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お荷物くんの奮闘記  作者: seam
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act.9

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 自分が彼に出会ったのは、“彼の勇者”が不慮の事故で命を落とした後だった。

 世界が危機に瀕した際、力を必要とする者の前に現れて助力することが自分達、天使の役目だと母なる存在『マム』より教えられていたから、その時もただ事務的に彼の前に降り立って、『勇者代行』を請け負ったのだ。

 自分が天使であるということは、そういえば初めは伝えていなかったように思う。

「おまえ、名前は?」

「おれは……ウリエルって呼ばれるよ。よろしくね。ええと」

「ユウだ。よろしくな、二代目勇者様」

 彼は勇者パーティの魔法使いだった。勇者の死を悼むこともせずあっけなく二代目として新しい勇者を受け入れた彼のことを、他のパーティメンバーは不謹慎だの冷たいだのと口々に責めていたが、彼はメンバーの心情も理解していたのだろう。へらへらと笑って批難を受けながら、それでも今為すべきことは魔王の討伐だと口にした。

 世界の危機に合わせてマムの力により生み落とされた自分はその時、人と同じく十代の子供そのものだった。大人の多かったメンバーはその見た目のためか警戒もすぐに解き、二代目勇者という呼び方は世間にも広がることになる。


 打倒魔王の旅は順調だった。魔王の力は強大で、パーティメンバー全員がそれぞれのクラスの究極技を習得していないと戦いにならないだろうと首都の王様から話を聞き、スキル習得のために遠まわりをしながらの旅ではあったけれど、冒険に行き詰ることはなく、あっという間に究極技習得のために周らなければならない神殿は残り二箇所になった。

 輝炎の神殿と水雹の神殿、それぞれの属性からして、二代目勇者である自分と、氷魔法の得意なユウが試練を受けるのだろうと推測できる。

 現在地から一番近いのは輝炎の神殿で、試練のために神殿の入り口を潜るとそこは見たこともない文字列の飛び交う魔境だった。

「な、なにあれ」

「異世界の言葉かしら。元々、この神殿はダイゴ――最初の勇者が召喚されたと同時に地表に現れたものらしいし。異世界の人間に向けた挑戦状だった可能性も高いわ」

 仲間の僧侶が後ろで考え込む。しかし文字列はひたすら列を成して奥への扉の前に立ち塞がり、行く手を阻んでいる。

 ユウが試しにと使用済の回復薬の包装を丸め、文字列の中へと投げ込んだ。包装紙はあっけなく光に呑まれ、炎に変わる。

「うかつに触ると手を燃やされる仕掛けになってんな、これ」

「どうしよう、ユウ?」

「少しだけなら、オレ分かるかも」

「ほんと!?」

 ダイゴに教わったことがある、と言って、ユウが荷物から紙とペンを取り出した。飛び交う文字列を素早く書き写しながら、彼が一人頷く。

「やっぱり、これはダイゴが異世界で仕事してた頃に使ってた文字だ。確か、アセンブラ語、だったかな」

「あせんぶら……」

「あっちの世界で、自動で動く人形とか馬とか、自分で考える能力を持つ算盤とかを魔力無しで生み出す時に使う呪文らしい。簡単な基礎だけなら片手間に教えてもらったメモがあるぜ。オレに任せとけ」

 自分の試練の場なのに彼にやってもらうというのも気が引けたが、元々利口なほうではない自分には異世界の未知の言語など一生やっても勝てなさそうだ。むしろ光の中にさっさと突っ込んで、熱いのを我慢しながら自分だけ先に進む方がまだ上手くいくかもしれない。

 そこまで考えて、そういえばこの試練は自分のための場ではなく、先代勇者のためのものだったことを思い出す。自分に解けなくて当然なのだ。情けないけれど。

「……STARTは始まりの意味だから先頭に来て、DSECT、ここに炎が来るように並べ替えて、DC……引用符……」

 途中までは彼が紙に文字列を書き込んでいるのを覗き込んでいたが、最早何を書いているのか分からない。

「できたぜ。ちょっと下がってろよ」

 メモを片手に、ユウが文字列に封印された奥の扉まで進んでいく。

「正解の順番通りに文字を触れば、火傷はしないはずだ」

 彼が文字列のうちの一つに手を伸ばす。すぐ側で、念のためと僧侶が回復魔法の準備を始めた。

 光の中に彼が躊躇いなく人差し指を入れた。炎は発生することなく、光が弾けて単語は消え失せる。

「ほらな。いま全部解除するから待ってろ」

 彼はすこしも迷う様子を見せなかった。次々にトラップは解除されていき、扉の前に無数にあった光の文字列は見る間に弾けていく。

「END……で終わりだ。こんなもんだろ、先行こうぜ」


 扉を開けると、奥に待っていたのはまたしても光の文字列で、今度は文字列が部屋中に飛び交う中で炎属性の魔物まで出るという厄介なフロアだった。

「一旦広域魔法で魔物だけ倒してから謎解きする?」

「それもアリだが、ここで魔力を大幅に消費するのも最後の試練フロアのことを考えると得策じゃねえかもな」

 一瞬考えるそぶりを見せたユウが、またおもむろに先ほどの紙の裏へペンを滑らせ始める。

「ひょっとしたらこの神殿自体、異世界のアセンブラ呪文で構築された建造物なんじゃねえかな」

「なんで?」

「特に根拠はねえから、今試そうと思って」

 フロアに満たされた文字列をあちこち見回しながら、手元だけが紙の上で動く。

「ADATA……ADATA……あった。あとはMEXITを持ってきて……」

 再び頷いてペンを荷物に仕舞った彼が奥へ進んでいくのを見て、慌てて後を追う。魔物が襲い掛かってくる直前、彼が素早く文字列の三箇所を突いた。

 まるで重力操作魔法で足止めでも食らったかのように、魔物だけが動きを止める。

「すごい……」

「オレは、あいつに教えてもらっただけだ。ほんとにすごいのはダイゴの方だよ」

 石像、否、絵画を思わせる動かない魔物からは一切生命力を感じなくなった。

「こいつらは多分、ゴーレムかオートマタみたいな存在なんだ。アセンブラ呪文によって生きてるみたいに動かされてるだけの、人形なんだろうよ」

 彼のすぐ後に追従する形で、パーティメンバーも部屋に進む。ユウは火傷することもなく次々と文字に触れていき、部屋の半分の文字を消した時、動きを止めていた魔物が一斉に消滅した。

 次のフロアへの扉が開けられる量まで文字が減少したところで、周囲の文字列に触れないように全員で扉の前まで移動する。次のフロアには飛び交う文字列も魔物もなく、がらんどうの空間にぽつんと銀色の石碑があるだけだった。天井や床にもトラップはないように思える。

「入るだけなら危険はなさそうだな」

 パーティ全員が第三フロアに踏み込む。ユウが石碑の前に屈んで、そして硬直した。

「ユウ? どうかしたの?」

「……やっぱ、ここ、勇者のための神殿だったんだ」

 オレが読んじゃいけないものだった。彼が声を震わせた。こちらの世界の書き文字を教える代わりにダイゴの世界の言葉も少しだけ教わっていた彼だけは、石碑に書かれた丸っこい変な文字が読めるのだろう。

「何て書いてあるの?」

「……ウリエル……二代目勇者、か。おまえならひょっとしたら、読む資格があるかもしれねえ。メモに残しとくから、宿に戻ったら教えてやる」

「うん」

「ユウ。その文章が勇者ダイゴのためのものだったとしても、大まかにどんな内容だったかくらい教えてくれてもいいんじゃない? この場にいるのがダイゴだったら、教えてって言えばちょっとは教えてくれたはずよ」

「そうだな。……この石碑は、なんつーか、神様からの……勇者宛ての手紙だ。助けてくれ、って意味の」

 遅れて石碑を覗きに来た僧侶が、自分では解読できないその文字に肩を竦める。老齢の戦士がそれならと言葉を続ける。

「神からの言葉であればおおかた、魔王を倒せという内容だろう。我等のなすべきことに変わりはない」

「それもそうね」

 後に聞いたところ、石碑にはこの世界の成り立ちと、真理が書かれていた。聡い彼はきっとこの時に気付いたのかもしれない。……勇者ダイゴの消滅の理由に。

 思えばこの時に、石碑の意味を自分が正しく理解できていれば、もっと違う結末があったのだろう。

 戦士の台詞に苦笑したユウが、メモを終えて立ち上がる。大きく伸びをした。

「さて、勇者の最終奥義を入手するにあたって……この石碑自体が怪しいわけだが」

「押してみる?」

 んな単純な仕掛けなわけねえだろ、と彼が笑うのを横目に、えい、と力いっぱい石碑を押す。

 石碑は音もなくゆっくりと背後に傾き、大きな音とともに床の上にめり込んだ。

「壊しやがったこいつ」

「……ごめんなさい」

 神様の手紙が書いてあった部分は粉々だ。何やら精密な光るデザインが施されていた床も、石碑がめり込んだせいか光らなくなってしまった。

「待って、あれ」

 ユウに睨まれて小さくなっていた自分は、僧侶が声を上げるまで異変に気が付かなかった。

 倒れた石碑の上に、半透明でがさがさとちらついている姿の男が光とともに浮かんできたのだ。

「誰だろう?」

 これまでの試練のボスのように攻撃してくる様子はない。しばらく様子を伺っていると、途切れ途切れの言葉が聞こえてきた。

 ……選ばれし勇者よ、君と直接じっくり話をする機会がないことが非常に残念だ。

 言葉は聞こえにくかったが、前後に聞こえた台詞から、だいたいそんな意味合いだろう。

 ……君にこれから授ける技は、悪の根源を絶つために役立つ力になる。

 ……きっと君が真にこの技を必要とした時、私はもうこの世界には居ないだろう。

 そうして続けられた台詞は、奥義の開発手段と試練のクリアを意味する言葉だった。

 奥義は残りひとつ。盛り上がる仲間内で、ユウだけが一人、苦い顔をしているのが分かってしまった。


 水雹の神殿へと進む道すがら、いつも殿を歩くユウの普段以上に足元がおぼつかない様子が気になって歩みを止める。

「ユウ? 顔色よくないよ。どうしたの?」

「そうか勇者様にはそう見えるか、じゃあ今日は戦闘サボろうかなー」

 指摘してからわざとらしくげほげほと咳き込んで、実は風邪気味で、と彼が仮病のふりをする。仲間たちが調子に乗るなと一蹴し、ユウはダメかあと笑う。

 仲間たちが気付いていたかどうかまでは知らないが、彼が無理をしているのは分かっていた。北の水雹の神殿へ向かう途中の小さな村で宿を取った夜、食事の後にふらっと席を外したユウを追って外へ出る。

 あれだけ消耗していた彼が、部屋に戻るのではなく外に向かうというだけでも不思議だった。周囲の仲間たちは、彼の性格や普段の言動からして夜遊びにでも出たのだろうと自分が追いかけるのを引きとめようとしてくれたが、夜遊びだったとしてもあの様子では連れ戻さなければきっと途中で倒れてしまうだろう。制止を振り切ってユウの背中に追いつくと、彼は俯いてぶつぶつと独り言を呟いていた。

「……神職系統の蘇生魔法は駄目だった。肉体が異世界に戻されて、そこで死亡と処理されたんだとしたら空間転移と対物時間操作と……いや、冥王信仰の遺跡を今からでもしらみつぶしに当たって……」

「ユウ」

「っと……ウリエルか。お子様はもう寝る時間だぜ」

 一瞬身構えかけた彼が、肩の力を抜いた。

「オレは今からかわいこちゃん探しだ」

「村の女の子? もうみんな家に帰ってるよ」

「馬鹿だな、探し方があんだよ」

「この村、遅くまで開いててお酒の飲める場所ってさっきの宿屋しかないじゃない」

 隣町まで行くつもりなの。訊ねると、彼は溜め息を零す。

「……バレちゃ仕方ねえや。さっきの、聞いてたか」

「うん。……やっぱり、ダイゴさんを生き返らせたいんだ?」

「隠してたつもりだったんだが。そうだよ、あいつらには内緒な」

「どうして」

「ん?」

「どうして最初の勇者が必要なの?」

「勇者業は、まあ、おまえで充分だよ。力不足だなんて言ってねえし、思ってもいねえ」

 彼を追って村の外れまで歩いてきてしまった。村を見渡せる小高い丘に足を進めたユウが、手招きする。

「お子様にはわかんねえかもしれないけど。あいつに夢見せちまった責任っていうか、そういうめんどくさいもんがあるんだよ、オレにはさ」

 異世界から召喚された彼の勇者――ダイゴは、故郷の世界では酷い場所で働いていたらしい。こちらにやってきてすぐ、ここならば自分の手で未来を切り開けると喜んでいたのだそうだ。

 魔王を倒せば元の世界に戻れるという情報を得て、勇者は冗談交じりに「帰りたくないし、もうオレここに住もうかな」と笑ったらしい。

「ダイゴさんは、幸せじゃなかったの? 死に際に恨み言でも言われたの?」

「どうだろうな。少なくとも、……一緒に暮らそうかって話してた時は、楽しそうだったよ」

 ちゃらんぽらんな笑顔の裏で必死に蘇生魔法や復活の魔法を研究し続けて、昼間は眠そうに戦闘に加わっている。なぜそんなに初代勇者を取り戻したいのか、自分には理解できなかった。

「あいつの本心がどこにあったのか、分からなかったんだ。だからこれは単にオレのエゴでさ。やり直したいんだよ。あいつともう一度」

 遺体も一片さえ残らない死に方をした勇者を蘇生させるのは、きっと限りなく不可能に近いことだ。だからこそ、自分が二代目勇者として派遣された。その事実は、勇者の肉体を再生できないと世界が判断を下したことを意味している。

 それでも、可能性に縋ることをやめられない。

 そう言った彼の少し寂しそうな声だけが、悲しみの分からなかった自分の胸に残った。


 水雹の神殿と魔王城、どちらも北の方角に位置しているというのは都合が良い。最後の最終奥義、氷魔法を得てすぐに魔王城へ向かうことができるのである。

 先代勇者に与えられるはずだった奥義を上手く自分のものにできているのかという不安もあって、次の神殿では積極的に前に出ておきたい。

 神殿は川の上流、洞窟の奥に建てられていた。進むにつれ洞窟内の気温は下がり、神殿の入り口に到着する頃にはすっかり周りは霜に結晶、氷柱だらけだ。

 肝心の神殿の扉は凍っていてびくともしない。

「おれが溶かすよ」

「手加減しろよ。おまえ遺跡クラッシャーだからな」

「この間のだってわざとじゃないよ」

「故意じゃねえから気をつけろって言ってんの」

 先日輝炎の神殿で石碑を倒し、うっかり床ごと破損させてしまったことは未だにネタにされている。聞けばあの幽霊のような半透明の男性は魔法による映し絵のようなもので、自分が壊してしまわなければもっとクリアな見た目と声だったはずとのことだ。唇を尖らせてみせるとユウは満足して、頭をくしゃっと撫でた。

 彼よりずっと身長が低いのが思い知らされるようで、あまり良い気分はしない。どうして頭を撫でるのか訊ねると、撫でやすい位置にあるとか、髪の感触が手触り良くてついだとか、そんな理由をにやにやと話してくる。傷付くのは自分なのでそれ以上は聞かないことにしている。どうせチビだよ。

 両手に炎を纏って、扉に触れる。触れた場所から氷が水になって流れ出し、足元で再び固まった。気温が低すぎて、一度にある程度の量を溶かしてしまわないと扉は開くようにならないらしい。

「……ユウ、もうちょっと強くしても大丈夫そう?」

「あー、おまえそういう細かいの苦手だったな。分かった、オレが制御するからおまえはでっかい火球だけ出してろ」

 自分がやると言った手前彼の力を借りるのは情けなかったが、間違っても先日のように神殿を破壊して再び遺跡クラッシャーと呼ばれる事態だけは避けたい。

 言われる通り扉の前で火球を作る。ユウは何かの魔法を構成して、指先で炎の形を変えた。

「炎がスライムみたい」

「スライムっておまえな」

 率直な感想だったが、語彙力不足を呆れられてしまった。聞けば風と地属性の魔法を混ぜて他人の炎をコントロールしているらしく、そこまでやられると魔法についての価値観というか、認識がぐちゃぐちゃになってしまいそうだ。

 普通、魔法っていったら僧侶や勇者と同じように、自分のスキルに名前があって、名前に対応した消費魔力があって、その関係は一対一。ひとつ使えばひとつ分消費される技であるべきものではないか。彼のやっていることは本当にでたらめだ。スキルに名前が付与される直前の、つまり属性が付与される直前の魔力そのものをパン生地か粘土みたいに自在に扱って、さらに一対一であるはずの魔法をそれぞれ個別に操っている。それぞれの属性を極めることで混合属性のスキルを身につけることはできるが、彼のそれは全く異質のものだ。

 天才なんだな、と、魔法に疎い自分でも分かる。それと同時に、毎晩仲間に内緒で魔法の研究をしている彼を思う。天才が努力して、試行錯誤してなお実現し得ない勇者の復活。そんなものに自分なんかが口を挟むべきではないし協力できるはずもないから、知ってしまったあの日以来、その件については触れていない。

 彼によって竜の形に変わった炎が、扉に向かって一直線に突っ込んだ。氷は一瞬にして焼き尽くされ、足元には水一滴も零れ落ちない。

「よし、これで入れるだろ」

「ありがと、ユウ」

「気にすんな。ここ見るからに氷系統の魔物出てきそうだし、戦闘は頼むぜ火属性」


 神殿内部に進むと、入って直ぐの真正面にいかにも次のフロアに進めますと言わんばかりの目立つ扉があった。

「開けちゃう?」

「トラップらしきものも見当たんねえな。開けたらいきなり矢が飛んできたり魔物が跳び込んできたりするかもしれねえぞ」

 ユウの忠告は開けるなという意味ではない。彼がもし扉を開けるのはまずいと考えたなら、そのまま扉は開けるなと告げることだろう。開け方には気を配れってことかな。扉に身体を寄せて、ノブを握る。この開け方であれば扉自体が盾になって、万一矢が飛んできてもまともに食らうようなことはないだろう。

「開けるよ」

「おう」

 扉を開く。開いたところからトラップや攻撃なんかは吹き出してこない。

 恐る恐る中を覗き見ると、その先に広がっていたのは暗闇だった。

「なにこれ」

 暗闇といっても、部屋の中が暗いわけではない。扉の先から一歩出たそこは、部屋そのものが深い落とし穴であるかのような奈落だ。

 奈落を越えた向こう岸に、次のフロアに進める扉がもうひとつ見える。

 こちらを覗き込んで、ユウがやっぱりなと息を吐いた。

「扉の先自体が試練になってるんだ。だから堂々と見つかりやすい真正面に扉を配置したってことか」

 彼が指先に小さな炎を灯して、弾く。火の玉は扉の向こう、奈落を越えて次の扉に向かって飛んで、いこうとした。

「あ、消えた」

 奈落に差し掛かった瞬間、彼の魔力の炎は風に吹かれた松明のように消えてしまった。

「この落とし穴部屋、魔法無効化空間らしいな。魔法で向こうに渡るのはNGだ」

 空飛ぶ魔法で渡ろうとしたら皆して落っこちるところだったぞ。彼が続ける。なんとなく、自分が天使の翼を広げれば渡れそうな気がしたが、それを提案する前に彼が扉を閉めてしまった。

「このフロアに、奈落を通過できる仕組みが何かあるはずだ。それを探そうぜ」

 翼の浮力も無効化されるかどうかまではやってみないことには分からない。他に方法があるならまずそれを試してみて、難しければ話すのでも良いだろう。面々にフロアを探索し始めるメンバーに続く。自分が人間ではないことは、まだ誰にも話していないのだ。

 扉に向かってフロアの左右に、扉のない細い通路がひとつずつ。僧侶と戦士が左を確認しに行くと言った以上、ユウと自分は右だ。その先に強敵や罠などの危険があった場合を考えても、回復魔法の使えるメンバーを二手に分けるのが最適と言える。

 部屋の構造確認をかねて、まず通路の奥まで進んでみる。通路の両端に水の流れていない水路があり、奥の行き止まりには動かない水車と、墓標のようなものがぽつんと不自然に立っていた。墓標に触ってみる。建物の材質と同じ石に見える。

「これ怪しい?」

「いや、これ自体は次のフロアの仕掛けには関係しないはずだ。床と一体化していてそうそう動かせるもんでもないし、……メモだけはしとくか」

 前回の神殿同様、ユウが紙とペンで墓標に書かれた文字をメモに残していく。自分には読めない文字だが、この世界のものではない言語だろうか。

 先程のフロア中央に戻る。そこには既に左側の通路を見に行った二人が戻ってきており、こちらの帰りを待っていた。

「よ。左はどうだった?」

「どうもなにも、何にも無かったわ。行き止まりまで進んでみたけど魔物一匹いやしないし、奥には凍った滝があったくらいね」

「それだ。道の両端に水路がなかったか?」

「あったけど、……ひょっとして、あの凍ってるのをまたどうにかすれば仕掛けが動くの?」

「こっちの行き止まりには動いてねえ水車があった。滝を復活させて水車まで水を引き込めば、それが動力源になって何か起こるはずだぜ」

 基本的に頭脳担当な僧侶とユウが、互いの意見を交換し合う。もう一度全員で左の通路に進むと、彼女の言った通り流れ落ちる形のままで凍った滝があった。

「ウリエル、今度は加減は必要ねえぞ」

 出番だ、とばかりに前に出される。彼も火属性魔法は使えるはずだが、自分の炎は魔力を消耗するわけではないので、彼の魔力温存のため自分が出るのは理に適っている。

 入口で生成した炎と同じように火球を作り増幅する。周囲の温度が上がったのを確認し、凍った滝の根本へ炎を投げつけた。

 氷は上流ごと折れ、崩れる前に水に変わった。凍った滝に塞がれていた排水口に穴が開く。水路の奥まで炎は侵入し、水の音が聞こえてきたかと思った瞬間、排水口から水が溢れてきた。

 周囲には湯気が立ち込めている。遠くの方で、水車が軋みながら回り始める音がした。

「おつかれさーん、フロア中央に戻るか」

 ユウが肩を叩く。水路に流れてくる水は、水というより……、

「お湯になっちゃったわね」

 足湯できそう。気を遣ってか、僧侶が付け加えてくれた。


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