人間の腐った臭いについて——隣の部屋から腐乱死体が出た話——
最も身近なもので例えるのならば、夏場に日の当たる場所で放置した生ゴミの臭いだ。それか、牛舎や豚小屋の臭い。それをぎゅっと圧縮したような異臭が、私の住む部屋の前の廊下に滞留していた。今年の八月頭の話である。
私が住んでいるマンションは少し特殊というか、住民同士の仲が良い。バブル期に建った築古のマンションで、新築当時から住み始めた住民が今もほとんど変わらずに住み続けているというのが大きな理由だろう。一つの階に八部屋あるのだが、同じ階と一つ下の階の住民なら、親も子も顔と名前が一致する。それより下の階は割と最近になってから引っ越してきた人が多いから、名前がぼんやりとしかわからないという事も多いが、それでもその顔と住んでいる階はすぐに思い出せる。
私の部屋は最上階である七階の角部屋だ。すぐ真下、六階の同じ位置には実家がある。私がまだ実家に住んでいた頃は、隣の家に足りない調味料を借りに行くような関係だった。
当時はここの住民の多くが、何かにつけて屋上に集まった。春には宴を、夏には花火を、秋には月を、冬には流星群を。周囲にうちより高い建物がなかったから、花火も月も流星群も、よく見えたものだ。年の近い子供も多く住んでいた。私の幼少期の思い出は、このマンションの住民とともにある。ここを「長屋のようなマンション」と表現したのは、当マンションの理事長なのだが、まさにその通りだ。
先にも述べたが、ここ数年でこのマンションに越してきた人が少しいる。古いマンションだから、空き部屋が安く売りに出されたのだ。私は少しの間東京で一人暮らしをしていたのだが、五年前に出戻ってきた時には既に、知らない顔がちらほらあった。
今、私が住んでいる七階の部屋の隣もそういった、最近越して来たうちの一人だった。私より先に七階の部屋に入居していた兄曰く、「引越しの挨拶も来なくて、気付いたら人が住んでいた」とのこと。
新しい隣人はどうも人嫌いなようだった。私自身、隣に住んでいるというのに顔を合わせたことは一度しかない。六十代くらいの小さなおじいさんだった。どうやら他のお宅とも特に交流はなかった上に、滅多に外にも出ない人だったようで、このマンションにずっと住んでいる二件隣のKさんでさえ、その部屋に誰が住んでいるのかを知らなかった。
交流のない隣人は、息を潜めて静かに生活をしていた。そうして、私たちの日常に一切登場しなくなり、「意識の外側の人」になってしまった。
だから、誰も気付かなかったのだ。その部屋に出入りがなくなったことにも、夜、電気が点かなくなったことにも。
繰り返すが、私の部屋は角部屋だ。エレベーターから一番遠い、隅っこの部屋だ。つまり、隣人の部屋の前を日常的に通るのは私と、一緒に暮らしている兄だけである。私たちが気付かなければ、誰も気付かなくともおかしくはない。我々は二人とも深夜に帰ってくる生活を送っていたため、隣家だけではなく他の家も電気が消えているのが常であった。
最初の異変はニオイだ。冒頭で述べた「生ゴミや牛舎の臭い」というのは、身近にあって誰でも想像のつくものであえて例えるのならば、だ。決して正確な表現ではない。
まず、臭いの濃度が違う。窓を開け放っていたのならともかく、締め切った状態であの濃度の臭いを放つ生ゴミなんて多分ない。
異臭がし始めて数日、兄と「なんだか臭いね」と話をしていた。臭いの出所がわからず、お隣が玄関に生ゴミを放置したまま家を空けているか、屋上で鳥か何かが死んでいるのではないか、と話していたのだ。
日に日に異臭は強くなっていく。これは生ゴミの臭いではないと気づいたのは、臭いが気になり始めてから一週間くらい経った頃だった。
甘いのだ。甘い臭いがする。わずかに甘い、ではない。カラメルや焼き菓子のような香ばしい砂糖の甘さとも違う。マンゴーやパパイヤといった、南国の果物の甘さに似ている。だが、フルーティーな香りではない。暑さの中でとろけるような、重苦しく、濃度の高い、いつまでも鼻にまとわりつくような不快な甘さだ。例えば、豚肉をマンゴーやパパイヤのピューレに漬け込んで、そのまま腐らせたらこの臭いになるだろう、と想像する。ただし、それでも臭いの強さはこれの百分の一程度だろう。
兄は「たんぱく質の腐った臭いだ」と言い、私は「腐った豚肉によく似ている」と思った。二人とも調理の仕事についているので、こういう臭いには覚えがあり、管理人さんに会ったら相談しようかと話していた。
この時点で既に、うっすらと「隣で誰かが死んでいるかもしれない」とは思っていたのだ。会話の端々でそんな不謹慎な冗談を飛ばす程度には、想像のつく事態だった。
それでも我々がすぐに動かなかったのにはいくつか理由がある。
一つ目は「まあ、ないでしょ」という楽観的な思考。この長屋マンションで隣人が孤独死した挙句に、臭いがし始めるまで放置されるだなんてちょっと無理がある話だと思っていたのだ。
二つ目は、お隣さんの生活を知らなかったからだ。私たちが帰ってくる頃に電気が消えているのはいつものことだったし、よく話に聞く「ポストに新聞がパンパンになっている」というようなこともなかった。おそらく新聞を取っていなかったのだろう。顔をあわせることも本当に滅多になく、ぶっちゃけて言えばよく顔を覚えていない。遺体の想像がつかないのだ。
三つ目は、臭いの範囲だ。聞くところによると、腐乱した遺体があると近隣にひどく臭うという。しかしながら臭いの範囲は非常に限定的だった。お隣の玄関とうちの玄関の間、ごく一部にその臭いが滞留しているだけだったのだ。二件隣の家の前では何の臭いもしない。ベランダからも臭いは入ってこない。人一人が腐っているのだとしたら、あまりにも限定的すぎる範囲でしか臭っていなかったのだ。
私が管理人に異臭の件を聞くことができたのは、兄と「管理人さんに相談しよう」と話してから実に二週間後のことだった。たまたま朝早くに出かける日で、久しぶりに管理人と会うことができたのだ。挨拶を交わし、ついでとばかりに「部屋の前の廊下で異臭がする、おそらく屋上か、お隣から流れてきているような感じなので確認してもらえないだろうか」と話を持ちかけた。
すると管理人は神妙な顔をして「おそらく、その通りだと思います」と頷いた。
つい先日、隣人の兄弟から「連絡がつかない」と言われ、理事長と警察立会いのもと解錠したところ、中で亡くなっていたのだという。「なので、多分その腐敗臭だと思います」と。薄々想定はしていたが、あまりにもドンピシャな結末であった。死後一ヶ月は経っていたそうで、なかなかに凄まじい状態だったらしい。DNAの鑑定に時間がかかるとかで、まだ清掃も入れていないという話だった。なるべく早めに清掃を入れて欲しいと頼み、管理人に労いの言葉をかけ、兄に報告のメールを打ってから少し下がったテンションで仕事に向かった。
壁の向こう側で、関わりのない隣人が死に、腐り果てていた。腐臭を放ち、それが外に漏れ出すほどになっても私は「生ゴミでも放置して処理し忘れてんじゃないか」「屋上で鳥が死んでいるのではないか」「ネズミなどの小動物かもしれない」などとのたまい、死臭をそれと知らずに嗅ぎながら生活を送っていた。呑気な話である。もう少し遺族の連絡が遅れていたら、第一発見者か第一報告者は私になっていたかもしれない。
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壁一枚隔てた隣の部屋で腐乱死体がでた。こう話すと大抵の人は「怖い」「気持ちが悪い」と言う。しかし私はあまり怖いとは感じていない。気持ち悪いともそんなに思っていないのだ。それはどうしてだろうか。
考えられる理由は、私が死や遺体に対しての忌避感が薄いということだ。昔からそういうものは私のごく身近にあった。
祖母は私が三歳の頃に亡くなった。死という概念を知ったのはその時だ。
長屋マンションの先代管理人は住民とも仲が良く、私にとって祖父のような存在であったが、彼も私が小学生の頃に亡くなっている。布をかけられ、担架で運び出されていく遺体の、青白い足が目に焼き付いている。中学時代から交流のある母の友人は葬儀屋だったし、高校生の頃には同級生が火事で亡くなり、十九歳のときに友人がバイクの単独事故で、二十歳の頃に母方の叔父が孤独死の上軽く腐乱した状態で発見された。そして三年前には、私の母が事故で亡くなっている。
叔父の件以降、私自身が納棺師や葬儀屋を目指していた時期がある。特殊清掃の方のブログを読むのを趣味にしていた時期も。人が死ぬということに対して、興味があるのだ。変な意味ではない。どういう風に生きるのか、何を考えるのか、死と向き合うことは昔から私にとっての課題でもあった。
それはおそらく父が私の世代の父親としてはかなり高齢であること、いつか朝起きたら父の呼吸が止まっているのではないかと、子供の頃から心配しながら生活をしていたことも関係している。きっと私が大人になる前に父はいなくなってしまうのだ、とそう思っていた。今、父は77歳になる。
それから、私自身が死に向かって生きていたこともあった。東京で一人暮らしをしていた頃のことだ。死に向かっているという明確な自覚はなかったが、当時の私を迎えに来た兄は「目を離した隙に死んでしまってもおかしくないような状態だった」と語る。診断こそ受けていないが、あれは間違いなく鬱病だったとも。
このようにして、死は昔からずっと私のそばにあったのだ。物心がつくかつかないかの頃から、それなりに近しい人の遺体を見て育った。死に触れる話題も多かった。だから、死や遺体への忌避感が薄い。真隣の部屋で腐乱死体が出て、その死臭を嗅いで生活していたのだと知ってもへっちゃらでその後の生活を送り、挙句このように文章に起こしてしまう程度には。
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腐乱死体に対して怖いと言う気持ちはないが、今回のことは非常に衝撃的な事件ではあった。自分の部屋の隣で人が腐っていただなんて、一生に一度も経験しない人の方が多いだろうから。
気持ち悪いという感覚も全くないわけではないのだ。腐乱死体の処理をしてくださいと言われれば、腐った肉は普通に気持ち悪いので触りたくない。だが、その部屋に入りたいかと聞かれれば、「入りたいような、入りたくないような」と答えるだろう。
入りたくない理由は、死体があったからというよりは虫が苦手だからだ。人が腐っていたということはおそらく相当な虫が湧いているだろう。私は虫がまるっきりだめなのだ。死体があった事実よりも、虫がいる可能性の方が私にとっては恐ろしい。不潔な場所や不衛生な物が生理的に苦手なのだ。
入りたい理由は、そういう現場に対する好奇心である。そうだ、忌避感よりも好奇心が先に立つのだ。人の死に対して、人が死んだ現場に対して。
汚いものはとても嫌いだし、虫なんて視界に入れたくすらないが、人が腐って死んだ現場には強い興味を持っている。自分が何を感じるのかを知りたい。不謹慎だと叱られることもあるだろう。そこにあるのは死んだ人を悼む気持ちではなく、自分の好奇心なのだから確かに不謹慎だ。人とこういった話をすると、ちょっとおかしい人間だと思われてしまうことがあると自覚もしている。だから、なるべく話さないようにする代わりに文章として発信することにしたのだ。
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隣人の死は、他人事ではないと思う。例えば、もしも隣人が引っ越しの時に挨拶に来るようなタイプで、日常的に外に出るようなタイプで、会えば日常会話を交わすようなタイプだったのならば、私や兄、そして他の住人が気づいていただろう。だが、現代社会は他人との距離が遠い。私の住んでいるマンションのような、住民間で深い交流のある集合住宅なんて都市部では特に稀なのだ。
私は今、兄と住んでいるから、腐るまで気づかれないなんてことはないだろう。だけど、例えば私が東京で一人暮らしをしていた時だったら?当時の職場は心の具合を悪くして、連絡なく通えなくなってしまった。一度だけ同僚が様子を見に来たが、居留守を使ってしまえば玄関を開けることなく去っていった。
あのアパートで会話をしていたのは、掃除のおばちゃんだけだ。会えば挨拶を交わして、少し世間話をしていた。だけどそれも毎日ではなかった。新聞も取っていなかったし、隣人の顔や名前も知らなかった。会話をしたことすらない。あの状況下でもしも部屋の中で死んだなら、家賃を滞納して不動産屋が取り立てに来るまで発見されなかっただろう。それが夏場なら、隣人と同じ結末になっていた可能性は否めない。このように、孤独死からの腐乱死体ルートを辿る可能性を秘めている人というのは、思いの外多いのだ。
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先週、隣のお部屋に不動産屋が来ていた。持ち主がなくなり、遺族からの依頼で買取のための下見に来たのだという。すげえ話だなとは思ったが、我が家には関係のないことなので深くは突っ込まないでおこう。
問題はその日の夜だ。私が帰宅するととんでもないことになっていた。
我が家の前が臭いのだ。例の臭いが漂い始めて以来、最高潮に臭い。遺体はすでに警察が回収しているはずなのに何故こんなに臭うのか、風向きの関係かと思いながら自宅に入ると、自宅の中にまで例の臭いが充満している。何事かと玄関からベランダに走ってお隣を覗くと、なんと窓が空いているではないか。夏場の我が家は基本的に網戸にしてある。そのため、お隣の開け放たれた窓から流れ出した異臭が、我が家の中にまで入り込んでいたのだ。
慌ててベランダの戸を閉め、まさかと思って再び玄関から廊下に出て確認すると、廊下側の窓も細く空いていた。なんてことだ! 昼間に来ていた不動産屋が、あまりの臭いに換気をしようと窓を開け放って行きやがったのだ。臭いなんてもんじゃない。窓を開けたままでは眠ることすらできないほどの異臭祭りだ。生ゴミ置き場の数十倍といっても過言ではないレベルである。生ゴミの中で眠れる人間なんて、そう多くはないだろう。
我が家はベランダ側(南)、廊下側(北)とは別に、もう一方、東側に窓がある。幸い東の窓からは異臭が入ってこなかったため、そこ以外の窓を閉め切り、三台ある扇風機をフル稼働させて室内の臭気を追い出すことに成功した。この日ほど角部屋であることに感謝したことはない。件の不動産屋に猛烈な勢いでクレームを入れ、窓を閉めさせることができたのはその翌日のことだ。
さらにその翌日には遺族が部屋に入っていたようで、何やら荷物を段ボールで運び出していた。私が急いでいたために会話をすることはなかったが、あまり突っ込まれたくもないことだろうから、それで良かったのかもしれない。どうやらようやく業者を入れて清掃をしたようで、それ以来日を追うごとに臭いが薄くなっていっている気がする。ただ、まだ少し臭うのだが。
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人はいずれ死ぬ日が来る。私も、兄も、父も、例えばこれを読んでいるあなたも、末はみんな屍である。そしてその屍は、誰かが見つけて処理をしてくれない限り、自然な成り行きとして腐っていくものだ。誰だってそういう末路を辿る可能性を秘めている。
中盤で遺体への忌避感が薄いことについてつらつらと語ったが、極論を述べてしまえば、私が腐乱死体やその現場を怖いと思わないのはそれが自分の未来の姿である可能性があると、自身の経験から知っているせいである。
今回の件は私にとって、これからどう生きていくのか、どのように人と関わっていくのか、そして自分の死生観や周囲との意識のズレについて、改めて確認する良いきっかけとなった。また、何かの拍子に話のネタにもするだろう。不謹慎ではあるが、そういった出来事である。
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最後に、人が腐った臭いについて述べておこう。
一般的に生きていたら、おそらく一度も嗅いだことのない臭いだ。臭いの種類としては「クサイ」なのだが、今までの人生で知っている「クサイ」ものを全て並べても、ぴったりと一致するものが一つもない。そういう臭いだ。生ゴミっぽいんだけど何か違う。ウンコや下水にも似ているんだけどいや、違うな……という臭いだ。酸っぱいような甘いような、やはり「何かが腐っているのではないか」と思う類の臭気である。どんな臭いとも違うが、一度嗅いだらおそらくずっと忘れない。
先日見かけた隣人の遺族は、腐乱した身内の遺体をどんな気持ちで受け止めたのだろうか。私の叔父が腐乱死体で発見された時に声をあげて泣き崩れた叔母の姿と重なってしまった。誰だって、身内の遺体が腐っていたら心の傷が深くなる。
だから、「知っているようで知らない臭さ」は、それが人間の腐った臭いである可能性があるということを、どうか知っておいて欲しい。そして、少しでもその「臭さ」に出くわしたら、速やかに警察や、建物の管理者に連絡して欲しい。
あの臭いが気になりだした時点で見つけてあげられたならと。
未だわずかに残っている死臭を嗅ぐたびに、ほんの少し、日常には影響しない程度の罪悪感を私は覚えている。