1-17:柔らかい物
元の部屋に戻った星南は、椅子を足す、と言ったダヴィドに留守番を命じられた。さして広くない部屋だ。ここに全員集まったら狭いだろ。そう思って首をひねっていると、彼は直ぐに戻って来た。
「…………ダ、ダヴィドさん、それは」
頭を抱えたくなった。じゃなくても狭いというのに、彼は机を運び入れたのだ。
「今度こそ、椅子を持って来る」
「は、はい…………」
律義に宣言して、再び部屋から出て行く。残された机。四畳半くらいしかない床の半分は、既にベッドが占拠している。どう考えても、五人で食事の出来る広さはない。仕方なく窓際のチェストをガタガタ動かしてはみたものの、運ばれた机が最も邪魔だった。
星南は、これがダヴィドの気遣いとも知らず知らずに、げんなりとする。もう少し頭の良い人だと思っていたのに、やっぱり脳筋なのだろうか。机や椅子の配置に困って、溜息が零れる。エルネスにされた事を悩む暇など無かった。
「ダヴィドさん、椅子を二脚減らして下さい!身動きが取れません!!」
「何だ、何かあったか?」
「椅子は、こんなに要りません!」
「椅子か?椅子がどうした?」
「邪魔なんです!」
「こらこら、重ねたら座れんだろうが…………あぁ、不要だと言っているのか?」
「はい!!」
彼は察しが良かった。ウスタージュでは、こうはいかないだろう。
「ベッドをそう使うか。なら、クッションが要りそうだな」
「あるんですか?」
「任せておけ」
なんて心強い。ベッドをベンチにして机を置き、椅子を三脚並べる。トイレのドアは誰か立たなければ開かないけれど、これが一番マシな配置に思われた。丁度そのタイミングで、ウスタージュが戻って来る。
「ダヴィドさん、大変な事になりました」
「出し抜けにどうした?」
「フェルさんとエルネスさんが…………」
「あぁ…………もういい、状況は分かった」
ダヴィドは、ウスタージュの肩を叩いて労った。それとは逆の手で、額を押さえる。星南が近付いて見上げると、二人は何とも言えない表情で見下ろしてきた。
「緘口令だ」
「了解です」
「え?」
ダヴィドは星南の頭を撫でて、飯の支度だ、と話題を変えてしまった。食事はまたポトフ。それが五つも乗った大きなトレーを乗せると、さして幅のない机はいっぱいになってしまう。だと言うのにウスタージュは、背負った麻袋からパンやチーズ、何か不明の黒い塊を出してダヴィドに見せていた。
「随分貰って来たな」
「俺、暫く食堂には行けないかもしれません」
「安心しろ、今夜立つ」
「えぇーっ!」
やっと部屋で眠れると思っていた星南は、びっくりした。野外泊は好きになれそうにない。テントすら無いのだから、野宿と言った方が良いだろう。ホームレスだって、もう少しマシな場所で寝ている気がする。不満げにダヴィドを見上げると、王国軍が近くに居る、と彼は困った顔で教えてくれた。それが何だと言うのだろう。よく分からないまま首を傾げれば、お前を探しているかもしれん、と笑えない事を言われた。
私を、探している?
何の為に?まさか異世界人だから?それ以外に理由は思いつかない。
「此処に居れば鉢合わせだ。暗緑の森で時間を潰す予定だったが、あそこもキナ臭い」
そう言って近くに来たダヴィドは、床に片膝を突いて目線を合わせるようにした。そうされると彼より視線が高くなり、何とも、申し訳ない気持ちにさせられる。見下ろす事には、慣れていないのだ。
「心配ない。今度は馬車だ」
「はい」
じっと見上げてくる琥珀色の瞳。まるで猫みたいだ。瞳孔が細くて長い。この人も普通の人間では無いのだろうな、と寂しく思う。
「セナ、何が不安だ?」
「…………私は、この世界の人じゃ」
言いかけて、伝わらない事を思い出す。戦慄いた唇。それに歯を立てて、じっとダヴィドを見た。偽らないと決めたんだ。私はこの世界の人間じゃない。それをどうしたら伝える事が出来るのだろう。伝えたら、どうなるかな。
「もういい、セナ。追い詰めたい訳じゃない」
ポンポンと、軽く肩が叩かれた。ダヴィドはそのまま立ち上がって、星南の手を引く。数歩引き寄せられて、その長身を見上げた。私が何者でも、この人は歯牙にすら掛けない気がする。その余裕が羨ましい。
「ウスタージュ、エルネスがもう戻るぞ。先に飯だ。その後に通信を開く」
「了解」
「セナは端に座っておけ」
「…………はい」
その言葉通り、残りの二人も間もなく部屋に現れた。扉を開くと当時に、首筋を押さえたフェルナンが、ダヴィドに駆け寄る。
「アイツ、やりやがった!」
「分かっている、落ち着けフェル」
「落ち着けるか!本当に噛まれたんだぞ!!」
「それは…………なんだ、激しかったな?」
「語弊のある言い方をするな!!」
星南がじっと様子を窺っていると、ウスタージュが隣にやって来て椅子に腰かけた。
「セーナ、世の中には不思議な事が沢山あるんだ」
「はい?」
「ほら、このパンが一番柔らかそうだぞ」
「ありがとうございます?」
手渡された楕円のパンを見て、もう一度ダヴィド達に視線を向ける。何があったんだろう。あんなにフェルナンが怒っているのに、ダヴィドとエルネスは苦笑を浮かべるばかりだ。
「お前にとっても、いい虫除けだろうが。ほら座れ。セナが我慢できなくて食い始めているぞ」
「えっ!?」
「くっそ!間抜けな顔しやがって!!」
何だか理不尽に貶された。
「もう忘れろ、今夜には立つ」
「私は結構、役得でしたよ?」
「ふざけんなっ!!」
「落ち着け、な、フェル?後でウスタージュを噛んでも良いぞ?」
星南の隣で、指名された青年がゴホッと盛大に咽た。
「むっ、無理ですって!俺、男っスよ!?それならセーナを噛むべきです!!」
「わ、私!?」
匙を向けられた星南は飛び上がった。噛むって、何!?私は美味しくありません!骨と皮ってよく言われるんだから、絶対に!!
「セーナは駄目だ。成長期の子どもが、色を提供できる筈が無いだろう」
「なら、ウスタージュか!」
「フェルさんっ!?」
「冷めますよ、食事にしましょう?」
サラッとエルネスが纏め、どうにか全員が腰を落ち着けた。何か不穏な話をしていた気がする。噛むとか、人としておかしいだろう。犬じゃあるまいし。しかも色を提供って…………もし日本と同じ意味だったら、今すぐ逃げるべき案件だ。
「心配するな。ちょっとした遊びの話だ」
ダヴィドが苦笑気味に話す。けれど、そう言われると余計に気になって来るものだ。フェルナンをそろりと窺う。彼は首に当てていた手をしかめっ面で見ていた。エルネスさんが噛んだって事?だからフェルナンも噛みたいの?伝言ゲームの噛付き版なんて、絶対に参加したくない。
「セーナ、チーズは食べますか?」
「ほら、炙り肉もあるぞ?」
気を逸らすように、揃って二人が食べ物を勧めてくる。やたらと腹持ちの良い昼食のパンが、まだ胃に残っている気がする。あまり食欲がない。だから首を振ってそれを断る。
ちゃんと食わないと育たないぞ、とウスタージュが小声で言った。小さくても可愛らしいですけどね、とエルネスが笑えば、食って寝とけば死にはしない、と極論を言ったダヴィドに批判が集まる。笑いが部屋に満ちた。
異世界三日目の夜。
それが、まるで家族と囲むような食卓の雰囲気になるなんて、思いもしなかった。そう思うと目頭が熱くなる。一年前に天涯孤独となった身には、堪えるなぁ。
「めそめそしてんじゃねぇよ」
ぶっきらぼうに言ったフェルナンが、白いハンカチを差し出してきた。
「メートル・オブリに頂いた。お前が使え」
香水の香りがする飾り気のない布。それを押し付けて、彼は遠い目をした。もしかして、と星南は思う。私と一緒で、エルネスさんに虐められたのかもしれない。
「フェルナン、痛い?」
「…………痛くねぇよ、お前は黙って飯を食え」
「フェルさんの元気が無いと、どうにも調子が出ないっス」
「お前はずっと、そのままでいろ!」
「地味にひでぇっ!」
賑やかになった星南たちの向こうで、ダヴィドはエルネスを小突いた。
「メートル・オブリに見られたのか?」
ええ、と流石に視線を逸らせた幼馴染に、溜息が出る。
「人払いを確約して頂きました」
つまり、茶番の甲斐無くという事だ。フェルナンが怒るのも無理はない。
「それで、どうして噛んだんだ?」
「実は伏兵が居ましてね」
「なに?」
エルネスは、犬が散歩に出てまして、と他愛無い会話のように返事を返す。つまり、犬人の手先が居たという事だ。そしてその犬は、フェルナンの珍しい笑顔に落ちたらしい。食堂から付いて来たと言うのだ。
「本物か?」
「犬を見間違える筈が無いでしょう?」
「毛色の可笑しい、犬だったのか」
「えぇ…………大分可笑しかったんです」
そう言って息をついたエルネスは、その尻尾を出させる為に、フェルナンに色を求める行為に及んだらしい。つまり、噛み付いたのだ。
「あの子に純情が残っていて、私は嬉しくなってしまいましたよ」
「余計な事を言うな」
一言多い隣の男に、ダヴィドは硬いチーズを押し付けた。
「通信はどうするんです?」
「隣の部屋だな。メートル・オブリが手を回して下さるなら、時間は掛けられん」
「気が重いですね」
父親嫌いのエルネスは溜息をついた。そのついでのように、押し付けられたチーズをフェルナンに回す。
「俺も、気が重いぞ」
ダヴィドはエルネスに視線を向けた。それは言外に、お前のせいでな、と言っている。
「仕方無いじゃありませんか。ナメられているようでは、子守は務まりませんよ?」
それも事実だったので、ダヴィドは星南を脅かした男を叱る事が出来なくなった。
「…………もういい、さっさと食え」
「新人教育は、貴方の仕事ですよ?」
「あぁ、分かってる」
「部下の育成も、疎かに出来ませんよね?」
「…………あぁ」
藪蛇と化したエルネスから、ダヴィドはすぐさま逃げる方を選んだ。
「ウスタージュ。お前、野草辞典を持ってきているか?」
「簡易のならありますよ」
「後でセナに渡せ」
「ん?」
名前の出された星南は、ウスタージュとダヴィドをきょろきょろ見比べた。
「明日からでいい。薬草師の勉強をしろ」
「や、薬草師…………」
そう言えば、そんな話だった。
「セーナ、文字は読めるんですよね?」
エルネスが聞く。否定するチャンスだったのに、彼の顔を見たとたん、ピンクの小箱が頭を過ぎった。うわぁーっと星南の時が一瞬止まる。あの箱は何処に行ったのだろう。まだこの部屋にあるのだろうか。まさか、エルネスさんが持っていたりしないよね?
読めないと認めたとたん、この場でレクチャーされたらどうしよう!
服を剥ぐ、皮を剥ぐ、果ては首切りそれよりも。この食卓で、タンポンの使用法を語られるのが怖かった。どうすればいいの?読めると認める訳にはいかない。知るチャンスを逃してしまう。
「な、なんだ?」
必死の形相で星南に見詰められたダヴィドは、目を僅かに見開いて驚いた。流石の彼も、それだけでは何を伝えたいのか分からない。
「文字が苦手なのか?」
しかし、最高に都合の良い事を言ってくれた。間違いではない。真実でもない。エルネスが怖い。
「ホント神様、酷過ぎる!私に何の恨みがあって!!」
「騒ぐんじゃねぇよ」
「フェルナン、聞いてよ!私はまっとうに生きようとすると、セクハラの憂き目にっモガっ!」
「五月蝿い!」
またしてもチーズを口に詰め込まれた。しかも、硬いやつだ!
「しっかり噛んで下さいね」
シレっとエルネスが応援してくる。星南は忌々しいチーズを渾身の力で噛み切った。歯がじーんとする。その残りを、視線反らしたウスタージュに素早く贈呈した。
「うわぁっ!ポトフの中に入れんなよ!」
「責任もって食え」
ダヴィドがジト目で言った。そもそも、そんなチーズを持って来たのはウスタージュだ。それをダヴィドに渡したのも彼である。巡り巡って、硬いチーズは首謀者に返って来た。
「好きで貰って来たんじゃありませんって…………」
「もごもごもご」
「慰めはいらないぞ」
「もごもご…………」
「お前若いんだから、歯は丈夫だろう?」
言葉が伝わらないって、何だかすごい。星南は肩を落とした。
「さあ、ふざけてないで食ってくれ。予定が押すぞ」
リーダーの指示に、メンバーは大人しく従う事となった。けれど硬いチーズは、最後まで二人を苦しめる。
「竜人に硬いって言わせる食い物って、何なんだよ」
「もご…………」
「セーナ、そろそろ吐いていいぞ」
情けはいらん!
キッとウスタージュを睨むと、どういうチーズか知ってるか、と彼はニヤニヤしながら聞いてきた。それくらいは流石に知っている。チーズはミルク無くして作れない。これの味は何だか味噌っぽいけれど、おかしな物では作れない筈だ。
「ダニって虫で作るんだぜ?」
「ならば、もう一つ食えるよな?」
「ダヴィドさんひでぇっ!!」
「酷いのは誰だ?食っても問題ない虫だろうが。物を知らんセーナを脅かすな」
食べても問題ない虫、しかもダニを食べているようです。全然嬉しくない情報だ。星南の目は据わった。いつか蜂の子料理を作ってあげよう。私のトラウマメニューで仕返してやる!
何だかもう、野宿くらい全然平気に思えてきた。
柔らかい物が恋しい。