花嫁人形
山里の小さな村は閉鎖的でそして因習的なのであります。
平家の落ち武者とも、また南朝の残党とも、言われておりますが、実のところは定かでありません。いずれにせよ、何某かがあって落ち延びた者たちが隠れ住んだと言うのはどうやら確かなようでして、何があったかはともかく、それが理由で、村人たちは永年に亘り世間から身を隠し、ひっそりと暮らしを立ててきたのでございます。
余所の聚落とは一切交わりを絶ち、全ては村内で済ませるようにし、村から出るのも御法度なら、村に人を招き入れるのも御法度、人の出入りなど何十年、何百年と途絶えていたのであります。尤も、こんな山深い里に好んで住もうなどと言う物好きもおりはしませんでしょう。
遠い昔の先祖の所業が、それとは最早、何の縁もない子々孫々にまで及び、その暮らしを縛り上げて来たのですから、閉鎖的であっても因習的であっても何ら不思議ではございません。
明治の御一新により、国中がすっかり変わり、その風はこの村にも例外なく吹いて参りました。ですが、村は依然、旧来のまま、変わることなど何一つございません。排他的な気風はすっかり村人たちの胴身に染みつているのであります。
言わずもがな、婚姻は村の中で済ますのが掟のようになっております。代々に渡り村人どうしで嫁取り、婿取りを繰り返しているうちに、いつしか、村全体が姻戚関係で結ばれていたという始末なのです。どの家も大概、息子や娘が年頃になります前に、家どうしで契りを交わし許婚を定めるのが習わしとなっており、それに異を唱える者などどこにもございません。
清治と千鶴が幼くして従兄妹どうし夫婦の契りを交わしたのも、この村では珍しい事でありはしません。
清治は村では庄屋に次ぐ大きな百姓家の次男坊です。
次男坊と申しましても、十人兄弟の九番目、上七人が女子ばかり続き、八人目にしてようやくできたのが長男の嘉市であり、それから八つ離れて清治が生まれたのでございます。男はこの二人だけで、清治の下にまた妹がおり、女ばかりに挟まれた兄弟の次男という次第なのです。一番上の姉とは十八も歳が離れ親子同然、兄とて八つ違いとなれば兄弟と言えど年が離れ過ぎており、遊び相手にも喧嘩相手にもなりはしません。
片や、従妹の千鶴は清治の父の妹が腹を痛めてできた末娘、生まれるより前に、「もし女子なら清治の嫁御にしてはどやろ」などと暗黙裏に決まっておりました。それが当然の村なのでございます。案の定、女子が生まれた訳ですが、それがまたまるで版型で写したようにあまりに清治にそっくりな顔立ちなので、皆は驚き魂消、その噂はあっという間に村中を駆け抜けました。両家の者は皆、これを良縁と慶び、千鶴と名付けたその女子はそれだけで清治との婚姻は定まったのでした。流石に村でも、血が濃くなるのを忌み嫌いいとこ同士の婚姻は避けようとするのが倣いとなっているのでございますが、清治と千鶴ほど瓜二つにそっくりとなれば、これは例外です。多生の縁と殊の外ありがたがり、未来永劫、幸いなる印し哉と慶び、倣いなどお構いなくさっさと決めてしまったのです。
両家は畑一枚挟んで隣り合わせ、味噌醤油の貸し借りはもとより、風呂や厠は家内の者と同様に使い、座敷に膳を並べて共に飯を食うのも、庭で大鍋を囲むのも日常茶飯事、別に珍しいことではございません。両家は家族も同然、互いの暮らしを面倒見合うのが当然の間柄なのです。子育てとて同じで、隣家の間でどちらの子かなど厭うこともなく、親たちは互いの子の面倒を見て大きゅうならしてきたのです。子供らもまるで兄弟のようにして、年長の者が自分より下の子を可愛がり、親の代わりに面倒を見るのを順繰りに行ってきたのです。清治は年の離れた姉や兄たちよりも歳の近い隣家の子供たちと交わる方が当然のなりゆきでした。一緒に遊んだり、遠出したり、湯に浸かったり、時には字を教わったりもしました。千鶴が生まれると、今度は自分がそのお返しをする番だと勢い込み、赤児の千鶴を愛おしみせっせと世話を焼きました。小さな背中に赤児を負ぶってあやす姿は如何にも頼りなげで危なっかしくありますが、周りの大人たちは微笑ましく眺めます。風呂に入れたり、寝かし付けたりもして、自分がしてもらった通りを千鶴にもしてみせ、心から子守を楽しんでいるようでありました。千鶴が少し長じると、遊び相手として二人で野山を駆け回ったり、チャンバラごっこをしたり、時には花を摘んだりして、片時も離れず一緒に過ごしたのであります。清治は六歳下の千鶴を実の妹以上に可愛がり、千鶴もまた清治を実の兄のように慕っておりました。
「これは似合いの夫婦になるわい、きっと。」
親たちがそう言って喜ぶのも当然でした。
親たちが勝手に許婚と決めるまでもなく、二人は傍から見て羨むほどに頗る相性が良く、歳を経るほどにますます互いに惹かれ合うようになっていきました。
山里の村にも幾度か春が巡ってきました。
微かに匂う梅の香が野辺を漂い、浅い雪が所々に残る閑寂の田や畑にもやがて恵みの季節が訪れるのであります。
清治は二十一、千鶴は十五、年が明ければ二人は晴れて夫婦となることが既に決まっております。
年頃にもなれば、いつまでも無邪気ではおれず恥じらいというものが芽生えてまいります。指先が触れるだけでも頬を赤らめ、目と目を合わせるにも照れが邪魔するという始末です。何時しか二人は、村人等の目を憚り、村外れの樹齢二百年とも三百年とも言われる楠の下で逢瀬を重ねるようになりました。二十尺にも広がる立派な枝ぶりが二人の姿を隠してくれるのです。
「千鶴、別嬪になったな。」
清治が言うと、千鶴は頬を赤らめながら、
「そんな風に清兄ちゃまに言われたら、うち、恥ずかしいわ。」
「こいつぅ、照れとるんか。」
清治がからかうように言うと、千鶴は唇をとがらせ、
「もう、清兄ちゃまのいけず。」
と、清治の袖を引っ張りました。
清治は笑いながら、
「すまん、冗談や、冗談。」
と言うと、今度は千鶴の方が、
「冗談て、何が冗談なん。うちが別嬪になったて言うてくれはったんが、冗談なん。」
と意地悪く聞き返しました。清治は態と困った顔をして、
「いや、冗談やない。お前、ほんまに、別嬪さんや。見てみ、お天道さんかて照れ臭うて隠れてしもうたやないか。」
と、雲のかかった空を指差して言いますと、千鶴は膨れっ面をしながらも、その頬は一層赤く染まっておりました。それを見て、清治は途端に真顔になり、
「千鶴、お前、ほんまにわしのとこに嫁さんに来るつもりがあるんか。親どうしが決めたからて、無理することはあらへんぞ。お前ほどの別嬪やったら、どこでも貰うてくれる。」
と言いました。
「清兄ちゃま、うちのこと、信じてくれたはらへんの。」
「そんな訳あらへんやろ。」
清治には村一番とも褒めそやされる器量良しを娶ることを喜びとしながら、それがまた不安でもあったのです。
これほどの別嬪や、わし以上に似合いの男が現れるてもおかしない、いや、千鶴にはもう他に好きな男がおるんかも知れん、などと考えると、胸が痛むのです。
千鶴は清治の袖を掴んだまま、草履で地面をこすりつけ、伏し目がちに
「清兄ちゃまはどうなん。」
と小さな声で呟くように訊ねました。
清治は野良仕事で日焼けした顔に戸惑った表情を浮かべ、
「そんなこと訊くまでもあらへんやろ。お、俺はお前のことが好きや。好きで好きで堪らんわい。嘘やあるかい。お前がこんまい時はただ妹のように思うて可愛がっとっただけや。けど、お前が大きゅうなり別嬪になっていくにつれて、段々、お前のことがほんまに好きになってしもうたんや。女子としてな。他の男になんか取られとうはない。それがわしの本心や。」
「それ、ほんま。」
「ああ、ほんまや。信じてくれ。」
「ほんま、ほんまにうちのこと、好きなんか。なあ、清兄ちゃま。」
「阿呆ぅ、何遍も言わすなや。ほんまに決まっとるやろ。こんなこと、嘘で言えるか。」
「清兄ちゃま、うち、嬉しい。うちも兄ちゃまのこと好き、大好きや。うちも嘘やあらへん。」
千鶴は俯いていた顔を仰向け、清治の顔を見上げ、嬉しそうに言いました。
「うちの方こそ、親どうしが許婚と勝手に決めただけで、兄ちゃまはうちのこと、ほんまは何とも思うてへんのやないかて、心配しとったんよ。」
「そんなことあらへんやろ。それやったら、こないにしてまで逢うたりすることなんぞあるかいな。」
「そら、そうやね。ああ、良かった。」
千鶴は、ほのかに里にその香を振りまく紅梅よりもさらに赤く頬を染め、清治の腕を力一杯握り締めました。
「清兄ちゃま、ほんまにうちのこと、貰うてくれはる。」
「当たり前や。」
耳障りな蝉の声が里の野に響き渡り、ジリジリとした暑がさらに増すという季節となりました。清治は、一家の主となった兄の嘉市に伴い、野良仕事に明け暮れる日々を過ごしております。
ある日のことです。
「清治はーん。」
田圃の畦で草を刈る清治を嫂の倭文が喚びにやってまいりました。倭文は田圃数枚隔てた先から「急用やさかい、早う帰っておいなはれ。」と叫びました。それだけ言うと嫂はさっと踵を返し、急いで帰っていきました
「何事やろ。」と気になりながら、清治はさっさと鎌の土を落とし腰紐に挟むと、
「お先に失礼させてもらいます。」
と嘉市に言い、一目散で家まで駆けて帰りました。
汗だくになって帰ってきた清治を待ち受けておりましたのは一片の赤紙でございます。
「とうとう俺にも来たか。」
清治は僅かに身震いしました。
お国の為、陛下の為、身の締まる思いがするのは勿論のこと、それにも増して村の男達にとっては、先祖より被せられてきた汚名を濯ぐ好機とばかりに、血気が上がるのです。同じく清治も、死を恐れるよりも遙かに己が手で先祖の汚名を晴らさんと喜び勇んで戦地へ赴く覚悟なのでございます。
清治は、丁寧に赤紙を畳み、懐に忍ばせると、
「おっ母さん、ちょっと出掛けてくる。夕飯迄には帰ってくるんでの。」
と言って、運動靴に履き替え、玄関を飛び出しました。
清治は、そのまま隣の家に飛び込み、大声で千鶴を呼びました。
「ごめんやす。清治や。千鶴はおるか。」
千鶴は奥の囲炉裏端で正座し、藁を編んで蓑を拵えているところでした。
戸を開ける音が激しく千鶴の居る部屋にまで届き、それよりさらに大きな声で叫ぶ清治の声に
「はあい。」
と可愛らしい声が玄関に返ってきました。障子戸を開けて顔を出した千鶴は
「清兄ちゃま、そないな顔して、どないしゃはったん?」
と訊くと、清治は険しい顔をしながら、
「ちょっと表に出えへんか。話しときたいことがあるんや。」
と早口で言い、怪訝な表情をする千鶴の手を無理矢理引き寄せ表に出ました。
楠の下まで来ると、清治は懐に忍ばせていた赤紙を取り出し、千鶴に見せ、
「わしにもとうとう来たんや。これで一人前や。」
誇らしげに言う口調の中にどこか翳りのようなものが漂うのを千鶴はすかさず嗅ぎ取りました。兵隊になるのを栄誉としつつも、実際に戦場に赴くのは躊躇われる、それが偽らざる本心なのだ、千鶴は清治の心をそう察しました。
「お国のため武勲をお祈りします」
何人の村の男たちをその言葉で戦地に送り出して来たことか、千鶴は思い起こしました。しかし、今はその言葉が素直に口をついて出て来ません。
有り体に言うなら、お国のために御霊を捧げることがそれほど尊いことのようには、今の千鶴には到底思えないのです。自分は国を思わぬ身勝手な非国民なのか、頭に蠢く混沌に黒白をつけることのできぬ千鶴は、暗い顔で地面に目を落としました。
千鶴と同じ翳りが自分の顔にも浮かんでいるとは気づかず、清治は千鶴を案じ、
「千鶴、心配すんな。わしは絶対に死なへん。」
と殊更に語気を強め慰めました。
千鶴に心配を掛けまいとする労りと、それ以上に自らを鼓舞しようとする気持ちの表れなのでしょうが、そうすることで何故かしら、自分は本当に死なぬのではないかという気になるのです。
「祝言の日取りは延ばさなしゃあない。けど、わしは必ず帰って来て、お前を嫁さんにするからな。必ず、待っとってや。」
清治が言うと、千鶴は「ううん」と首を横に振りました。
「何や、待っててくれへんのか?」
清治が言うと、千鶴はまた
「ううん」
と首を横に振りました。
「どっちなんや。」
気持ちを測りかねた清治が優しく訊ねると、千鶴は、二重瞼の大きな目でじっと清治を見つめ、
「清兄ちゃま、出征しやはる前に祝言だけでも挙げてくれはらへん。」
と告げるのです。
清治は返事に躊躇いました。生きて帰るつもりなら、何の躊躇があろうか、自分でもそうは思うものの、戦争という魔物はそれを簡単に許してはくれないのです。
「清兄ちゃま、何で返事してくれはらへんの。」
千鶴は返事をせがみました。許嫁を寡婦にしたくない清治の本心など千鶴は勿論百も承知です。
「千鶴、ごめんな。」
清治は、分厚い手の平を小さな肩に当て、
「さっきはあないに言うたけど。お前に心配かけとうはないからや。けど、よう考えてみいや。わし、戦争に行くんやで。その辺に遊びに行くのと訳が違うんや。死なんつもりはあっても、誰も保証なんかしてくれへんのや。わしかて、ほんまは死ぬのが怖い。けど、お国のために働くのはわしらの務めなんや。しゃあない。と言うてもな、わしかて人間や。鉄砲の弾に当たったら死んでしまうわい。わしが死ぬのはかまへん。けどお前はどうなる。祝言なんか挙げてしもうたら、わしが死んだ時、お前を寡婦にするだけや。違うか。」
言わずもがなの言い分を聞かされても、素直に合点がいく筈などございません。
「清兄ちゃま、狡い。」
千鶴の頬に一筋、涙が伝いました。
清治は、腰にぶら下げた手拭いで、そっと濡れた頬を拭き、言いました。
「何も狡いことあらへん。祝言は生きて帰って来てからでええやないか。」
清治がそう言っても、千鶴は頭を振るだけです。
「なあ、なんでわしの言うこと聞いてくれんのや。お前のため思うて言うてんのやで。」
黙って涙を流し頭を振るだけの千鶴がか細い声を絞り出すように言いました。
「清兄ちゃまが、うちのためやて言うてくれはるのは嬉しいけど、うちの気持ちなんか、全然、分かってくれたはらへん。」
そう言いながら千鶴自身も何を言いたいのかが分かりません。
「千鶴、そしたら。わしが戦争に行く前に、身内だけで先に仮祝言を挙げるか、それで、わしが無事に帰ってきてからちゃんとした祝言を挙げるんや。それでどうや。」
涙を滲ませていた千鶴は「うん」と頷き、清治の胸に頭を埋めました。
「うん、うん、よっしゃ。よっしゃ。」
清治は、嗚咽を上げる千鶴の頭を撫で、華奢で可憐な体を抱き寄せました。
「千鶴、わしは絶対、元気で帰って来るからな。」
三日後、清治の自宅において、清治と千鶴の両家だけで仮祝言を上げました。
祖母から母、母から姉と受け継いできた文金高島田を纏った千鶴は、美しくあでやかでした。この姿をもう一度ちゃんと目にするよう、清治は無事の生還を一層強く胸に誓ったのです。
さらに数日が過ぎ、いよいよ清治の出征の日となりました。
軍服に身を包んだ清治は普段の野良着姿とはまるで見違え、凜々(りり)しく頼もしく映りました。胸にかけた真っ白な襷には赤字で「祝出征」、その下に大きく「葛原清治君」と墨書されておりました。平家にも皇族にも通ずるとされる姓がようやく日の目を見る時が来た、清治はお国のために身を尽くす誇りと決意を新たにしたのであります。
壮行式が始まる少し前、千鶴は式場の脇にこっそり清治を呼び寄せ、清治の手に何かを握らせました。それは布製の花嫁人形で、千鶴が夜なべして拵えたものでした。
「清兄ちゃま、これを私の身代わりやと思うて持っといて。」
形見写しに持たせることで、お守り代わりにして貰おうというのです。
千鶴に似た文金高島田の小さな人形を手に収めながら、その手で千鶴の小さな手を包み込むようにし、清治はその手の柔らかさと温かさを人形に籠めようと致しました。
「きっと清兄ちゃまを守ってくれはるから。鉄砲の弾かてきっと避けよります。」
千鶴は清治を励まし、そして自分を慰めるのでした。
迷信や験担ぎなどに関心のない清治でしたが、花嫁人形に籠められた千鶴の情は後生大事に取っておこうと心に決め、腹に巻いた千人針の間に忍ばせたのでございます。
「おおきに、大事に身につけとくわ。」
まもなく壮行式は始まりました。町内会長や婦人会の会長らが次々に挨拶したあと、清治が力強く決意を述べ、最後に威勢よく全員で万歳三唱しました。
千鶴は、勇ましい足取りで兵役に赴く清治を見送り、背中が見えなくなるまで、懸命に旗を振って武運と、そして何より無事の帰還を祈りました。
兵役に就いた清治は、激戦地ばかりを転戦する羽目になりました。いえ、本当は、日本の敗色が決定的となり、どの戦地も苦戦を強いられるばかりだったのです。
敵に包囲され、銃弾が頬を掠め、砲弾が行く手を阻む中、部隊は退却を余儀なくされ、転戦を繰り返す日々が続きました。失地の回復を試み、敵陣に飛び込むなど、妄りな暴挙でしかなく、部隊からはそのような気概と勇気などとっくの間に失せておりました。それどころか、部隊の間では厭世気分が蔓延し、戦意どころか、逃げ延びる気力さえ衰えていたのです。
清治の部隊は転戦を繰り返す度に、陣容が窄むばかりで、戦力を保つことなど最早できず、ただ生き延びるために戦場を駆け回るのが精一杯となりました。兵に闘う意思など微塵もありません。銃や手榴弾は護身の為のみ、敵の姿を見かけても攻撃など仕掛けることも無く、敵の目をかいくぐるようにして、岩陰や草むらを徘徊し、ひたすら逃げ惑うのみです。行軍中、病に倒れ、歩くのもままならぬようになると、部隊は彼を見捨てていくほかありません。足手まといになるのを厭う兵らは皆、手榴弾の栓を抜いて自ら命を絶ちました。それが軍の暗黙の命令であったのです。
そういう中にあって、清治は辛うじて息を繋ぐことができました。それは奇跡というほかありません。
清治は砲火の中も決してひるむことなく先陣を切って進みました。しかし、何故か敵の砲弾を浴びることもなく命拾いをするのです。
ある時は、敵の砲弾によってできた地面の窪みに足を取られて前進を阻まれ、そのお陰で命拾いをしました。片足を引き摺る清治を追い越して進んでいった仲間の多くが敵の砲弾と銃弾を浴びて命を落としたのに引き替え、挫いた足のせいで命拾いした自分は果たして喜ぶべきか、清治は考えましたが、内心、安堵したのも事実であります。
また、ある時など、斥候の任を受け、敵地の偵察に行って戻って来ると、露営は火炎放射で焼かれ、部隊は壊滅的な状態となっていました。黒焦げになった骸が幾重にも重なり、辺りに異臭を放っている様子はその時の惨状を色濃く物語っておりました。
姿の見えぬ敵に襲われることは何度もありました。長の行軍によって、喉の渇きに耐えかねていた時、丁度、庭先に大きな甕が据えてあるのを見つけました。その家の者が飲用に溜めてあるのでしょう、甕の中にはたっぷりの水が入っております。歩き疲れた兵たちは家人の了解を得ることもなく、我先にと競うように甕に飛びつく始末です。日頃から見知らぬ物には手を出すなと躾けられてきた清治は、用心深く甕の側にも寄ろうとはしませんでした。水筒にはまだ幾らか水が残っておりましたし、何なら自分の小便を飲む方が余程ましだと、もう暫くは我慢することにしたのです。その先には密林が見え、そこまで辿り着けば川か池か何某か適当な水場がある筈だと考えたのです。皆が甕の周りに寄るのに対し、清治一人が離れた場所で休んでおりました。暫くすると、甕の水を飲んだ兵等が次々に嘔吐を催し、その場に倒れ息絶えていくのです。彼らが来るのを待ち受けて甕の水に毒を仕込んだ敵の謀略だったのです。兵が倒れていくのを目の前にして、後続の兵は甕に近寄るのを止めました。それらの兵と清治のみが残り、半数近くが倒れてしまいました。
またも清治は命拾いをしたのです。
千鶴の形見写しの花嫁人形のお陰か、清治はそう思いながら、千人針の間から人形を取り出して、愛おしそうに両手に包みました。戦場を駆け回るうち、布は擦り切れ黄ばんでしまった花嫁人形からは汗と硝煙の臭いが立ちこめました。それこそが清治に降りかかった災厄を表しているのかも知れません。清治は命拾いさせてくれた人形に胸の内で手を合わせ、里に残してきた千鶴の顔を思い浮かべました。
「おおきに、おおきに、ほんまにおおきに。千鶴、お前のお陰やで。わしはきっと無事に帰るさかいな。それまで待っとってや。」
そう言ってから、また、千人針の間に挟みました。
やがて、国内では東京、名古屋、大阪、神戸、と次々に主要な都市が空襲に見舞われ、壊滅的な状態になりました。本土決戦を目前に、女や子供まで含めて総力戦の覚悟を強いられようとしていた時、広島と長崎に原子爆弾を落とされ、愈々(いよいよ)命運尽き、最早、勝ち目がないと悟り、日本はポツダム宣言を受諾し、ここに長かった戦争は終結したのです。
戦地にいる清治らの耳にも終戦の報は届きました。
しかし、それでも、祖国に帰るのは容易ではありません。清治の部隊は、既に本営から見放され、独力で帰還するほかなかったのです。戦争は終わっても、まだ危難が拭い去られたわけではありません。撤退中も、民兵らに襲われることもありましたし、病気を患ったり、毒蛇に噛まれたり、仲間がなお次々と命を落としていきました。
清治らがようやく港に着いたのは、戦争が終わって早や二年近くが過ぎようとしていた頃でした。命からがらここまで辿り着き、清治はようやく胸を撫で下ろしました。
帰国船には、清治らのような兵隊ばかりではなく、商用や観光で渡航する客も乗り合わせておりました。彼らは見違えるような服装をして甲板で談笑などしておりました。彼らと話すと、祖国はまだ混乱の中にあるが、復興の兆しが見え始めているとのことであり、灯火管制も解かれ、繁華街にはネオンもちらつく有り様を聞くと隔世の感があり、戸惑うばかりです。清治の頭には変わりつつある祖国の姿が朧気ながら浮かぶものの、それを素直に喜ぶことなどできず、寧ろ祖国が辛酸を嘗め尽くし身も心も深傷を負った自分たちを素直に受け入れてくれるのか、その方が心配でした。帰国したところで、今の日本に自分たちに身の置き所などあるのだろうか、また一体何を為せば良いのか、否、自分たちが為すことのできるものなど残っているのだろうか、そんな不安だけが日に日に募ってくるのでした。
それでも愈々(いよいよ)、視界が故国日本の姿を捉えるほどになってくると、その不安よりも帰国の歓びの方が優ってきました。何年もの間、留守にした祖国に対する望郷の念は、嵐にもまれようと、寄港地で行く手を阻まれようとも、決して失せるものではなかったのです。清治らは絶ち難い望郷を不安に押し被せ、祖国を夢見るのでした。
清治の乗った船が神戸港に辿り着いたのは二十日後のことです。
岸壁の先に広がる街並みが見えると、清治たち帰還兵らの目に涙が溢れてきました。
「日本や。日本に着いた。とうとう帰ってきたんや。」
清治は千人針に潜ませていた花嫁人形を取り出し、
「ほれ、無事に日本へ帰ってきたんやで。やっと家に帰られるんやで。」
と話しかけました。そして、港の背後に見える町並みのそのさらに遠くに目を移し、
「千鶴、もうちょっとの辛抱やで。すぐ帰るからな。」
と言って、花嫁人形に頬を摺り寄せました。硝煙と汗の臭いの中から、清治は熟れたての桃のような甘い香りを嗅ぎ分けました。
「千鶴。」
清治は、千人針の間に花嫁人形をしまい込むと、下船の列に並びました。
港に着くと、帰還兵を出迎える人々がちらほらとありましたが、清治を迎える姿はどこにもありません。
「それは当然や。まさか自分が帰ってくるとは誰も思うてはおらんやろ。」
清治は休む暇もなく、慌ただしく荷物を取り纏めて駅へと向かいました。列車とバスを乗り継ぎ、何時間もかけて、ようやく見馴れた景色が目の前に広がってきました。
家族は、自分の帰りを喜んでくれるだろうか。迷惑がりはしないだろうか。実家に近づくにつれ、またもや不安が押し寄せてきました。
懐かしい実家の戸口に立ち、清治は大きく深呼吸し、ゆっくりと戸を引きました。不安を払い腹を据え、
「葛原清治、只今、戻りました。」
と只でさえ大きな地声を張り上げて、帰還を告げました。
何事かと慌てて出てきたのは嫂の倭文でした。
倭文は呆然として立ち尽くし、声も出ません。
「義姉さん、清治です。無事、戻りました。」
清治が言うと、ようやく倭文は、
「清治さん。本当に清治さんなの。」
と振り絞るように言いました。
それでもまだ呆然とした表情で、自分の顔をジロジロ眺めてばかりいる倭文に向かって、清治は、
「義姉さん。何や、そんな顔して。わしや、清治や、清治ですわ。まさか、わしの顔忘れはったんとは違いますやろ。」
と嫂の顔を覗き込むようにして話しかけました。倭文は、どうにか気持ちを落ち着け、
「お帰り。ご苦労さんでした。あんた、生きとったんやね」
とたどたどしい声で言いました。それから倭文は、清治が戦死したとの報せを受けたばかりであったことを告げました。
「やっぱりそうか。」
想像はしていたが、はっきりとそう聞くと、今度は清治の方が呆然とした表情で玄関に立ち尽くしました。
自分の存在が消されてしまったわが家、そこには煤けた柱や天井、鴨居、敷居、そこかしこに染みついていた筈の自分の臭いは既に失せてしまった気がしたのです。自分という存在が余りに頼りなく宙に浮いているように感じてしまいました。
倭文はぼんやり佇む清治を置いて、奥へと駆け込んで行きました。
「あんた、お義父さん、お義母さん、清治さんや、清治さんが帰ってきやはった。生きてはったんや。ほんまもんやで。ちゃんと足かてある。」
倭文の甲高い声が震え、玄関先まで届き、清治の耳の奥で梵鐘のように木霊しておりました。
「え、ほんまか。」
「ほんまに清治なんか。」
「嘘やないやろな。」
「嘘なんかついて、どないすんの。」
口々に言い合う声が奥から届いたかと思うと、急にひっそりと静まりかえり、玄関先に迎えに来る者もありません。奥では何やらひそひそと相談している様子です。自分の帰りを手放しで喜んでいるという風ではなさそうです。清治の胸に巣くっていた不安が夕立の前の闇のように次第に広がっていくのでした。
「死んだ筈の者が帰って来たんやからな、驚くのも仕方ないわ。今更、ただいま、言うて帰られても、却って迷惑なだけやろな。」
清治は、生まれ育った家に自分の居場所を見出そうとした先程の努力が全く無駄なように思えるのでした。
「帰ってくるんやなかった。」
そんなことを思っているところへ、ようやく兄の嘉市が玄関まで迎えに出て来ました。
「清治、ほんまに清治やろな。幽霊やないやろな。そうか、生きとったんかぁ。良かった。ほんま、良かった。」
兄は相好を崩して歓び、清治の肩を抱きしめました。
遅れて出て来た父と母はその後ろで喜び合う二人をじっと見守っていました。姿を見ないうちに二人とも白髪が増え、皺だらけの顔は枯れたようになっておりました。嘉市に代わって清治の肩にぶら下がるように抱きついた母の琴乃は、か細い声で、
「清治ぃ。」
と呼ぶのが精一杯でした。歓びを表す声さえ枯れるほどだったのです。
その後ろで、黙って立っている父の嘉兵衛は、明治の男らしく毅然と振る舞おうとはしている様子なのですが、その目にはうっすらと涙が浮かんでいるのを清治は見逃しませんでした。すっかり老け込んだ両親の姿が、歳のせいばかりでないことを清治は思い知りました。
「お母ちゃん。」
清治は、自分の胸で崩れ落ちそうになる母の身体を抱き起こし、
「心配掛けたな。すまなんだ。」
と詫びました。
「そんなことあるかいな。」
「そや、お国のために立派に闘ってきたんや。」
「ほんまや。ほんまにそうや。」
父と母が代わる代わるに言う声に、すんでのところで居場所を失う筈だった清治はようやく居場所を取り戻した気がしました。
「さあさ、そんなとこにいつまでもおらんと、上がっておいでや。」
父が言うと、清治は肩から下ろした背嚢を玄関の隅に置き、上がり框に足をかけました。
清治は、「さあ、さ」と嫂に勧められるままに一つ一つ部屋を抜け奥の部屋に入り、囲炉裏の端に腰を下ろすと胡座を組み、軍服の上二つのボタンを外し、胸をはだけました。気の利く嫂が団扇を手渡すと清治ははだけた胸に精一杯風を送り込みました。すると、戦場の匂いが部屋中に広がって行きました。
清治は懐かしそうに、辺りの天井や柱、壁を見回しました。帰りの列車の窓から見た神戸や大阪の町は未だ惨状著しかったのと比べると、天井の色も柱の疵も何から何まで清治が家を立つ前と全く変わらず、清治はひたすら安堵し喜びました。
「良かった、良かった。」
皆、声を出して喜び合いました。戦争が終わって二年が経ち、何よりの変化は、こうして無事に戦地から帰還したことを心から喜び合えることでした。戦時中なら、戦地に赴けば骨になって帰るのをお国のためと歓びこそすれ、命ながら得て帰ってきたならそれを喜ぶなど不謹慎の誹りは免れないことであった。おめおめとどの面を提げて帰ってきたのだなどと陰口さえ叩かれるところであった。
清治は、和らいだ表情を互いに向け合い、心底、喜び合える家族の団らんを感慨深く噛み締めておりました。
「兄さん、子供らはどこにおるんや。」
「皆、遊びに行っとるんよ。」
嫂が兄の代わりに応えました。
「そや、清治、お前がおらんうちにまた子供がでけてな。今度は女の子や。」
兄が言うと清治は少し戯けて言いました。
「今度はて、また、女子かいな。五人のうち四人も女子か。兄さんとこも男には恵まれんのう。うちは女系の家系かのう。」
「そうかも知れんのう。」
「ま、何にしても目出度いことや。ほいで、その子はどこにおるんや。」
「隣の部屋で寝させてます。」
嫂が襖越しに隣の部屋を指差して言いました。
「それやったら、あんまり五月蝿うしたらあかんのう。」
清治は気遣いましたが、
「ええんよ。あの子はお腹が空かん限り、起きへんのよ。」
「そうか。それにしても嫂さんには苦労ばかり掛けるのう。」
「そんなことあらへんよ。清治さんも帰ってくれはったことやし、畑の仕事もまた助かるは。」
その言葉は清治にとって何よりの言葉でした。自分が頼りにされている、それを知るだけで清治は嬉しくなりました。涸れ井戸にまた水が湧いてくるような歓びを感じたのです。
「さ、さ、喉渇いてるやろ。」
と、腰の曲がった琴乃が一際大きな西瓜を盆に乗せて運んできました。
「へえ、うまそうやな。おおきに。」
と言うや、いきなり清治は切り分けた一片を手に取り、大きな口でかぶり付きました。甘い果汁が口いっぱいに広がり、喉の潤いと一緒に、戦場の殺伐とした空気で渇いた心にまで浸潤していくようです。口に頬張ったまま清治は両の手でまたもや西瓜を取ると、嘉市は
「慌てんでもええがな。誰も取ったりはせえへん。そんなところは昔とちっとも変わらんの。」
と言って笑いました。清治は苦笑いしながら、
「好物なんやから、しゃないがな。」
と言い返すと、琴乃は駄々っ子を慈しむように、
「ええで、欲しいだけ食べや。せやけど後でお腹壊さんようにだけしいや。」
と諭すように言い、嘉市も、
「すまん、すまん、遠慮はええんや。けど、お母ちゃんの言うとおり、一遍に食い過ぎて腹壊したらあかへんぞ。」
と気遣って言いました。
清治は、
「おお、分かっとるわ。」
と言いつつ、次々に西瓜を頬張っていくのであります。
「何も分かっとらんわ。」
嘉市が冷やかすと、家族は皆、大笑いしました。
「家族が増えるとほんま明るなるわ。」
そう言ってから、嘉市は真面目な顔になって改まった口調で話し始めました。
「清治、ご苦労さんやった。戦地は大変やったやろ。お前には、他人事みたいな言い方にしか聞こえんやろけど、俺にはそんなことしか言われへん。許してくれ。」
「兄さん、許してくれ、て、そんなこと言わんでくれ。」
「そうか。」
畳に手をついて詫びる兄と、頭を上げてくれろと促す弟との間に、暫く沈黙の時が流れました。戦場の辛酸を嘗め尽くした清治と、こともなげに内地で終戦を迎えた嘉市とでは互いの気持ちに隔たりがあるのはやむを得ません。後ろめたさのようなものを背負った嘉市の気持ちを引き受けてやれるのは自分しかないと思う清治でした。
嘉市は頭を上げると、
「清治、よう生きて帰ってくれた。こんな嬉しいことはあらへん。」
と言って、これまでの顛末の口火を切りました。
戦争が終わる半年ほど前でした。
清治らが所属する部隊が敵の襲撃により壊滅的な状態に陥ったらしいという噂が葛原家に舞い込んできたのです。同じ方面で戦っていた他の隊の中に同郷の者がおりまして、その者が実家に宛てた手紙の中に、それらしいことが触れられていたと言うのです。手紙はところどころ墨で塗り潰され、詳しいことは伏せられていましたが、文脈からして大凡のことは判断が付きます。それによると、清治の部隊は、深夜、露営中のところを敵側に与した現地の野戦兵に襲われ、幕営ごと火炎放射を浴びせられ、中で眠っていた兵や見張りの兵は悉く焼け出されたらしいと記されていました。惨状を免れた者もいるかも知れないが、連絡は途絶え、消息は全く不明だというように読み取れるのです。
清治の存否も勿論定かではありません。嘉市は、内務省に問い合わせてみたりもしましたが、何の手がかりもないとの答えが返ってくるだけでした。家族は不安を抱えたまま終戦を迎え、それでも一縷の望みを託し、毎食、陰膳を据えるなどしてひたすら帰りを待っておりました。ところが、先月になって、遂に知事名で戦死公報が届けられたのです。最早、消息を解明する見込がないと捜索を打ち切っただけなのかも知れませんが、遺体も遺品もないまま、現地の状況並びに地元住民の話をもとに類推して、生存の見込みなしと最終的に判断を下したということなのです。こうなると流石に、家族も諦めるほかありません。その一週間後に葬儀を行い、遺骨も遺髪もないまま葛原家の墓地に清治の墓標を立てたのでございます。
嘉市が話し終えると、清治は死亡公報を見せてくれとせがみました。
「気分はええないやろけど、ま、目を通すのもええやろ。」
と渋い顔をしながら、仏壇の前に行き、手を合わせた後、供えてあった戦死公報とそれに添付されていた紙を取り出し、清治に見せました。『死亡告知書(公報)』と記した紙には、清治の本籍ならびに住所、氏名と戦没場所が記載されておりました。そして、もう一枚の紙には、次のように記されておりました。
御遺族様
謹啓葛原清治殿の御戦歿遊されました公報を差上げるにあたり御遺族の御心中御愁傷の程如何ばかりかと誠に御同情に堪へません。茲に謹んで御悔み申上げます。
唯此の上は御供養に専念せられると共に犠牲を無にせられることなく新日本建設のため御努力遊ばされ末永く御多幸ならん事を切に御祈り致します。
尚時節柄何かと御多艱なる御起居を遊ばされ居る事と拝察致しますが當廰に於きましても及ばず乍ら御家庭についての御相談に應じて居りますから何卒御遠慮なく御申出下さる様申添へます。
昭和廿弐年七月壱日
清治は、やるかたない思いがしました。
戦中、戦後の混乱という事情において、誤報は致し方ないとしても、恭しく述べたこの文章はまるで不慮の事故にでも遭って命を落とした者と同様の扱いであるように思えて釈然としないのです。遺族を慰撫する言葉が並んでおりますが、国のために御霊を捧げた者達への哀悼はほどほどに、残された者は新国家のために尽力するように鼓舞するのが、この文章の本意ではないかとさえ思えるのです。
死んだ者には届かないだろうが、図らずも帰って来た自分のような人間がこの文章に触れれば、その字面の陰に潜む痛々しさを感ぜずにおれない者も少なくないだろう、清治は考えながら、ふと、そういう自分たちが用済みにされていく現実を思い知らされたような気がしました。生き延びたことは、果たして幸せだったのか、そんな不安と疑問が改めて押し寄せて来るのです。
清治は、徐に腹に巻いた千人針を解き、肌身離さず身につけていた花嫁人形を取り出し、人形を包み込んだ両手を震わせながら胸の前で合わせ瞑想しました。
何度も極限状態に陥りながら、その度、死の淵から這い上がり、どうにかここまで生き延びて帰って来た。それが人形のお陰かどうかは分からないが、生き延びたからには時代に取り残されてはなるまい。放っておいても時代は変わっていく、そう覚悟して、新しい日本を建設していこうとする人々の群れに加わるべきではないか、そのために、自分は今日まで生かされてきたに違いない、清治は思い直すのでした。
すると途端に世の中が拓けたような気になりました。同時に人形に重なるように脳裏に浮かんだ千鶴の姿が恋しくなりました。頬を染めて、恥じらう表情の千鶴が懐かしくなって、清治は誰とはなしに
「ところで、千鶴はどないしとるんや。」
と尋ねました。
途端に父も母も兄も嫂も、皆、顔を曇らせ、口を噤んでしまい、その先は何も応えません。皆が揃って畳の目を読むだけで返答に窮しているように清治には映りました。
咄嗟に不吉な予感が清治の背中を襲いました。
「千鶴の身に何かあったんか。」
清治が重ねて訊いても、すぐに答える者は誰もいません。
「そら、無理もない。わしが死んだと聞かされりゃ、千鶴かて、年頃の娘や。いつ迄も一人でおる訳にはいかんわ。千鶴が悪いんやない。戦争のせいや、仕方ないわ。」
清治は、やるせない気持ちをそのままぶつけるように口走りました。消息の知れぬ許婚を待っていつまでも操を守れというのは余りにも酷というものだ、それが分かっていて、清治は千鶴を責める気にはなりませんが、納得のいかないのもまた正直な気持ちなのです。
床の間を背にして座っていた父が、うな垂れた頭をもたげ、重い口を開きました。
「そうやない。千鶴は最後までお前の帰りを待っとったんや。」
父の言葉は千鶴を思いやるにしても、清治には苦しい言い訳のようにしか聞こえません。
「さっき、お前が帰ってきたと倭文が報せに入ってきた時、それにもびっくりしたんやが、千鶴のことをどない説明したもんやろかと、話し合うとったんや。それで今日は止めて、明日にでもゆっくり話そということなったんや。」
玄関で待つ自分を出迎えるのが遅くなったのはそういうことだったのか。しかし、千鶴のことをうやむやに明日まで放っておかれても困る、清治の心はそぞろでした。
「お父、何を聞いても驚かんから、ほんまのこと言うてや。え、千鶴はどないしたんや。嫁に行ったんやろ。誰んとこや。誰のところに嫁いだんや。」
清治は失望と無念と悲嘆を同時に顔面に表し、問い詰めるのでした。
「清治、落ち着けや。落ち着いて、話を聞いて欲しいんや。」
嘉市が横から割って入り、清治の苛立ちを鎮めようとしました。そして、
「お父、今のうちにちゃんと話したろ。それがええやろ。」
と言うと、父は軽く肯きました。
「清治、落ち着いて聞いてくれや。」
嘉市が念を押すのが清治には却って煩わしくさえありました。
「清治、さっきも言うたように、千鶴は、ずっとお前の帰りを待っとったんや。それは嘘やない。お前の消息が途絶えたという報せを聞いても、『清兄ちゃまはきっと生きたはる。』そう言うてな。わしら家族さえ諦めとったのに、千鶴一人が頑なにお前が生きているのを信じとったんや。戦争に行く前、お前は千鶴に『必ず帰ってくる』と言うたそうやな。千鶴はそれを約束と信じて健気にお前の帰りを待っとったんや。気ぃ利かして、周りで縁談を勧めてくれる者もあったんやけど、全部断ってしもうてな。わしらもそれが却って不憫に思うたが、流石に、わしらが縁談を持って行く訳にもいかず、『お前の好きなようにしたらええんやぞ。』と言うてやったんや。それでも、『清兄ちゃまのことを待つ』言うて聞かなんだ。それを聞いたらお前も男冥利に尽きるやろ。」
そこまで自分に操を立てようとした千鶴がより愛おしく思えてなりませんが、それだけに、千鶴の様子が気になってなりません。嫁に行ったのなら仕方ないが、その経緯はどうしても知っておきたいのです。
「兄さん、それで、千鶴はその後、どないなったんや。」
嘉市は深く溜息をついて、火の気の無い囲炉裏を火箸で掻き回しました。言いにくそうにしている夫に代わって、嫂が口を挟みました。
「清治さん、千鶴ちゃんはな『清兄ちゃまは生きたはる』の一点張りで、あんたの帰りをずっと待っとったんよ。それだけは信じたって、それだけは、、、う、、うう、、、。」
倭文の唇が震え、後は声になりませんでした。
「御免な、よ、余計な、く、口を、は、挟んでしもて。」
倭文は「夕飯の支度してきますわ。」と言って、前掛けで涙を拭きながら台所に去って行きました。「どうして義姉さんは泣くんや。」清治は自分を気遣ってくれる嫂の優しさには感謝するが、思い入れの激しい嫂の態度には訝しさを感じるのでした。
「兄さん、千鶴の気持ちはもう十分分かった。それはええから、千鶴は今どうしとるんか、それを教えてくれ。今更、どないしよと言うつもりはあらへん。あいつが幸せやったら、それでええ。ただ、どないしとるか知るぐらいは悪ないやろ。」
清治は哀願するように言いました。まだ応えに迷っている様子の嘉市に、清治は、胸ポケットに忍ばせていた、軍からの支給煙草を一本抜き取り差し出すと、
「兄さん、これでも吸って、気を落ち着けて、ゆっくり話してくれや。」
と言い、嘉市の口に咥えさせ、マッチを擦って火を付けました。
嘉市は、しけった煙草の煙を吐きながら、油の切れた歯車のように鈍い口ぶりで話し始めました。
「清治、違うんや。」
「違うて、何がや。」
「お前が思うてるのとは違うんや。あのな、あのな、千鶴は、千鶴はもうおらんのや。」
嘉市の声は嗚咽に埋もれ、聞き取るのがやっとのことでした。
「おらんて、、、お、おらんて、どういうことや。」
清治はそう訊きながら、はたと気づきました。うな垂れていた父と母の頭が一層重くなっているのを見て取りながら、清治は自分の汚れた想像を恥じ、それ以上に不吉な事態を頭に浮かべ、それを振り切るのに必死でした。
青ざめていく弟の顔を見ながら、今度は、嘉市が、
「お前も一本吸えや。」
と清治に煙草を勧めました。清治は震えた手で胸ポケットをまさぐり、煙草を一本取り出すと、覚束ない手つきで火を付けました。
「お前を待つ千鶴の気持ちはほんまもんや。あれほど真っ直ぐで美しいものはあらへん。せやけど、いくら気丈に振舞うても、いつまでも待っても帰らん上に何の音沙汰もないよって、不安になるのも無理はあらへん。周りから『いつまで待っててもしゃあないで。』と言われるし、胸の内は苦しかったに違いないわ。毎日、毎日、楠の下へ行って、お前の帰りを願うとったんやろな。お前らは内緒のつもりやろけど、お前らがあそこで逢うとったんは、皆知っとった。千鶴が楠に手を合わせる姿を見かけた者もおった。雨の日も、雪の日も、いつもや。止めたかて聞かんのは分かってるさかい、誰も止めはせなんだ。今から思たら、それがいかんかったんやな。せやけど、千鶴の気持ちを思うたら、好きにさせたったらええ、と思うのも仕方の無いことや。そうしているうちに、身体を壊してしもうてな。医者に診て貰うたら、結核ゆうこっちゃ。既に病が重うて、手の施しようが無うなってしもうてた。すぐに入院はさせたんやけど、治るどころか、悪うなる一方や。何遍も血ぃ吐いて、ぜぇぜぇ、ぜぇぜぇ、言うとった。苦しい息の下で、『清兄ちゃま』『清兄ちゃま』と呼ぶ声を聞くのは、辛うて辛うて。そんな時に、お前の戦死公報が来たんやが、流石に千鶴にはよう伝えなんだ。」
話を続ける嘉市は如何にも切なそうでした。
「後は言わんでも、もう、分かるやろ。」
清治を悲しますまいと、嘉市はそこで話を切ろうとしました。否、最後まで話す口の滑らかさなどとっくに失せてしまっていたのです。
清治は気丈なまでに姿勢を正して、
「兄さん、それはいつのことやったんや。」
と訊きました。
「六日前や、、、。静かな最期やった。」
清治は鳩尾から込み上げてくるものに、喉の奥が塞がれるのを堪えていました。悲しみ、そのような容易い言葉で表せるようなものではありません。
「兄さん、教えてくれておおきに。」
清治は足を組み直して正座すると、深々と頭を下げて礼を言いました。そして、
「わし、ちょっと出てくるわ。」
と言って立ち上がりました。
琴乃は、胸騒ぎがして
「何処へ行くんや。」
と呼び止めようとしました。
「おっ母、放っといたれ。清治の好きにさせたれ。」
嘉市は清治の手を引こうとする母の手を振り解き、
「夕飯までには帰って来るんやぞ。」
と言いました。
「ああ、分かってる。」
清治は呟くように言うと、先程解いた千人針と人形を抱え、玄関を出、大きく傾いた太陽に向かって走って行きました。眦が濡れるのを隠すように清治は顔を上げ全力で走りました。日本男子たる者、涙を見せてはならぬ、決してひとかたの強がりではありません。
「もう少し早かったら」
息を切らして走りながら、清治は考えても仕様のないことを悔やんでおりました。
「千鶴、千鶴ぅ。」
声に出して呼びながら駆け、二人の思い出が詰まる楠にやって来ました。沈みゆく夕陽の中で大きく袖を伸ばした木陰がしばし火照った清治の身体を慰めはしましたが、心まで癒しはしません。
清治は軍服を脱ぎ地面に置くと、その側に丁寧に畳んだ千人針を敷き千鶴に似た花嫁人形をその上にそっと置きました。文金高島田の千鶴の姿が清治の脳裏にくっきりと蘇り、「清兄ちゃま、お嫁さんに貰うてな。」と言う声が耳の奥で唸りを上げていました。
腰に下げた軍刀を抜き、膝をついてかがみ込んだ清治は、楠の根本の土を丹念に掘っていきました。拳二つ分がすっぽり収まるくらいの穴ができると、花嫁人形をくるんだ千人針の腹帯をその中に埋め、土を被せ、さらにその上に土を盛って塚に仕上げました。
「ち、千鶴、お前はわしをずっと守ってくれてた言うのに、わしは、わしは、お前に何もしてやれなんだ。すまん。すまんかったあ。」
日本男子の面目などとて今さら拘ったところで何になりましょう。堪らなくなった清治は盛り土の上に覆い被さるように蹲って遂に号泣しました。
どこからか、白桃の甘い香りが漂ってき、千鶴の面影に被さり、清治の胸を掻き乱すのでした。それも束の間、遠くから忍び寄る雨の臭いがその香りを掠っていき、やがて清治が泣き叫ぶ声を打ち消すように雨脚が激しくなってきました。
降りしきる雨の中、清治は突っ伏したままいつまでもいつまでも泣いておりました。
完