第1章 刀と刀匠 3
和室を出て、向かったのはすぐ奥にある鍛冶場。正満たちの職場、つまり工房である。
ここにはさまざまな道具が置いてある。鉄を熱するふいごに鉄を打つ金槌、鉄を打つ時に置く金床や金箸などの一般的な道具がほとんどで特別な道具は見当たらない。いかに優れた職人であったとしても鍛冶においては特別な道具は必要ないということだろう。
そして、その奥。部屋の隅の方に刀を置く掛け台が置いてあり、そのすぐ上に神棚が祀ってある。おそらく打ちあがった刀をここに置き、神前に奉納するためでもあると思われるが今回はやや状況が違うようである。
珠子から預かった小刀を掛け台に置くと、正幸はその前に座りぶつぶつと呪文のようなものを唱え始めた。聞く者が聞けば祝詞だとすぐにわかるほどのものだが、あいにく珠子はそういった類の知識は持ち合わせていなかった。
「…清めたまえ、祓いたまえ。彼の刀に集まりし邪気を祓い清めたまえ…」
両の手を合わせ、一心不乱に祝詞を唱えている正幸。正伸に促されてその後ろで待つ珠子だったが、正直何が始まったのかいまだに理解できずにいた。
(刀を研ぐのってこんなに何か準備が必要なものなの?)
珠子の疑問ももっともだ。おそらく他の刀匠はここまでのことはしないだろう。これは、この刀を研ぐための準備であって他の物とは別物だった。
しばらくすると、正幸の祝詞も終わり小刀を手に振り向いた。
「これで、この刀に集まった邪気はほとんど取り除けた…などということはない。俺は祈祷師でも祓魔師でもないからな」
その言葉に珠子は大仰にずっこけた。それもそのはず、何か自分の知らないものが始まったのでは?と目をキラキラさせていただけになんだったのかという疑問が残る。
「さっきのは作業の前の儀式であって、まだ何も始まってはいない。とりあえず、ここをよく見てみろ」
そう言って指差したのは、刀の腹の部分。きれいな波紋が見えるはずの所が、薄い膜が貼ってあるかのように曇って見える。
「刀というものは、結局のところ刃物だ。包丁も使わずにいると刃の部分が曇ったりするように、刀にも同じことが言える。これを防ぐためには定期的に研ぐ必要がある」
そう言って正幸はすぐそばにある砥石の前に座ると、石と小刀の両方に少量の水を掛けた。そして石に刃を当てると、呼吸を整えていく。大きかった呼吸がだんだんと小さく、静かになっていく。呼吸が止まってしまったのではないかと錯覚するほどに小さくなったその瞬間、
シャン
どこからか居合の鞘鳴りにも似た高い音が響く。静寂がしばらくあったかと思うと、また同じように高い音が響く。また静かになり、また音が鳴る。最初に比べだんだんと音の間隔が早くなり、いつしか連続して音が鳴り続けるようになる。
珠子はいったい何が起こっているのかわからなかった。わかるのは音が正幸のほうから聞こえて来ているということだけ。そして正幸はというと、砥石と小刀を一心不乱に擦りあわせている。そう、この音は正幸が小刀を研ぐ音だった。
「これが刃物を研ぐ音?」
研ぎはずっと続くものではなかった。時々途切れては、また始まる。研いで、水をかける。その時だけは手を止めざるをえない。しかし、珠子はこんな音を聞いたことがなかった。
刃物を研ぐ音など、子供のころはよく聞いたものだった。母親が包丁を研ぐ音。幼いころに幾度となく聞いたことがあるそれは、こんな甲高く響く音ではなかった。
「正伸さん、これは本当に刃物を研ぐ音なんですか?やけに音が高い気がします」
我慢できず、珠子は正伸に尋ねていた。だが、それを予測していたのか、正伸はわずかに微笑んで答えてくれた。
「普通はこんな音は出ませんよ。もちろん私や父さんでもね。あれは、正幸だけの研ぎ方だよ。まぁ、本当はもっとすごいんだけどね」
信じられなかった。ただ刃物を研ぐだけで、こんなに違いがあるとは。しかも、正幸だけと正伸は言った。人間国宝に推される正満でもできないと。どれほどの技術を要するのか。そして、正幸はそれほどの技術を一体、何時どこで習得したのだろう。珠子は自分の中で取材したいことが次々に増えていくのを感じていた。
しばらく小刀を研ぐ音が続いていたかと思うと、おもむろに振り返った正幸は正伸に声をかけていた。
「親父、ホースを頼む。それから、固定する台と準備してくれ」
そういった正幸は汗だくだった。ただ、砥石の前に座って研いでいるだけなのに。それほど体力を使っていたようには見えなかったが、これが正幸だけの研ぎ方に由来するものなのか。
「正幸君、ちょっと聞いていい?」
正伸が準備をする間、すぐそばの棚に置いていた水を飲んで休憩している正幸に恐る恐る尋ねる。
「ん、なんだ?何が聞きたい」
作業中だったはずなのに、正幸は特に気にした様子もなく先を促した。
「えとね。さっき正伸さんに聞いたら、この高い音が響く研ぎ方って正幸君にしかできないって聞いたんだけどなんで?」
直球だった。気を使って他の所から徐々に話題を近づけることもできただろうが、そんなことは関係ないといった感じで珠子は聞きたいことを真直ぐに聞いていた。
正幸はきょとんとした後、突然笑い出した。何がそんなにおもしろかったのか、それとも笑いのツボにはまってしまったのかおなかを抱えてしばらく笑っていた。ぽかんとしていた珠子だったが、あまりにも笑い続けるものだから、ついには膨れて声を荒げていた。
「何がおかしいのよ!不思議に思ったから聞いたのに、そんなに笑うことないでしょ!…それとも、私はそんなに無知なことを聞いたの」
最後のほうはだんだんと声が小さくなっていた。自分の勉強不足で、もしかしたら常識的なことだったのだろうかと心配になったのだ。
「悪い悪い。別に変なことを聞いちゃいねえよ。俺の研ぎ方を見たら、当然不思議に思うだろう」
あまりに笑いすぎる正幸を正伸がいさめていたが、ようやく収まったところを見計らって答えるように促していた。よほどツボにはまったのだろう、目じりには涙が浮かんでいた。
「俺の研ぎ方は、他の人に比べるとスピードが速いんだ。何のことないそれだけなんだよ。いやな、今までこれを見た人は、なんだかおっかなびっくりと回りくどく聞くもんだからな。あんたみたいに馬鹿正直に聞いてくるのは初めてで、その豪胆さに感心していたんだよ。思わず笑ってしまうほどにな」
珠子にすれば不満だったろう。何せ馬鹿正直と言われたのだ。だがしかし、自分の心配していたような理由ではなくほっとしていたところもあった。
「それで、研ぐ速さだけであんなに違うの?」
そうだなあと、頭をかく正幸だったがとりあえず実演することにしたようだ。傍らにあった研ぎかけの包丁を手に取り、砥石に置いた。
「見てろ、これから研ぐのが一般的な研ぎ方」
そういって、水をかけた包丁をゆっくりと動かし刃先を研いでいく。これは先ほどのような音はせず、ごくごく普通な音に思えた。
「そして、これからがさっきの研ぎ方」
そういって正幸は呼吸を整えると、先ほどとは打って変わった真剣な目になった。瞬間、正幸の手が驚くほどの速さで動いた。わずか1秒の間に4往復。目にもとまらぬ速さとはこのことだろう。実際、珠子には手が動いていることはわかっても何をしているのか見えなかった。
「と、このくらい違うわけだ」
得意げに話す正幸の手には、先ほどとは打って変わって輝きを増した包丁があった。あれほどの短時間、時間にしてわずか一分ほどでここまできれいになるものだろうか。
「ちょいと説明しておこうかね」
今まで静かに正幸たちのことを見ていた正満が脇から顔を出す。
「お嬢ちゃん、刀鍛冶の仕事ってのはどこからどこまでか知っとるかの?」
刀鍛冶の仕事。よく考えてもらいたいのだが、刀鍛冶とはいったい何をする仕事なのか。そんなこと刀を打つことに決まっている。そう考えるだろう。それが正解。では、刀を打った後の手入れや、修理は誰が行うのだろうか。
「…刀を打つことから修理まで全般的に、でしょうか?」
珠子は自分の中にある知識を総動員して考えたが、この答えにしかたどり着けなかった。しかし、刀造りに関わる者以外にはおそらく共通する印象だろう。
「半分正解。半分はずれじゃ」
正満は顔の前で手の人差し指を立てチッチッチと左右に振る。いまどき見かけないようなしぐさだが、この人がやると妙になじんでいるというか様になっている。
「儂らの仕事は、玉鋼。つまり材料じゃな。材料を鍛えて刀を打つところまで。もちろん鍔や鞘なんかは準備したりするが、自分で作ったりすることは稀じゃな。同じ理由で普通の刀匠なら最後まで研いだりせんよ。研ぐのは専門家に任せるのが一般的じゃの」
通常、刀は打った後に研ぐ。これにはさまざまな理由があるが、一番の理由はやはり切れ味だろう。打ったばかりの刀は、刃は作られていてもそれほど切れ味がよいとは言えないだろう。研ぐことにより刃を整え、切れやすくする。この工程がある意味刀の最大の要と言っても過言ではない。
いくら打ち手がよくても研ぎ手の力が不足していてはどんな刀でもなまくらになってしまう。それほど研ぐということは重要なのだ。
「昔から、一流の刀鍛冶には一流の研ぎ師が相方としておったもんじゃ。最近は機械化が進んで儂らのような職人は少なくなっておるからの。それに芸術としての刀の価値は上がっておるが、実用品としてはほとんど使われんようになってきておる。研ぎ師も少なくなっておるんじゃよ」
時代の移り変わりによるものだろうが、聞いていると何となくさびしくなる。そんなことを考えていたせいか珠子の表情がわずかに曇っていた。
「まぁ、うちには関係ないがの。何せ基本的にすべて自前でやってしまうからの」
「・・・・・・え?」
珠子は自分の耳を疑った。たった今、刀鍛冶は刀を打つまでが仕事だと言われたばかりだ。それを正満は一言でひっくり返してしまった。確かに普通の刀匠は最後まで研ぐことはしないと言っていたが、ということは正満は自分で研ぐことまでやるということだろうか。いや、正満は『うち』はと言っていた。それは正幸がいるからということを指しているのか、それとも正伸や正満も研ぐところまで自分でするということなのか。
珠子はすっかり混乱していた。ともすれば頭から煙が出ていそうな混乱ぶりを、正満は豪快に笑い飛ばした。
「そう難しく考えなさんな。つまり村田の家の刀鍛冶は材料の調達から、研ぎどころか最後の拵えまでやって刀を完成させる。一人で全ての工程をやってのけるというわけじゃよ」
つまり先ほどの問いの答えは、後者というわけだ。
一族で刀鍛冶をしている家も珍しいのに、さらに材料から仕上げまですべてこなす職人など捜したところでそう居ないだろう。いたとしても、それはどこか酔狂じみたものに見えてしまう気がしてならない。
しかし、正満たちにはそう思わせない何かがあった。代々受け継がれてきた技ゆえか、それに付随する自信の表れか。いずれにしても、直接対峙すれば本物だとわかる雰囲気をまとっている。
「正幸、準備終わったよ。いつもみたいにやりすぎないようにね。今日はお客さんがいるんだから」
今まで砥石の周りで色々と準備していた正伸から声がかかる。
「わかってるよ、親父。そもそも太刀ならともかく小刀ならそんなに大げさなものにもならないって」
小刀なら、と正幸は言った。いつもは小刀ではなく普通の刀を研いでいるということだろう。しかも、先ほどのような研ぎ方でということになる。
「それじゃ、少し離れてくれるか。ここからは少し激しく……いや、やっぱり。せっかくだから手伝ってもらおうか?なぁ、椿さん」
「…はい?」
離れるように言われ、正幸から距離をとっていた珠子は突然ふられた話にきょとんとしていた。手伝う?何を?そもそもなんで?
色々な疑問が頭の中を飛び交う中、正幸は別段緊張するでもなく普通に見えた。正伸や正満も『そうだな』などと頷いている。何がどうなっているのか混乱が頂点に達しているとき、
「なに、難しいことは何もないから心配するな」
追い打ちをかけるように正幸が呟く。その呟きに頭が真っ白になってしまった珠子は、こくりと頷いてしまうのだった。
 




