表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/26

プロローグ

「ニャーッ!」

 突如響いてきた悲鳴に青年は手をとめた。Tシャツにジャージ姿で、手には木刀を持ち頭にはタオルをかぶっている。額にはうっすらと汗がにじんでいるが陽気のせいか、それとも今まで剣の稽古をしていたせいだろうか。

(こんな山の中で叫び声を上げるような人間は近くにはいないはずだが)

と、疑問に思い周囲を見回す。聞こえてきた特徴から推察するに、声の主は若い女かはたまた猫か。方角から考えるとそう遠くないところからのようだが。

 うーん?と首をひねったものの、自分を納得させるようにひとつ頷くと何事もなかったように木刀を構えなおした。目を閉じ呼吸を整え、自分の気配を薄く広く辺り一面に溶け込ませていく。呼吸がだんだんとゆっくり静かになり、周囲に溶け込んだような印象さえ受ける。まさに”自然体”と呼ぶにふさわしい立ち姿だ。

「ギャォォゥ!」

 今度聞こえてきたのは、獣の叫び声だった。しかし、今度はぴくりとも反応しない。それもそのはず。ここは山奥にある薪割り場なのである。熊や鹿などの野生動物が出てくるのは日常茶飯事だ。しかし今日はいつもと少し様子が違った。

 (にわ)かに山が騒がしくなり周囲にいた鳥や小動物が何かから逃げる気配が伝わってくる。いったい何があったのかと目を開いたのも束の間、背後の茂みより物音が響く。

 警戒しながら振り返ってみると影が勢いよく飛び出して来た。反射的に木刀を振り上げるが、その正体を見るや構えた木刀を逆手に持ち直し腰を落として衝撃に備える。勢いあまって飛びかかる様に出てきたのは若い女性だった。

「危ない!避けてー!」

 定番のセリフをわめきながら突進してくる。が、彼はひとつため息をついて避けようともしない。

(なんでこいつは避けないのよーっ!)

 もうだめだと思った女性はギュッと目をつぶり衝撃が来るのを待った。しかし、いつまでたっても激突の衝撃などなく。ふわりと体が浮いたような感覚が彼女を襲い、そしてすぐお尻にひやりとした土の感触があった。恐る恐る(まぶた)を開くと、先ほど一瞬だけ見えた男性の前に座り込んでいた。

 それは一瞬の出来事だった。飛び出してきた女性の勢いはそのままに、まるで放り投げるようにその体を持ち上げる。その時わずかに体が浮かんだように見えたが、それもつかの間。すぐ地面に座らせたのだ。

(さっきの悲鳴はこいつか?)

 男は状況から推測して、先ほどの悲鳴の原因と思われる女性をまじまじと見ていると、ぽかんと間抜け面をさらしていた女性は状況を思い出したのか早口にまくし立てた。

「助けて!熊に追われていて、すぐそこまで来ているの。あなたこの近所の人?何とかしてよ!」

 勝手な言い分である。よくよく見れば顔立ちは整っていて栗色の長い髪を肩のあたりでまとめている。そこそこ美人と言っていいだろう。服装はトレッキング用のブーツにカジュアルなジーンズと清潔感を感じさせる白のブラウス。それらとは若干不釣り合いな迷彩のジャケットを羽織っている。靴とジャケット以外はいわゆる普段着のようだ。背負ったリュックには大した荷物は入っていないようだが、腕に抱えたボストンバッグはずいぶんと膨らんでいる。登山に来たにしては妙に軽装で、不釣り合いな格好に思える。

「まあそんなに慌てるな。『今の』俺の周りには動物も寄って来ないから安心しろ。とりあえず、事情を聞こうか」

「事情も何も!とにかく熊よ、熊!すぐそこまで来てる……って寄ってこない?」

 熊が出たと言っているにもかかわらず、この落ち着きようはいかにしたものか。いくら地元民とはいえ落ち着き過ぎているように思える。それに近寄ってこないとはどういうことだろう。動物除けの何かを使っているのだろうか。確かにさっきまで後ろを追いかけてきていたはずの熊の姿はまだ見えていないが。

「ちょっ…」

「待った」

 何か言いかける女を手で静止すると、青年は森の方をうかがった。風の中にかすかに混じる動物の呼吸音と特有のにおい。どうやら臨戦態勢でこちらの様子を伺っているようだ。木刀を構えるでもなく森の一点を見据えていると、熊がゆっくりと姿を現した。

「ねぇ、ちょっと。ねえったら」

 後ろからシャツの裾を引っ張る女の顔は真っ青だった。青年はわずかに熊から視線を外すと少し離れた茂みを指差してすぐ向き直った。その間にも襲われるのではないかと恐怖に顔を引きつらせていた女性だったが、彼が向き直ると示された茂みに飛び込むように身を隠した。

 彼はといえば熊と対峙はしたものの特に手の中の獲物を構えるでもなく、ゆらりと佇んでいる。

「また厄介なモノを…」

顔をしかめてつぶやいたかと思うと、木刀を持たない手から何かを熊の方に向けてはじいた…様に見えた。束の間、ピシリと何かがひび割れるような音を聞いた気がした。だが熊に何か当たったような様子もなく付近にも何も落ちていない。不思議に思って見ていると、また何かをはじくように手が動いた。先ほど同様に何も変化は無いように見える。しかし、今度はパンと乾いた音が響いた気がした。そして、何かが割れて霧散するようなそんな不思議な気配。だがやはり、辺りには何も落ちてはいなかった。

 が、驚いたことに変化は思いもしないところに現れた。先ほどまで熊が放っていた獰猛な気配がどこへいったのか、きれいになくなっている。女を追っていたときは確かに獲物を狩る捕食者のそれだった瞳には、今はどこか安堵の光が見える。青年と対峙して徐々に落ち着いていったようだがいったい何をしたのか。

 思考を巡らせる間にも彼はすっと熊に近づいていく。特に警戒されることもなく、むしろどこか歓迎されているような雰囲気がある。

「よーし、よし。急に知らない匂いが近づいてきたからびっくりしたんだよな。近くに子供もいたんだろう、母親として何とかしようとしたんだよな」

 慣れた仕草で熊の頭をなでる。それを嬉しがっているようで目を細めてどこか甘えた表情にも見える。そんな時、茂みからがさがさと何かが出てきた。目の前にいるものよりふた回りは小さい熊だった。短い手足でちょこちょこと青年に寄って行って足にしがみつく。まるで自分も遊んでと言っているように。

「うそでしょ…」

 茂みから様子を伺う女性には目の前の光景が信じられなかった。小熊を見たときはかわいいと思ったものの、つい先ほどまで自分を追いかけていたあの熊が、まるで子供のようにじゃれついているのである。一体この男は何者なのだろうか。疑問は次々湧いてくるが答えなど出るはずもなく、一通りじゃれ付いた熊の親子は名残惜しそうにしながらも、山の中へ帰っていった。それを見送る彼ものんきに手など振っている。先ほどの緊迫した空気が嘘のようだ。

「ちょ…ねぇ、どういうこと。あの熊どうしたのよ、私を追ってるときはあんなに殺気むき出しだったのに。というか、あんたなんであんなに熊と仲いいのよ。そもそもあんた何者よ!」

 隠れていた茂みから出てきたと思えばつかつかと近寄ってきて、挙句に至近距離で質問攻めのおまけまでついてくる。しかし彼はわずかにかがむと素早く彼女の脇をすり抜け背後に回りこんだ。

「へ……?」

 再び口をあんぐりと開けて間抜け面をさらして呆ける。彼女の目には眼前にいたはずの男が突然消えたように見えた。

 離れて見ていれば、何のことはないただ回り込んだだけなのだが、そう感じられたのだ。いったい彼女は何を見たのか、はたまた何も見えなかったのか。

「そんな質問に答える義理はないんだが…」

 突如発せられた声に女は、びくりと体を震わせて振り向いた。少々ぎこちない動きで。

「どうしたもこうしたも、さっき聞いていた通りだ。あんたがあの熊の親子のテリトリーに入った。母熊のほうは知らない匂いに敏感に反応し子供を守ろうとした。だからあんたを威嚇した」

 青年は淡々と説明する。別にたいそうなことではなく、母熊の防衛行動だと。

「俺があの親子と仲がいいのは、昔からのなじみだからな。子供の頃から良く知っている。最後の質問だが、これを聞くならまずあんたが名乗るべきではないか」

 義理はないと言いつつもしっかり答えるあたり、生真面目なのかただのお人好しか。おそらくは両方なのだろう。しかも、礼儀を重んじるあたり育ちのよさをうかがわせる。

「えーと、そうね。自己紹介はするべきね。うん」

 虚を突かれた行動で多少は頭が冷えたのか、彼女は自分で自分に言い聞かせるように言うと一人で納得している。そして、先ほどの礼のつもりか手を差し出しながら名乗った。

「私は椿(つばき)珠子(たまこ)。こう見えて雑誌記者をしているわ。いろいろとごめんなさいね、助けてもらったのにお礼も言わずに。改めてありがとう、危ないところを助けてくれて」

「別に礼には及ばない。俺は村田(むらた)正幸(まさゆき)。この近くの鍛冶場で鍛冶見習いをしている」

 青年はは握手をしながらそう答えた。

朴訥(ぼくとつ)なところはあるけど真面目でいい奴じゃない。……ん?)

 珠子は彼の自己紹介を聞いて引っかかるものがあったのか頭上に疑問符を掲げている。かと思いきや突然まじまじと顔を覗き込んで来る。それこそ、吐息のかかる距離で。

「どうした。何か俺の顔についてるか?」

 青年が居心地が悪そうにつぶやくと、はっとして慌てて離れる。そして背負っていたリュックを肩から落とし、中をごそごそやっていたと思ったら出てきたのは手帳とICレコーダーとカメラだった。そして、数回深呼吸をすると。

「改めまして。月刊マエストロの記者をしています、椿珠子と申します。今日はあなた、『村田正幸さん』にお話を伺いに参りました」

と、頭を下げた。

「は…?」

 これには驚いたのか、正幸もあっけに取られるしかなかった。内心穏やかではないようで眉根が寄っている。

「今日からしばらくよろしくね♪」

 彼女は顔を上げるといたずらっぽくウィンクをして見せるのだった。

「いやいや、しばらくって何だよ。取材なら話を聞いて終わりじゃないのか?と言うか取材ってなんだよ!」

 そう考えるのは至極当然だろう。こんな山奥に、しかもよりによって刀鍛冶の取材など。さらに言えば自分はまだ見習いだというのに、というところまで考えて思い当たることでもあったのか頭を抱えた。

 そう、自分は見習いの身。しかも鍛冶の師は祖父と父である。祖父はともかく父のほうは人がいいというか、頼まれたことにはよほどのことがない限りうなずいてしまう。まぁ母に言わせれば、

「その心の広いところがいいんじゃない。ゆきちゃんもわかってないわね〜」

 との事。両親の仲がいいのは良いことだとは思うが、自分の前でいちゃつくのは遠慮願いたい。それとあの呼び方も。ともかく、そんな人の良い父が雑誌の取材など断るはずもなく、師である父の言うことを正幸は聞かないわけにはいかないのだ。

「そもそもだ。何で刀鍛冶なんだ、しかもじい様や親父じゃなくて俺の取材ってどういうことだ?」

 近くの切り株に腰を下ろし、天を仰ぐ。とりあえず話を聞かないことにはどうにもならないと判断したようで、彼女のほうへ向き直った。

「話せば長いようで、まぁそこそこだからちょっと聞いとく?」

 先ほどとは違い、ずいぶん軽いノリで話をする。これがこの(むすめ)本来の性格なのだろうか。さっきの今でずいぶんと切り替えが早い。雑誌記者は神経が図太くないとやっていけないものなのか?とか考えていると、無言を肯定と取ったのかつらつらと話し始めるのだった。


「刀匠?」

 珠子は編集長の言葉を聞いて作業していた手を止めた。パソコンの画面には某検索サイトと書きかけの記事が映し出され、そのモニターの周りには付箋(ふせん)がべたべた貼られている。

 ここは東京のとあるビルの1室。珠子が勤める出版社の第2記者室である。そんなに広い部屋ではないが編集長とそのほかに4つのデスクがある。まわりを見渡してみてもお世辞にも綺麗とは言いがたい。部屋の大部分を占領しているのは専門的な資料の山である。どうやらこの第2記者室は様々なジャンルに特化した雑誌を作っているようだ。

「そう、刀匠。最近、片田舎の村田さんって言う刀鍛冶が話題でね。頑固な昔気質(かたぎ)の職人さんで打つ刀がすごいんだと。その腕を見込まれて人間国宝にって話も出たんだが、くだらないと一蹴したらしい」

 プリントアウトしたメールを差し出しながら、おおよその内容を語った編集長はYシャツにスラックスという出で立ちだがベルトではなくサスペンダーを使用している。丸メガネをかけた中肉中背の何処にでもいそうな中年の男性だ。

 彼女は受け取ったメールの内容をぱらぱらと見ていると、ある一文に気がついて編集長に向き直った。

「今回は、こっちのおじいさんじゃなくてお孫さんのほうですか?」

 と資料の一点を指さしている。そこに書かれていたのは一家の家族構成だった。一番上にあったのが人間国宝候補の当代当主村田正満(まさみつ)。ある程度の基本情報が載っているだけだが、その下に次代当主とその奥さん。さらに孫のことまで書かれていた。メールの内容から見ればその村田家は親子孫3代とも刀鍛冶ということになる。もっとも当代以外は詳細な情報はなく次代の当主の名前は正伸(まさのぶ)、職業は刀鍛冶。孫の名前は正幸、職業は鍛冶見習い。と簡単な経歴と写真が載っているだけだった。そして珠子が正幸の写真を指さしていた理由は、雑誌で連載している企画の打ち合わせの最中だったからである。

 編集長はデスクにおいてあったカップを取りながら向き直って。

「そう、メインは孫の正幸君の方。でも、もちろんおじいさんの正満さん達のほうも取材してきてよ。今回は「今月のイケメン職人」と「今を生きる職人の技」の2つの取材ね。先方には私から連絡を入れておいたから、よろしくね」

 えぇ〜と不満そうに頬を膨らませて抗議する珠子だったが、編集長は素知(そし)らぬ顔で窓の外を見ながらコーヒーを(すす)っている。そして何かを思い出したのかおもむろに振り返り、重大なことを言い出した。

「そうそう忘れてたよ。カメラマンの新田君ね。お姉さんが今度結婚するから家族の顔合わせやらなんやらで1週間くらい休むって。椿君、今回は写真も君に任せるから。昔は写真も自分でやってたんだし、大丈夫だよね?」

 なんてことを言いだした。さすがにこれには珠子も唖然として開いた口がふさがらなかった。


 かくして珠子はここ、三重県の山奥まで取材に来たというわけである。熊に襲われるという災難はあったものの、助けてくれたのが取材するその人だったというのはラッキーだった。彼女は簡単に事の経緯を説明し終えると、

「とりあえず、迷ってしまったので道案内お願いできる?」

と、工房までの道案内を頼んだのだった。

「しかし、取材とはいえ物好きもいたもんだな。なんていったっけ、あんたの書いてる雑誌。えーと、月刊…」

「マエストロ。「月刊マエストロ」よ。マエストロってイタリア語で芸術家や専門家って意味があるの。英語で言えばプロフェッショナルってところね」

 得意げに言ってリュックから先月号を取り出す。なかなかこった表紙で、そこに写っているのはカウンターとその中でグラスを磨くバーテンダーだった。

「先月の特集がカフェのマスターでね、都内のカフェを何軒かまわって取材したの。その時はおいしいコーヒーやピザトーストとかパフェとか、とにかく楽しかったわね。飲食業の取材はおいしいものが食べられて得した気分。あぁ、でも別にそれ以外の取材が嫌ってわけじゃないから安心してね」

 全然安心できなかった。そもそも何に安心するべきなのか。第一、この件に関して正幸は何も聞かされていない。父親である正伸から「今日はお客さんが来るから早く帰ってくるように」と言われてはいたが、雑誌の取材だとは一言も聞いていない。

(親父の奴、わざと黙ってやがったな。取材されるのが俺だってわかってたら絶対逃げてたしな)

 内心複雑な思いを抱えつつも、饒舌(じょうぜつ)になった珠子の話を聞き流す。とりあえず、山の中においていくわけにもいかず道案内は承諾したのだった。もちろん彼女の荷物も正幸が持っている。

「ひとつ言っておく。親父がなんて言うか知らないが、あまり期待しないほうがいい。俺はこんなだからたいした話もないし絵にもならない」

 釘はさしておくに越したことはない。そう思いそんなことを言ってみるが、興味は彼の持っている木刀のほうに注がれていた。

「ねぇねぇ、何で木刀?あなたは鍛冶師見習いじゃないの?それとも何か別の理由?」

 こっちの話なんてまるで聞く耳を持っていない。記者とはこんな生き物なのか、ただ単にこの女記者の性格か。いずれにしろ話はここで一旦終わりだった。

「正幸、お帰り。お疲れ様。ところで今朝話したお客さんなんだが、約束の時間から1時間も過ぎているのにまだ到着されないんだ。何か知らないかい?」

 のんびりしたしゃべりだが、その声色からは緊張がにじんでいる。家の門の前まで出てお客さんの心配をしているやさしそうな人が次代当主、つまり正幸の父の正伸だ。メガネの下に見える目は細く、しかし若干童顔なためか柔和な印象を与える。先ほどまで工房にいたのだろう、作業用の作業衣に頭には手ぬぐいを巻いている。正幸にも言えることだが鍛冶師にありがちな片腕だけ太いという事はなく、均整の取れた必要最低限の筋肉がついている。

「そう慌てんな、親父。お客さんならほら」

と、後ろを指差し(くだん)の女記者を前に出す。

「連絡もせずに遅くなってしまって申し訳ありません。月間マエストロより取材にお伺いしました、椿珠子です。先に社の編集長よりお話はあったと思いますが、本日より数日間よろしくお願いします!」

 切り替えはさすがというべきか、社会人としては申し分ない挨拶に思えるが…遅刻して連絡もせず、あまつさえその身なり。珠子自身は気づいていないが、なかなかにひどい有様だった。山の中を熊に追われて逃げ回ったのだから仕方ないとはいえ、それを指摘しない正幸も正幸か。

「あ、ああ…無事で何よりです。それよりも、どうしたんですかその格好は?あちこち泥だらけのようですが」

 言われて改めて珠子は自分の身なりを見直した。見る見るうちに火が出そうな勢いで顔が真っ赤になっていく。

「それは熊に追われて山の中を駆けずり回ったからだろう。裏手の近くにヤエの家族がいるだろう、あのあたりを通って追っかけられたみたいだ」

 正幸は珠子の傍らに荷物を置きながらしれっと状況を分析して説明する。しかし、それを聞いて正伸はあきれていた。

「正幸、お前はもう少し他人に気を使ったほうがいいよ。そうじゃないと、良い人なんて見つからないんだからね」

 ため息をつきながらたしなめるもどこかあきらめた感が言葉の端からにじんでいる。当の正幸は明後日のほうを向いている。おそらくこちらには見えないように舌でも出しているのだろう。まもなく25歳になるというのに、子供じみた行動ばかりでまるでやんちゃ坊主だ。

「余計なお世話だよ、親父。それに俺はまだ身を固める気なんてないしな。それじゃ、後は頼んだよ。気づいてるとは思うけど、ちょっと厄介かもしれない」

 言うが早いか正幸は家の中に消えていった、最後に妙な一言を残して。奇妙な空気の中に取り残される二人だったが、正伸はため息をひとつついて珠子のほうに向き直った。

「全く、困ったせがれで申し訳ない」

 と頭を下げる。珠子もそれに釣られて、いえいえなどといいながらお辞儀をしていた。

「それはともかくとして、取材の前に汗を流されてはいかがですか?我が家はこの近くの温泉から湯を引いていましてね、せっかくですから道中の疲れを癒されるとよいでしょう」

「本当ですか!?温泉なんてしばらくぶり……あ」

 よほど嬉しかったのか思わず本音が出た。しまったという感じで笑顔を引きつらせながら数歩下がると、珠子はこちらに背を向けてしまった。なにやらぶつぶつ言っているように聞こえるが、くるりと振り返り満面の笑みを向けている。

「こほん。お心遣いありがとうございます。せっかくですのでご好意に甘えさせていただきたいと思います」

 正伸は思わず吹き出しそうになったが、あわやのところで何とかこらえた。そして、懐から小さな袋を取り出して中身を手のひらに出して見せた。

「それは、なんですか?」

 不思議そうな顔をして覗き込む珠子。

「これは清めの塩です。ここは刀を打つ場所として清められた場所なんです。なので敷地の外から来られた方には、こうして清めてからお入りいただいています」

 ちょっと失礼と断ると、正伸は珠子に塩を振りかけていく。清めの後、珠子は一生懸命にメモを取っていたが正伸に促され一緒に家の中へ入っていった。彼女が現れてからここまで微笑を絶やさなかった正伸だが、しばらくぶりの来客に喜んでいたのだ。

(しばらくはにぎやかになりそうですね)

などと内心で楽しみが増えたことを歓迎しながら。


 純和風の大きなお屋敷は茶の間に応接間に仏間にといくつもの部屋があった。さすがというべきか、欄間(らんま)には細やかな彫刻が彫られ(ふすま)には質素ながらも鮮やかな装飾が施されている。珍しいものを見るようにきょろきょろしていると

「古い家だから、若い人には珍しいでしょう。広いばっかりで何にもないところですがゆっくりくつろいでくださいね」

 と、正伸はのんびりと歓迎した。珠子はなんだか恥ずかしいようなこそばゆいような、不思議な感覚を味わっていた。しばらく行くと客間らしき部屋に通された。

「椿さんはしばらく滞在されるということだったので、部屋を用意しておきました。少し小さいですが自分の部屋だと思って自由に使ってくださいね」

 小さいなんてとんでもなかった。客間としては十分広い十畳間に、隅の方には布団と物書き台らしきものが置いてある。そして押入れには棚が備え付けられており収納も十分だった。

「これはなんですか?」

 珠子が指差す先には押入れの中にあるかごと呼ぶには少々大きい箱のようなものがある。

「それは葛篭(つづら)といいます。タンスのようなものです。そこに着替えなどの衣類を入れておくんですよ。中に浴衣やタオルを準備していますので使ってくださいね。それから、何かあったら声をかけてください。私か妻がいると思いますので」

 何から何まで準備万端整えられていた。温泉もあってここは旅館かと錯覚するほどだ。正伸は風呂の場所を告げると支度があるからと家の奥へと消えていった。

「……疲れた〜。それにしてもまさか車で来られたとはね。盲点だったわ」

 珠子は座布団を枕代わりにどさっと倒れこむ。そして、ここまでの道中を思い出しどっと疲れが出るのを感じていた。というのも、山の中にある工房ということで歩いて登らなければならないと思い込んでいたのである。

 そのため、登山道から入り「村田鍛冶」の看板を見つけたまでは良かったものだが、わずかに道を外れて迷ってしまったのである。たまたま正幸に出会ったからよかったようなものの、そうでなければ遭難していたかあるいは熊に襲われていたことだろう。そこまで思い至って体に震えが走った。

「危ないところだったんだよね、ほんと。ちゃんと下調べはしないといけないわね。駅から車で40分しかかからないなんて、始発じゃなくてもよかったわ。……さて、それじゃ」

 起き上がり押入れの葛篭から浴衣を取り出した。汚れた服を脱ぎ着替えてタオルを取り出すと、部屋を出て風呂へと向かっていった。鼻歌など歌って気分はまさに温泉旅館そのものである。こんな大きなお屋敷だから使用人の一人や二人はいるかと思ったのだが、風呂につくまでの間、誰とも会うことはなかった。

「この家、ほとんど人がいないのかしら?」

 などとつぶやきながら、脱衣所と書かれた暖簾(のれん)をくぐる。そこで目に飛び込んできたのはまさに温泉の大浴場と見まごうばかりの光景だった。

 中は洗面台が3つもありドライヤーや(くし)などが準備されている。反対側の壁には棚が備え付けられ、衣服を入れるかごが準備されている。部屋の隅には体重計やマッサージチェアがあったりと(いた)れり()くせりだ。

「……本当にこれ、個人の家のお風呂?」

 疑問があるのも無理はない。だがそれはそれらしく、珠子は手前の棚から(かご)を出してきて衣服を脱いでは入れていく。服の上からではわかりにくかったが結構出るところは出て、締まるところは締まっているようだ。よほど楽しみだったのか服をすべて脱ぎ終わると、籠からタオルを取り出してスキップでもしそうな足取りで風呂に向かっていった。今度は温泉と書かれた暖簾のかかる(個人宅でここまで凝るのも珍しい)戸口に手をかけようとしたところで、勝手に引き戸が開いていった。

「……え?」

 まさか個人の家に自動ドア?なんて事も一瞬考えたがそうではなかった。戸口の向こう、湯気がかかって見えにくいが誰か立っている。その誰かは暖簾に視界を遮られているようでこちらには気づいていないようだったが、脱衣所に入るとその視界にすらりと伸びた足を見つけ顔を上げた。

「なんだ、あんたか。いい湯加減だったぞ、ゆっくり入ると良い」

 なんて言葉をかけた。ぽかんと聞いていた珠子だったがお互いの姿を確認するや顔を真っ赤にした。ほどなく、山には悲鳴とパシーンという何かをひっぱたく力強い音が響いたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ