飛行機雲
「……ついに立ち入り禁止、か」
その立て看板の表示を見て見ぬふりして、少女は緑の広がる空き地に足を踏み入れた。芝生しかない、正真正銘の空き地。完全に空虚な空間。
その中央に、少女は一人、立ち尽くす。
彼が来てくれないだろうかと、かすかな、しかし絶対に叶わない望みを抱きながら。
鳥が頭上を横切る音がした。羽ばたきが離れ、しばらくの静寂と間を置き。
「ははっ」
少女は自嘲的な笑い声をこぼし、草の上にゆっくりと座った。乱暴に置いたスクールバッグを背もたれ代わりにし、手を地面につく。と、何かが指先にぶつかった。つるつるとした、筒状の物体。きっと閉まりきらなかった鞄から落ちたのだろう。さして気にせず、折り曲げた膝頭を見つめた。
――静かだ。
車もほとんど通らないような道筋にある空き地で、ほとんどふたりだけで独占できた空間だった。子供は近くの公園に遊びに行くし、大人は車一台しか通れないのに一方通行の表示もないこの不便な道路を通ろうとはしない。住宅街の中にひっそりと存在するこの空間は、誰もが知っているが誰もが存在を認知しない、ひとつの世界だった。
その世界を構成する片割れが、いなくなってしまった。
「あー……」
もう一週間以上、会っていなかった。以前は毎日のように会っていたのに。学校でも、ここでも。
少女はふと、顔を上げた。新芽の香りを含んだ空気が、鼻孔をくすぐる。空はどこまでも青く広がっていた。太陽は南から少女の額を暖かく照らしている。
「そろそろかなー」
静けさを崩すように、少女は独り言を続ける。吐息交じりのその声は、風が揺らす雑草の音でかき消された。
彼は音楽の神様に愛された子として扱われていた。家には分不相応のグランドピアノが置かれ、週に3日の自宅レッスンと、週に3日の外部教室練習、残りの1日は延々と自主練習という生活を送り、親の期待を一身に背負う同級生として、周囲から見ても明らかなほど繊細に扱われていた。体育の球技は欠席であったし、美術と家庭科の刃物は触れるどころか近寄ることすらしなかった。反面、音楽の授業はいつでも見本として前に立たされていた。
少女は、才能を発掘される前から彼と友達で、いわゆる幼馴染だ。幼稚園から高校まで、ずっと一緒。よくぞ普通の高校に通わせてもらったものだと思うが、2年生になってから英語を強化して学べる国際科が目的だと親を説得したのだろう。
ちなみに少女は楽譜を読む勉強もそこそこに見限られ、今となっては音楽の成績もぶっちぎりの2である。
「おまえと話してるとさ、俺を普通に扱ってくれるのが本当に嬉しいんだ」
白く細い繊細な指先で、彼は少女の髪先に触れた。少年は彼女の髪先の外はねがお気に入りのようで、ふたりきりになるとこうしてよく弄んでいた。
少女は気にしたそぶりを見せず、頬杖をついてつまらなそうに返事をする。
「だって昔から知ってるし。いまさら特別扱いとかするわけないじゃん」
「ん、ありがとな」
「どーも」
――休日、彼が「散歩」と称して空き地に向かう直前は、いつも同じメロディーが隣の家から聴こえてきていた。いつのまにかその曲を合図に、少女も外出するようになっていた。彼はピアノが、音楽が嫌いなわけではない。むしろ愛しているが、やはり親に強要されている部分が多くを占め、若き天才を苦しめていた。
「期待が大きすぎて、こわい。もし失敗したら見向きされなくなる気がして」
震える声で不安を漏らしたのは、小学何年生の時だっただろう。
「本当に俺には才能があるのかな。ただ地元で持ち上げられてるだけの井の中の蛙じゃないのかな」
うつむきがちに弱音を吐いたのは、中学何年生の時だっただろう。
「高校在学中に世界的なコンクール入賞して、大学は外国に留学する」
前を向いて決意を口にしたのは、高校1年の夏休みだった。
実現させることが出来た彼は、やはり大海を泳ぐだけの実力があるのだろう。幼い頃から重ねてきた実績も併せ、見事にドイツの音楽大学に入学を決めた。
「おまえのおかげだよ」
彼はさわやかな笑顔で、そう言った。
応援したい気持ちと、離れたくない心。結局この葛藤の、彼の邪魔になる部分は伝えることが出来なかった。
「あ、あれかなぁ」
轟音をあげて近づいてきたその影を、少女は注視した。翼を広げた鉄の塊は、いったい何人の未来を乗せているのだろう。あの中に、彼がきっといるはずだ。搭乗する時間からして、ぴったりだろう。
少女はふっと思い立って、右腕をまっすぐ空に向かって伸ばし、手のひらをめいっぱい広げた。やがてその手と影が重なったとき、拳を握りしめる。指の間を空気がすり抜け、影は何事もなくそのまま飛んでいく。
「……ま、掴めるわけないよね。知ってたけど」
腕をゆっくりとおろす。
引き留めるわけにはいかなかった。引き留めたかった。
世界中で羽ばたいてほしい。このひっそりとした空間で自分だけの隣にいてほしい。
相反する気持ちから笑顔をうまく作れず、彼が日本を発つ日が決まってから、あのメロディーが聴こえても部屋を出られなかった。
彼はどんどん離れていく。
一度だけ、訊いてみたことがある。いつも弾いてるあの曲は何? と。
彼は優しく微笑みながら、こう答えた。
「ベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』だよ」
ふと思い立ち、少女はスマートフォンを立ち上げた。ピアノソナタ第14番月光と打ち込み、検索にかける。すぐに出てきた。いつ頃、どういうコンセプトで作曲された曲なのか。
「……ばっかじゃないの」
自分が音楽に疎いの、知ってるくせに。なんて遠回しな。
「ていうか、立場逆」
少女はスマートフォンを握りしめ、震えた。
点滅する画面には、曲の概要が表示されている。
『ピアノソナタ第14番『月光』は、ベートーヴェンの恋人に捧げるために作曲された。彼は伯爵令嬢である恋人との身分の差に苦しんだという。なお、彼女は伝記で「不滅の恋人」であるとされている。』
轟音はもはや聞こえない。いつもの静けさが、空き地に戻ってきた。
何百もの逢瀬を交わしたのに、言えなかった。
何千もの言葉を交わしたのに、伝えられなかった。
少女はスカートの汚れを払うのもそこそこに、鞄を持って立ちあがった。どうせこの服を着るのは今日で最後だ。汚れたところで母以外はなんとも思うまい。さようなら、思い出の地。ここは緑色の空虚さの跡形もなくなって、知らない人の家になるのでしょう。
拾い忘れていた卒業証書だけは砂と草を払い、無造作に鞄に突っ込んだ。
たった一人の自分以外の人のために、ドイツに留学できる大学をわざわざ受験したのだ。いつしかの再会を願い、そのときだけのために努力を積み上げよう。
そしてきっとそのときは、気持ちを伝えよう。絶対に。
決意を新たにする少女の頭上では、まっすぐ伸びた飛行機雲が、青空を引き裂いていた。