。
セナを通してエルを揶揄うのも旅の醍醐味。
楽しい事は好きである。
「セナ。鶏肉は好きか?」
「えっ?」
思わず見上げた空は紫がかっていて、薄っすら星が浮かんでいた。
「残念だが、乾燥肉の鳥だ」
「断然そっちでお願いします!」
「…………鳥は嫌いか?」
「いいえ!!」
ダヴィドはそうかと微笑んだ。炎の色に照らされて、オレンジの髪が燃えているように見える。その髪色が、星南はどうにも好きだった。釣られて笑うと、お前を食事係に任命する、と彼に畏まった口調で言われる。
「お任せ下さい!」
そのノリで敬礼をしてみせた。失礼な事に爆笑されたが。何故だ。不満げに頬を膨らませる星南を、エルネスは溜息交じりに眺めていた。顔に感情が乗り過ぎる。それが人としてつまらない、最たるものなのだ。
暴くものがない女など、面白みがない。
そう思うのに目が離せないのは、血筋のせいなのだろう。もう一度溜息をつくと、ダヴィドに来いと呼びかけられた。
「火を見ていてくれ。俺はセナに料理を仕込む」
仕込むのは、料理じゃないでしょう。
エルネスが胡乱な視線向けると、琥珀色の瞳が笑み細くなった。彼女は男を見る目が無いようだ。
「セーナ、ダヴィドは貴女を食べる気ですよ」
「え?」
「エルは腹が減ると、見境が無くなる」
「は?」
二人を交互に見て、星南は首を傾げた。ともかく、空腹のエルネスさんは危険度が割高らしい。つつつとダヴィドの陰に隠れると、知りませんよセーナ、とエルネスは脅してきた。
「危ないから、エルに近寄るんじゃないぞ。噛まれるかもしれん」
「はい!!」
「良い返事だ」
どうやら逆手に取られたらしい。
勝ち目のない会話を続けるのも癪だった。
「ウスタージュの様子を見てきます。美味しいものを作って下さいね」
火の番を堂々と投げだして背を向けたエルネスの耳に、クッと堪え損ねたダヴィドの笑う気配が届く。忌々しい。彼の機嫌はすこぶる悪かったので、薪拾いをしていたウスタージュはかなりの被害に遭った。
エルネスは色使いだ。
薪が無ければ伐りましょう、とその辺の木切り刻み、飛ぶものは落とし、地を逃げるものも吹き飛ばした。
「エルネスさん、もう帰りましょうよ!?地形が変わりますって!!」
「暗くてよく見えませんね」
「嘘だ!魔人族は夜目が利くんですよ!?」
「何か言いましたか、ウスタージュ」
「言ってません!!」
誰か助けて下さいっ!
彼の願いは届いた。動物のような僅かな気配が、一気に殺気へと変わったのだ。
エルネスが後方に距離を取る。
「ウスタージュ、人数は!?」
「五っ!!」
感知に長ける竜人族。ウスタージュは琥珀色の目を見開いた。前には三人しか居ない。パチンとエルネスの指が鳴る。残りの二人は何処だ!?闇の中で刀身が鈍く煌めいた。
襲撃されたのだ。
『古き緑』
黄緑色の光が無数の刃となって、間合いを詰める犬人達に飛んで行く。
「ウスタージュ!!」
腰には一の剣が下がっていた。応戦するしかない。エルネスさんに守られて終わっては、青の名折れだ。力加減が怪しい自分では、殺す事もあるだろう。カキンと硬質な音を立てて抜き放った刀身が、剣を受けた。
「蛇人のガキをどうしたっ!?」
「知らねぇよっ!!」
力任せに振り抜いて、相手を睨む。見事に闇に紛れるローブだ。神人の加護でも掛かっていなければ、説明の出来ない代物である。
どうしてセーナを狙う?
捕らえて皮をどうこうよりも、彼らは殺意の方が勝っていた。止めなければ、あの子の許へコイツらは行く。たった一人を殺す為に、何度も来やがって!
「俺だって、ガキじゃ無いんだ!!」
人から生まれた竜。
俺もそうだったと笑ったダヴィドに、何度救われたか分からない。その彼が、死なせるな、と言ったのだ。高潔の青は向かないとも。
気配だけの存在が、剥き出しの殺意と共に切り掛かってくる。数は二人で計算も合った。目視出来ずとも敵ではない。見知った気配が感知の範囲に入り込み、辺りが一気に明るくなった。
フェルナンの勿忘草の青だ。
「ウスタージュ、その二人は殺さないで下さいよ」
「俺は加減が怪しいんです」
エルネスは思わずウスタージュを見上げた。迷いのない瞳に、水色の火が燃え映る。穏やかで臆病な彼は何処にも存在しなかった。
おやおや。
この賭け、二の剣を渡していなかったダヴィドの負けですね。
場違いに微笑むエルネスに、対峙する犬人達が距離を取る。照らし出された黒い髪。神色の色使いを相手にするなど、聞いてはいなかった。初手で仕留めろと言及された彼等は、雇われ者故に敗走の一途を辿る。




