1-18:傷痕
部屋は闇に包まれていた。ガス灯は消され、窓の外にも夜の帳が降りている。
「エルネス、始めてくれ」
ダヴィドの声に、パチンと指の鳴る音がした。ふわりと閉めきった部屋に風が生まれる。黄緑色の光がポツリ、ポツリと辺りに浮かび上がり、それぞれの姿がうっすら見える明るさになった。隣に立つウスタージュの鎧に、弱く光が反射する。
多分、魔法なのだろう。
浮遊する光を避けるように、星南は後ろに身を引いた。何だかアレに似ていて気持ちが悪い。少し嫌な予感がしていたところに、リーンといういう音も聞こえ始めた。
あぁ、懐かしい光景だ。
鈴虫と時期外れの蛍、日本の風物詩。うわぁ、と鳥肌の立った腕を擦った。実物を知る身には、センチメンタルもへったくれもない、黒い虫なのだ。
早く終わらないかな、と中央に立つエルネスを見る。
巻き起こった風に黒い髪がサラサラと揺れて、瞳の閉ざされた顔は、うたた寝をしているように穏やかだ。すぅっと息を吸い込んだ、形の良い唇。それがほころぶ。
『求めし先は彼方 遥か彼方に有りて 辿り辿りて 吐息を探す 印されし色は此処に 大気に交じる事無く 色を持つ者――――月桂樹の君を探せ』
彼の手にある石が光を放つ。緑の火花が散って、部屋に満ちた光の粒が集束し始めた。不規則だった音がシンクロし、耳鳴りのような音が響く。キーンと頭の中に突き抜けるような高音だ。
「いたっ――――」
星南は、思わず耳を押さえた。
「おっ、おい、セナ!」
「パパに逢いたくなったんだねー!!」
ウスタージュの声と、嬉しそうな男の声が混ざる中、視界が白く塗りつぶされていく。あー、と思う余裕はあった。最近体験したばかりの感覚だ。
こんな時に、ホント、ツイてない。
糸が切れたように、身体が崩れ落ちる。衝撃を感じたのを最後に、星南の意識は閉ざされた。
「何やってんだ!」
「俺は何もっ?!」
「手くらい出してやれ、頭打っただろうが!」
「逢いたくなる筈無いでしょう?」
「照れなくて良いんだよ?」
「…………一先ず、全員落ち着いてくれ」
ダヴィドの疲れ切った声に、沈黙が降りた。隣で渋面を浮かべるエルネスと、彼に抱き着くそっくりな顔の男性。その視線の先は床だ。
「色術式耐性を敷いていなかったのかい?」
「まさか、しっかり施してありますよ?」
どうにか落ち着きを取り戻した彼等から、ダヴィドは視線を星南に向けた。
「フェルナン、セナは?」
「意識が無い」
短く答えた彼は、溜息交じりに心当たりならある、と付け足した。彼女には前科がある。勿忘草の青の光に、二度も怯えたのだ。女神の加護を恐れるなんて、普通に有り得ない事だった。
「光を恐れる、ねぇ?」
「父上、いい加減に離れて下さい」
「やだ」
「貴方をお呼び立てしたのは、セーナを見ていただく為です」
「酷いなエルは。そんな他人行儀な言い方をして」
「黙ってセーナを見て来なさい」
「…………うちの子が、今日も冷たい」
エルネスに素気無い対応をされた彼は、やっと双子のように瓜二つの息子から離れた。うっすらと淡い光を纏い、歩く足音はしない。それは、この姿が実体では無いからだった。彼の本体は遠く離れた帝都にあり、媒体を通して写し出された虚像の身体は、術者を真似る。
「珍しい、生きた蛇人族かい?」
「月桂樹の君、コイツの耳は本物です」
星南を抱き上げたフェルナンは、ウスタージュに目配せをした。一瞬首を捻った彼は、近くで足を止めたその人に声を掛けられる。
「初めまして?鎧付きの若き竜人」
「はっ、は、初めまして!マロン・ウスタージュ・クロケと言います!」
「半竜人の家系に生まれた竜人とは、君の事か。苦労したようだね、話は聞いているよ」
「い、いえ、俺はそんなに…………」
初めて神人を見たウスタージュは、どうしたら良いのか分からなくなった。同じ人族でも、第一種族である神人は神に最も近い存在だ。崇拝対象にしている国もある。敬うべきだが、どの程度がベストなのだろう。相手は、あのエルネスさんの父君だ。しかも姿は、見紛うばかりにそっくりで…………不気味と言ったら失礼だろうが、二人も居たら堪らない。
化かされている気分になるな。
頬を掻いてそれを誤魔化すと、エルネスと同じ顔がニコリと微笑んだ。サーっと背筋が冷える。心臓に悪い笑顔だった。
「その内、ゆっくり話を聞かせておくれ。さぁ、今は下がっていなさい。金属は神人の祝福に過剰反応するからね」
「…………は、はい」
そのまま手招きするダヴィドの隣に移動すると、セナは大丈夫なのか、と聞かれた。倒れる前に、小さく何かを言った気がする。けれど、それが言葉か呻きなのかは分からなかった。
「寝ているように見えます」
「そうか」
ダヴィドの瞳が、再び星南へ戻された。髪型、服装、エルネスとそっくりな姿をした男が、小さな頭を撫でている。ウスタージュは拳を握りしめた。焦燥なのだろう。触れる事が出来ない自分は、出会って間もない男にさえ出遅れている。
「片親が神人で無ければ、この髪色は出ない筈だよ。瞳も曇りの色なんだろう?」
「はい」
フェルナンは答えたが、問題は彼女の耳が本物だという事だ。彼もそれに気付いたのだろう。初経の有無は、と直ぐに聞いてきた。
「有り、かと」
困ったねぇ、と淡く光を纏う神人は首を捻った。
「身体に祝福痕が無ければ、この子は禁姻の子だ。奇跡的に少量出血で発病しないだけの、ね」
「怪我をして、それなりの出血をしていますが」
「セーナは、乾燥魚を手掴みしたんですよ。手袋一枚真っ赤に染めたのに――――」
歩み寄ってきたエルネスが星南の腕を持ち上げ、包帯を解く。その右手には、傷跡さえ残っていなかった。
「既に病原になっている、という事はないのかい?」
「しっかり、意思は残っているんですよ」
「息もしています」
すーすーと健やかな寝息を立てて、ぐっすり眠っている。見下ろしたフェルナンは、腕にかかる重さに幻ではないと囁かれた気分になった。神人にも首を捻られるなんて、本当にコイツは何で出来ているんだ。
「まぁ、他の可能性が無い訳ではないよ。でも、現状は黒だろうね…………うーん。それよりも、ここは何処なんだい?さっきから、妙な圧力を感じるんだ」
エルネスに似た顔が、困ったように眉を寄せた。
「此処はアングラード。聖ネルベンレート王国の青域都市ですよ」
「何だって?!」
彼は、エルネスなら絶対にしないであろう驚愕の表情を浮かべて、飛び上がった。
「青石の国の隣じゃないか!!」
「それがどうか?」
「どうもこうもあるものか、三色菫の水神に睨まれてしまう!寧ろ今、睨まれたところかもしれない!!あぁ、こうしてはいられない。エリオの森でまた呼んでおくれ。その時は移転でも、何でもしてあげるから!」
早口に言うなり、その姿が光に変わる。
「父上!」
エルネスの手が空を掴んで、部屋に闇が落ちた。
「相変わらず、落ち着きの無い方だな」
「あの駄目神人…………!」
ダヴィドは、彼の肩を労うように叩いた。
「仕方ない。セナには、極力衝撃を与えないようにして進もう」
「エリオの森は王国最南端ですよ。此処から最も遠い森です…………持つのでしょうか」
「大丈夫だ。俺には、黒点に見えん」
彼が言い切る事で、不思議とそんな気がしてくる。四人は顔を見合わせた。
「セナを死なせるな」
「了解――――」
ガタガタという揺れが、横たえた身体を包む。星南が目を開けると、紺色の天井が薄明かりの中に見えた。
「んっ…………!?」
慌てて飛び起きると、白いクッションがぽろぽろ辺りに散らばる。馬車の中だ。周りは木箱に詰められた荷物がぎっしり積まれていて、同乗者の姿は見えない。幌の外が明るいから、もう朝なのだろう。荷物同様、クッションまみれで箱に詰められていた星南は、首を捻った。
この状況は如何に?
大事な通信魔法の途中で、意識が飛んだ記憶はある。あれが夜だから、今は翌朝だろうか。服装は、一切乱れのないギルドの制服のままだ。首を捻ってもう一度辺りを見回すと、後方に赤いローブが掛けられているのが見えた。多分この馬車の御者は、エルネスさんだ。違ったら、寝ている間に売られたと諦めるしかない。
木箱の中で身じろいだ時、馬の嘶きが聞こえた。続いて、馬車の揺れが穏やかになる。
「…………」
外に複数人の声がした。門番だろうか。停止した振動に、思わず息を殺す。隠れるように木箱に身を丸めると、クッションが少し埃臭い事に気付いた。
「なら、ベルコへ迂回しよう」
ダヴィドの声が聞こえる。良かったぁ、と星南は安堵に吐息を溢した。これはちゃんとカナリの馬車だ。ともかく、ダヴィドさんが一緒ならば大丈夫だろう。そうと分かれば、揺れのない内がいい。いそいそ木箱から抜け出して、荷物の合間を縫って御者席へ向かう。下がる幌の隙間から、緑と紺のローブが見えた。その紺色の方がすぐに振り向く。
「出て来るな」
にべもない。フードまで被ったフェルナンは、見える口元だけでも不機嫌だった。荷物の隙間で停止せざるを得なくなった星南は、そこで口をへの字にする事しか出来ない。
「青海の大シケとは、この時期珍しいですね」
「これも三色菫の水神の仕業か?気紛れにしても、たまらんな…………ああセナ、もう出て来ていいぞ」
聞こえたダヴィドの声と共に、エルネスが振り向いた。
「気分はどうですか?」
「えっ、えーと…………はい」
「大丈夫、なんですね?」
「はい」
他に伝わる言葉が無いので、それしか言う事が出来ない。それでも、元気だとアピールすべく、大きく首を縦に動かした。
「外が見たいなら、ローブを着ていらっしゃい。まだ馬車を止めていますから」
「はい!」
外が気になっていた星南は、慌てて荷物の奥に滑り込んで行った。エルネスとフェルナンは、顔を見合わせる。
「いたって元気そうですね」
「俺は、一つ嫌な予感がする」
「何です?」
首を傾げるエルネスに、悪戯に付き合わせた時より酷いゲッソリ顔で、フェルナンは白状した。
「アイツ、一人でローブが着れないんだ」
「…………珍しく、甘やかしたんですか?」
「…………」
そう言われると、全く否定できなかった。そんなつもりは無かったのに、確かにこれは甘やかしだ。
「フェルナン~!」
ほら来た。赤いローブを抱えた星南の目線の先は、隣の男では無い。
「いい加減、着方を覚えてくれ」
「それは山々なんですが…………」
何しろローブの掛け金は形が変わっている上、首下でよく見えない。オマケに硬い。
「セーナの手袋を出さなくては」
フェルナンに向けてニコリと笑った隣の男は、御者席からひらりと身を翻して逃げた。今のやり取りだけを見て、星南が出来るようになるとは、思えなかったらしい。精々甘やかせ、とでも言いたかったのだろうか。冗談ではない、仕事が増える。
「ココの金具を――――」
仕方なく、自分の着ているローブで実演して見せる事にした。それでも、嫌な予感は基本的に当たるようになっている。
「セナ、指を挟むぞ」
もたもたと手間取っている星南を、見かねたダヴィドが手伝った。それをやるから、このチビ助が出来ないままなのだ。
「馬車に居るか?少しなら馬にも乗せてやるぞ?」
「ダヴィドさん、コイツは馬酔いしますよ。マジで止めた方がいい」
そう言って御者席から飛び降りたフェルナンは、ダヴィドが放置した馬の方へ行ってしまった。その隙に、星南は外へ顔を出す。馬車に繋がれた馬は、紺色だった。ちょっとした、びっくりカラーだ。
「セーナ、お前、大丈夫なのか?」
「ウスタージュ?あれ、鎧は?」
「俺の名前と、もごもごを一緒にするなって」
日本語がもごもごに聞こえる青年は、濃紺の制服に同色のローブを纏って馬に跨っていた。鎧のせいで、いかつい体型だと思っていたけれど、違ったらしい。案外スッキリしている。
「ウスタージュには、いきなり触ったりするんじゃないぞ。まだまだ危なっかしい」
ダヴィドがそう言うと、本人も肩を竦めてみせた。何が危ないのか良く分からない星南は、首を横に倒す。彼はカナリの中では普通の人だ。歳も近そうだし、話しやすい。それでチーズの恨みが消える訳では無いけれど。
「セナに、これからの事を話しておこう」
大きな手が、ローブの上から頭を撫でる。一度離れたその手は、星南の右手を掬い上げた。そこに包帯が無い事に、今更気が付く。
「俺達は、討伐任務をこなしながら聖ネルベンレート王国、聖都シュラールを目指す。約ひと月は馬車での旅だ」
「は、はい」
「頑張ってくれるか?」
「はい」
しっかり頷くと、彼はホッとしたように笑んだ。取られていた手が離されて、自分に戻って来る。あんなに血が出た筈なのに、もう傷痕すら残っていなかった。