落としたノート
それは梅雨前の雷みたいに
突然私の足元に落ちてきた。
何気なく拾ったノートに、
私はほどなく感電死する。
*
【井上が好きだ】
その殴り書きされた字に、灯[あかり]はハタッと動きを止めた。
井上…。
なんの変哲もない青いノート、ついでに言うと数学用のようである。
いのうえ…
灯は色々な可能性を吟味してみたが、やはり自分の苗字は井上に変わりない。
いや。もしかしたら井上と書いて実は「いのかみ」って読むのかもしれない。うんそうかもしれない。うん、そうなんじゃないかな。
灯はパタンとノートを隣の席に戻しながら自分に言い聞かせる。
うん、まぁ、うん、えっと…。
「…わーびっくり。」
変な汗が止まらない。
朗らかな午後の出来事である。
◆
「灯?何?どしたの?」
「いやーたまげた。」
相変わらずボケッとしている灯に志織が話しかける。
しかし今日はやけに灯の姿勢がいい。
黒板をまっすぐ見つめて微動だにしない。
いつもなら机にだらんと身を預けてくつろいでる時間帯なのに。
なんか変だと志織は思った。
「え?何がたまげたの?」
「しおりちゃん。私の隣の席の人って誰だっけ?」
はぁ?と志織は腰に手を当てる。
唐突に話が変わることはいつもの事だが、それ以前に灯の識別能力の低さに驚く。
「まだ覚えてないの?もう2ヶ月は席変わってないでしょう?」
「ごめんって。で、誰?」
「岸谷くん。」
岸谷くん
岸谷くん岸谷くん岸谷くん
うーん…
灯は頭を更に抱える。
名前を言われてもやっぱりピンとこないでいた。一体岸谷くんとはどんな子なのか。
そうこうしてる内にチャイムが全校に鳴り響く。
灯はバタバタと走りながら隣に座る男子にドキリとし、意識を集中させた。
わー。噂の岸谷くん。
噂もなにも、灯の中だけでの事だが、とりあえず、得体の知れない生き物の観察を試みてみようとじりじり視線をずらす。
だって、気になるではないか。
仮にも自分が好きだなんて。
岸谷くんとは、いったいどんな人なのか。
しかし、今は授業中だ。
いきなりバッと顔なんて見れない。
…まずは足元だ。
灯はそっと視線を右下にずらす。
…うん。ちょっと汚い上履き。
大きな靴に大きな文字で岸谷、と油性ペンで書かれてる。
まぁ誰でも書くよね。と灯は思った。
しかし、強いて言うなら、男子の割に字は綺麗な方だと思う。
うん。次。と、灯は隣の男子の足を下からゆっくり舐めるように見上げる。
一歩間違えれば変態オヤジだ。
「(…長っ)」
太くもなく、ひょろひょろでもない。そしてとりあえず長い。よく机にねじ込んでるなと思う足の長さだ。
灯はさり気なく自分の足を見る。
…悲しいぐらい短く感じた。こんなもん男子と比べるもんじゃないなと、静かに思う。
続きましてー、おしり!…なんて見てどうするんだと灯は自分に突っ込みを入れてみた。
…一応見てみたが、別にこれといって感想はない。
ただの高校男子のケツである。
「…井上。」
「!」
ひ…っ!
灯は一気に全身の毛穴が閉じる感覚にさいなまれた。
今まさにジロジロ観察中のターゲットから、名前を呼ばれたのである。
"岸谷くん"は怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
灯はまさか気付かれるなんて思っても無かったので一気にパニックになる。
心臓の当たりが今までにないぐらいドキンドキンと存在を主張していた。
半年前に靴の中にちっさいおっさんが入ってた時ぐらいドキドキしている。
(誰も信じてくれなかったけど。)
どうしよう。
俺のケツみてただろうとか言われたら…。ハイ、ミテマシタとしかいえない。
岸谷くんは眉間に太いシワを寄せながら小声で続ける。
「…。消しゴムか?」
へ?消しゴム?
「あ、え…、」
灯がもごもごテンパっているのを肯定とみなしたのか、岸谷くんは無言で自分の消しゴムを隣の挙動不審な女に突き出した。
「あ、りがとう…。」
灯は両手でそれを受け取りながら、目を点にしている。
岸谷くんはいつのまにか何事もなかったように黒板を見つめていた。
ただ、眉間のシワはそのままで、酷く不機嫌そうだ。
「……。」
灯は机の上に乗せた"岸谷くんの消しゴム"をツンツンと指でつついてみる。
びっくりするぐらい素朴な四角くて白い消しゴム。
「………。」
コロコロ…
コロコロコロ…
「(…ふふ、)」
灯は目の前にあった理科のノートの端に、カリカリと記入し始めた。
"岸谷くん"
"字上手い"
"足無駄に長い。"
"眉間にシワ"
"岸谷くんはイイヤツ"
灯はこっそり、ふふふん♪と上機嫌に微笑んだ。