第2章 鍛冶師と刀匠 2-1
表にある工房から、金床で鉄を打つ高い音が響いてくる。そして、家の裏手にある薪割り場からは薪を割る乾いた音が響いていた。
「…あと、十本も割れば十分か?」
正幸は日課である薪割りをしていた。薪割りとはずいぶんとアナログなことをやっていると思うだろうが、『かまどで炊くご飯はおいしい』という正満のこだわりなのだそうだ。それはそれとして。それ以外の理由もちゃんとある。
まずは体力づくりだ。ああ見えて、鍛冶という仕事は腕力だけでなく全身を使う。大きな金槌を振り下ろしたり、熱した鉄を炉から出したり、水で冷やしたり。炉で火を焚いているときは、もちろん周囲も暑くなるのでそれに耐えられるだけの体力が必要になる。
他にも、体幹のトレーニングと体全体の筋力アップにも一役買っている。薪を取って切り株の上に置き、斧を振り上げ振り下ろす。そして割れた薪を拾って、何本かを束にして積み上げる。言葉にすればこれだけだが、実際に作業すると足腰に限らず全身に負担がかかる。
正幸は今割った薪を拾い脇によけると、新たな薪を切り株の上に置く。そして斧を振りかぶったときだった。後ろの茂みからがさがさと何かが動く気配がした。斧を降ろし振り返ってみると、そこには先日珠子を追っていた熊のヤエ親子が顔を出していた。
「よう、ヤエ。今日はどうした、散歩か?…って言うか、もう動いて大丈夫か?」
ヤエ達がこのあたりまで降りてくるのは珍しくない。正確に言えば、正幸に会うために山から降りてくるのだが、それを知っているのはおそらく正幸だけだろう。
先日の後遺症がないか心配していた正幸だが、ここまで降りてくるだけの体力が戻っているようでひとまず安心といった顔をしている。
しばらく動かずにこちらを見ていたヤエだったが、その茂みからぐるぐると甘えるような声を出し、小熊が正幸の足下にまとわりついてくる。
「ちびすけも、どうしたよ?・・・そらよっと!」
あまりにも小熊がかまってほしそうだったので、斧を切り株に立てかけ抱き上げた。そうすると、小熊もうれしかったのか正幸の顔をぺろぺろとなめてきた。
「こら、やめろって。くすぐったいじゃないか。……そういえば、お前の名前まだ決めてなかったな。なんてのがいいかな?ヤエ、もうこの子の名前決まってるのか」
問いかけてみるが、肝心のヤエの姿が見えない。
「? ヤエ」
今度は向かって左側の茂みから、がさがさと音がした。そちらを見やれば、ヤエが頭を薮に突っ込んで何かしている。覗き込んでみると、そこには大きな朴の葉の上に、魚やら木の実がたくさん載せられていた。
「どうしたんだこんなにたくさん。これだけ集めるのは大変だったろうに」
小脇に小熊を抱えたままヤエの耳の後ろあたりをぐりぐりと掻き撫でる。ヤエはここを撫でられるのが気持ちいいのか、ゴロゴロとのどを鳴らしている。かと思うと、今度は正幸のほうに向かって何やら言いたげな視線を向ける。
「・・・ん。そうか、この間のお礼か。まったく、お前が悪いわけでもないのに。でも、ありがとな。みんなでいただくよ」
ヤエは少しの間、正幸の胸に頭をこすりつけて首のあたりをなでてもらっていたが、不意に小熊に向かって短く鳴いた。おとなしいと思っていた小熊は正幸の腕に抱えられたまま眠っていたようで、目を覚ますと小さな口を精一杯開けてあくびをした。小熊を地面に下ろすとヤエに向かってとことこと歩いていく。
「気をつけて帰るんだぞ。今度来るときには美味いもの準備しておくからな」
森に向かって行くヤエは、首だけをこちらに向けキュウと短く鳴いただけで振り返りはしなかった。
「・・・さて、そろそろいいかな?」
正幸はヤエたちが自分から離れた頃合を見計らって、腰に下げていたポーチをまさぐり小さな革製の筒のようなものを取り出す。どうやら革でできた鞘のようだ。そして、ヤエの置いて行った『お土産』に近づくと鞘の留め金をはずし蓋を開いた。すると中からフルーツナイフよりもさらに二回りほど小さい小刀が出てきた。それを魚などが乗っている葉っぱの上に置くと、手を顔の前で合わせ何やらぶつぶつ言い始める。小さな声で紡がれるそれは、どうやら何かの呪いのようだ。唱えながら今度は左手を先ほどの小刀の上にかざした。
「……冷刀'雪華’発!」
瞬間、わずかに刀身が青白く光ったように見えた。いや、実際のところ仄かにではあるが刀身の光が青く揺らいでいるように見える。
正幸は雪華と呼んだ小刀を魚の上に乗せると、木の実をポーチから出した袋に入れ、残った魚だけを葉で包んだ。その包んだ魚もまとめて袋に入れて背負子の脇に置いた。
「残りを片付けたら、一度帰らないとな。みんな喜ぶぞ。…そういえば、ちびすけの名前は…まあ、今度でいいか」
そういって、薪割りを再開した正幸の顔は晴々としていた。
「ただいま。ってあれ、まだ母さんだけか。親父たちはまだ工房?」
勝手口から入ってきた正幸を出迎えたのは、代志乃だけであった。時刻は十一時二十五分。雅が食事の手伝いに来ていてもおかしくない時間である。
「お帰り、珠子ちゃんの取材がまだ終わってないみたいで戻ってないわよ。……あらどうしたのその包み。出かけるときは持ってなかったわよね?」
正幸が手に持った袋を見つけた代志乃は、準備の手を止める。幸いにも準備はまだ始まったばかりのようで、なべがひとつ火にかけられているだけだった。
「お土産。ヤエが椿さんを追っかけたお詫びにって持ってきた」
テーブルの上に袋を置き自分は流し台で手を洗っている。代志乃はというと熊のヤエからもらったという言葉を聞いてもさして驚くこともない。それどころか、『あらあら』などと喜びの声を上げている。
「まぁ、岩魚がこんなに。野いちごにグミの実もあるわね。おやつにタルトでも焼こうかしら」
魚の上に乗っていた小刀をテーブルに置くと、山となった食材を前に料理のレパートリーを浮かべている。こう見えて、代志乃はどんな料理も作れるらしい。本人いわく『中華にフランス、トルコ料理も作れるわよ』との事。実際に食べたことはないが、普段の料理がとてもおいしいのは皆が認める事実だった。さらに言うなら、正幸と雅はスナック菓子を買って食べた記憶がない。代志乃が専業主婦という事もあり、家に帰ってくれば何かしらお菓子が準備してあったからだ。それこそ、ポテトチップスからケーキまで。
「幸ちゃん、七厘持ってきて、炭は7分目くらいで。岩魚は塩焼きにしましょう!」
了解と手を挙げて外の物置に向かう正幸を見送って、代志乃はまな板の上の魚に目を向ける。
「それじゃ、下ごしらえしちゃいましょう」
楽しそうな鼻歌を歌いながら、手早く魚をさばいていく。腹を開いて内臓を出し塩を振っていく。一匹さばくのにおよそ1分。よどみなく動くその手はどこぞの有名店のシェフにも引けを取るまい。
「持ってきたぞ。準備できてる?」
5分と経たずに正幸が戻ってきた。七輪は外においてきたようで、台所の隅から種火に使う新聞紙を準備している。
「もうちょっと待ってね。今最後の一匹が…お~わりっ!」
塩を振っていた手を止め、最後の一匹を皿に乗せると、正幸に手渡した。
「それじゃ、よろしくね♪ 今日のは少し焦がしてくれる?良い具合に油が乗ってるみたいだから、おいしくなるわよ~」
そんな調子で昼食の準備が整っているとはつゆ知らず、珠子の取材は佳境に差し掛かっていた。
「…なるほど。焼き入れなどの火入れを行って鉄の強度を上げたり折れにくくしたりするんですね。しかも、火入れの方法はさまざまある、と」
「そういうことじゃ。まぁ、日本刀はほとんどが焼き入れじゃがな。ここから先はどちらかというと科学の領分かの。組成がどうたらとかいうことは正伸のほうが詳しいのでな。そっちに聞いてもらったほうが良いじゃろう」
そういって正伸のほうに目を向けるが、当の本人は照れたように頭を掻いているだけで肯定も否定もしていなかった。
「父さん、それじゃ教えるのか教えないのかわからないわよ!照れてないで、はっきりする!」
途端に背筋がしゃんとする正伸。しかし、すぐに元の猫背に戻ってしまう。
「雅もだんだんと母さんに似てきたなぁ、怒る時の声なんかそっくりだ」
「なにそれ、褒めてんの?それとも、呆れてるのかしら」
セリフの最後のほうには声に力が入っていた。変なこと言ったら、容赦しないという意気込みが感じられるほどに。
「もちろん褒めてるにきまってるじゃないか。母さんはいい女なんだから、お前もそうだって言ってるんだよ」
不意打ちに様なその言葉に、雅は一瞬固まった。しかし、すぐに我に返って
「何言ってんのよ、このスケベおやじ。娘に向かっていい女ってのは褒め言葉じゃないっての!」
口ではこう言っているものの、にやけ顔で声のトーンも先ほどより上がっていては説得力のかけらもない。正伸の背中をバンバン叩いているのもきっと照れ隠しだ。
「おいおい、雅や。それでは嬢ちゃんの取材が進まんじゃろうが」
呆れ顔で二人を制する正満だったが、母屋から漂ってくる香ばしい匂いにつられ、ついついこう提案してしまっていた。
「ともかくじゃ、どうやら昼飯の準備ができたようじゃからいったんここまでにして、続きは昼を食べてからとせんかのう」
その言葉がきっかけでもないだろうが、どこからかおなかの虫が聞こえてきた。
「…面目ない」
正伸が先ほどのように照れた笑みで頭を掻いていた。ともあれ、工房からはちょっとした笑い声の後、呆れ顔の面々が母屋に向かって歩いていくのだった。
2014.1.22 文言の間違いを訂正