1-13:溝
エルネスは、本当にすぐ足を止めた。
そこは何もない木の根の上で、振り返ればウスタージュが何処かに見えそうだ。星南は何とは無しに辺りを見回す。霧がほんわか満ちていて、暖かければバスルームを思わせた。お風呂に入りたいと思っているから、尚更そんな風に見えるのだろう。
「引き返しましょうか?」
「え?」
前を見ていたエルネスが、こちらを向いて提案した。私が決めて、良いのだろうか?星南は首を傾げる。
「引き返しましょう」
「は、はい…………」
一体どうしたのだろう。先程までは、それなりに歩かせる気でいた彼が、引き返す?手を引かれたので、一緒に戻るしかない。それでも何かが気になって、後ろを振り向いた。霧が包むその先は、白く煙るばかりだ。それに一抹の不安を覚える。
明るくてもこの森は、何かが嫌だ。
何時までも後ろを見ていると、エルネスはとうとう足を止めて振り返った。
「ギリギリまで、傍に行かせてあげようと思ったんですが…………少しトラブルが有ったようです」
微笑みを浮かべたまま、彼はそう言った。すみませんセーナ、と申し訳なさそうに謝られると、訳が分からず首を傾げてしまう。それは本当に、うっかりとした行動だった。
「…………やはり、知りませんか」
やはり――――?
びくりと身体が強張った。見上げた先にある薄青い瞳は、何時から笑っていなかったのだろう。それが酷く恐ろしく思えた。
きっと何かが不味かったんだ。
その何かが分からない。彼はウスタージュみたいに、笑って流してはくれないだろう。ふと見てしまった、掴まれたままの右手首。それは振り払えそうでいて、無理だと思える絶妙な力が、戒めのようにかけられたままだった。
「セーナ」
一度伏せた顔は、もう上げられそうにない。彼は何かに気が付いてしまったのだ。それを誤魔化すどころか、訂正も出来ない。恐ろしい迄に出来る事がないという、この現実。自分は絶対に蛇人族には見えない筈だ。それなのに、蛇人族として彼らは助けてくれた。
そんな人達を欺いていたんだ。私は、あまりに卑怯だった。
「無理にとは言いません。何時か真実を教えて下さい」
言われたのはそれだけで、再び手を引かれて来た道を引き返す。それでも心には大きな衝撃があって、とても平静ではいられなかった。
きっと今まで、薄氷の上を歩いていたんだ。
それに今更気付いても多分手遅れで、もう取り返しが付かない。そんな気がする。隠し事や、媚びる事。ましてや打算で生きるなんて、向いていないし、好きでもない。世渡りが上手ければ、きっと違う人生を歩んだだろう。何度も何度も、そう思ってきた。それが出来ないと嘆きながら、出来なくて良かった、と思っているのが私だった筈なのに。
慣れない事は、するもんじゃないな。
そう自嘲すると、ツーンと鼻の奥が痛くなってくる。悔しい。偽る事でしか生きていけないなんて、本当に情けない。
「私は、ただの人間なんです…………蛇人族なんかじゃないし、生まれも育ちも、地球の日本っていう島国なんです」
言っても伝わらない。彼らの目にどんな風に映っているのだろう。それを今は、知りたくないと思った。
「家に、帰りたいだけなんです…………」
騙したい訳じゃないし、付け入りたい訳でも無いのに。バカみたいだ。通じないから誤解されている。それを享受していた癖に。
――――自己満足でしかない。
自分が満足しても、今は何も変えられない。どうして何も、出来ないのだろう。
それは、何も努力をしなかったからだ。
「セーナ…………特異言語では分かりませんよ。貴女は、それ以外の言葉を持っていませんね?」
星南は重く頷いて、肯定を示した。
霧の奥から戻って来たエルネスと星南に、ウスタージュは忘れ物でもしたのかと思った。荷馬の世話を中断して近寄ると、ナディーヌ号を走れるように、と指示される。
「走れるように?」
意味は分かる。しかし、理由が分からなかった。荷馬の足は決して速く無い。けれど長い距離を止まらずに駆けてくれ、悪路に強い。走れるようにするという事は、荷物を背負わせなければ良いだけだ。
「おいセナ、何があったんだ?」
何とはなしに状況を聞いた。けれど、赤いローブは沈黙を決め込んでいて答えがない。頭一つではきかない身長差で聞こえなかったのかと思い、少し屈んでもう一度尋ねてみる。
「ウスタージュ…………」
彼女はボロボロに泣いていた。それにぎょっとして、エルネスと二人きりにさせた事を悔やんだ。
隙あらば泣かしやがって…………
その原因を探して周囲を窺うと、既に見当たらない。気配を追って感覚を広げてみても、捉える事が出来なかった。鬼の所業だ。泣かせた女の子を押し付けてどっか行くとか、マジであり得ないぞ。しかも二頭の馬は、咎めるようにこちらを見てくる始末だ。
「な、泣くなよ、な?」
励ましてはみたが、効果はない。ウスタージュは触れる事を恐れて、即座にナディーヌ号を嗾けた。
「イタイ?」
子どものような声が、心配そうに話しかけてくる。次いで、冷たい鼻ずらが頬に押し付けられた。灰色の毛並み、ナディーヌ号だ。
「痛く、ないよ」
身体は。そう思いながら、堅い制服の袖に涙を押し付けた。誰かに縋らなければ生きていけないなんて、惨めだと思う。けれど、楽に生きていきたい、そう思っている自分が居るのも事実だった。
「カッコ悪いな…………」
こんなんじゃ、何も出来っこない。何とかなるには、何かを、していなければいけないのだ。
「ウスタージュ。貴方達は、ここに、何しに来ていいるの?」
星南はウスタージュを見上げた。泣いた後とは思えない、覇気のある灰色の瞳。標的にされた青年は、一緒になって視線を向けてくる二頭の馬に気圧されて、うっと言葉に詰まる。特異言語は分からない。そして、荷馬の行動が少し怖かった。
「共通語しか分からないぞ、俺は」
それは昨晩、嫌という程確認した筈だ。
「ウスタージュ、ここは、どういう、場所?」
地面を一生懸命に指さす姿に、うーん、と首を捻った。地面と泣いた理由、又は、地面と戻って来た理由、どちらだろうか。全然結びつきそうにない。それとも地面が嫌なのか。それだと完全にお手上げだ。
「セーナ、すまん。俺には理解できそうにない」
溜息交じりにそう言ったウスタージュは、フェルさんが戻って来てるから、と馬の荷支度に取り掛かってしまった。要するに逃げたのだ。向けられた銀色の背中には、諦めムードが漂っている。気安い彼がこれでは、他のメンバーだと更に望みが薄いだろう。どうしたら良いのか。
もう、自分に嫌悪するのは嫌だ。
星南はめげずに声を掛ける。そうしてフェルナンがやってくる頃、二人は昨夜の光景を見事に再現していた。
「あれは何だ!?」
「木ですっ!木っ!!」
「”キー”じゃない、木だ」
「木ーっ!!」
「何やってんだ、お前ら――――」
「フェルさん、助けて下さい!」
そういう事をやっていたと聞いてはいたが、実際に見てみると凄まじくシビアだ。フェルナンは速攻で溜息を吐いた。セナの耳はおかしいに違いない。若いのに哀れだ。ともかくコイツらに付き合っていると、疲れる事になる。面倒事ばかり押し付けやがって!
ギロリと騒がしい二人を睨みつけると、やっと静かになった。
「俺とセナは撤退する。ウスタージュ、お前は?」
「俺?」
フェルナンは、不思議そうにしている青年に冷たい視線を向けた。
「パーティーが三分割なんて構成は有り得ねぇよ。お前は何を学んで来たんだ――――むざむざ泣かせやがって」
途中ですれ違ったエルネスが、泣かせたままにして来ました、と笑顔で言っていた。長い付き合いだからこそ、それが優しさだと分かる。あんな見た目の男に本気で慰められた日には、一撃陥落は免れない。パーティーとしてやって行くには、恋情など不都合だ。
あの人、基本的に優しくないしな。
増えた仕事に頭を痛めて戻ってみれば、泣きはらした顔の星南は、何故か前より生き生きとしている。頭痛薬をくれ。この馬酔いするチビ助を乗せて、半日走らなきゃならないなんて、地獄じゃないか。どうして弱っていないんだ!
「…………それで、どうすんだ?」
溜息で気を紛らわせるしかない。そして道連れ、もとい生け贄が必要だ。
「一緒に撤退して、いいっスか」
「荷物を分割して準備しろ。あの人達は、荷馬が無くても死にやしない」
「了解です!」
コイツの根性なしも偶には役に立つ。フェルナンは更に溜息をついて星南の方を見た。円滑な旅の為には、こっちのフォローもしておかねばならない。
「エルネスさんにイジメられたのか?」
尋ねてみると、ゆるゆると首を横に振って否定された。そして何かを、一生懸命話し始める。悪いと思うが溜息しか出ない。痛む額を押さえていると、それでも何かを言い募ってきた。
「もういい。望みは筆談に賭ける」
「筆談…………」
そこで星南は、更に悪い事を思い出した。文字が読めると思われている筈だ。
「身からこんなに錆が出るなんて」
まだ二日も経っていない。
自分で自分にがっかりだ。
「いいか、俺達以外の前で喋るなよ」
「…………はい」
どうしたら意思疎通が叶うのだろう。あのミミズみたいな文字を学ぶしかない?そんな頭が、私にあるのだろうか。無くても努力はするけれど…………発音できない文字を、学ぶ事など出来るのか。
「フェルナン、あの…………」
「…………お前さ。何で名前は、ちゃんと発音出来てんだ?」
「名詞だから、だと思うよ?」
星南の言葉に、フェルナンは溜息で応えた。本人すら訳の分からない状態に見える。どうして疑問に疑問で返すんだ?本当に、こっちの言葉を理解しているのだろうか。
「何か無いのか、知ってる単語は?」
「えっ、えーと」
フェルナンの態度は呆れに近い。バカにしてと怒りたいけれど、怒っても何も始まらない事は分かっている。私は歳上だ。せめてその矜持だけは維持したい。
「えーと、みよぞ、てぃす?」
「…………よりによって、神代古語かよ」
「しんだい、こご?」
「よりに、よって」
「そっちじゃなくて…………」
「何で、さっきと違うんだ…………」
この溝、本当に埋まるんでしょうか。