消えた二人
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
わずかに山際の空に赤みが差し始めた頃。
レオニードは荷袋を持ち、街の広場から南に外れた市場へと向かった。
夕食の材料を買い込む女たちで賑わう中、一点を見据えたまま黙々と歩いて行く。
周りを見ずとも、行き交う人たちが好奇の視線を投げかけているのが分かる。
この時間帯に、市場で働く以外の若者が歩き回ることが物珍しいのだろう。
みなもと出会う前までは男性ばかりに囲まれ、戦に備えて鍛錬を続ける生活を送っていた。それだけに、こんな場所へ一人で来る機会がなかった。
別に後ろめたいことはないのに、気分が落ち着かない。早く目的を果たして家へ帰りたかった。
市場の中ほどまで進み、レオニードは右側に伸びる細い路地へと入る。まだ昼間だというのに薄暗い。
しばらく歩いていくと、突き当りに一件の店があった。
出入りする扉の斜め上に、灯りの点いた小さなランプがかかっている。これがなければ、店が開いているのか閉まっているのか判断がつかない。
レオニードが扉を開けると、甘いような、少し埃っぽいような、土臭いような……色々と混じり合った匂いがする。
薬草を扱う店ならではの独特な匂い。以前はこの匂いに顔をしかめていたが、今では慣れてしまい、むしろ心が落ち着いてしまう。
店内には様々な薬草が瓶詰めされた物が、棚へきれいに陳列されている。
ダットの町を訪れた際に立ち寄った店と比べると品数は少ない。その分、店内の手入れが行き届き、清潔感が漂っていた。
カウンターに人の姿はなかったが、奥でゴソゴソと誰かが動く気配があった。
しばらくして、奥から若い男が頭を掻きながら現れた。
「いらっしゃい……ん? なんだ、レオニードか」
こちらの顔を見た途端、彼の顔から力が抜けた。
この小柄でボサボサ頭の青年は顔見知りだった。
自分とはさほど親しくはないが、彼はボリスの幼なじみで、子供の頃は何度か一緒に遊んだこともある。
そんな彼が街一番の薬草店の主だと知ったのは、つい最近――作った薬を卸しにこの店へ来て、初めてわかったことだった。
レオニードは青年の前に立つと、腰に下げていた皮袋から小瓶に入った粉薬をいくつか取り出し、カウンターの上に置いた。
「頼まれていた薬を持って来た。納めてくれ」
「おっ、ありがとさん。早い仕事で助かるよ」
青年は笑みを浮かべると、その場へしゃがみ、カウンター下をまさぐり始める。
チャリチャリと硬貨のこすれ合う音を鳴らしながら、彼は話を続ける。
「みんな建国祭になると、浮かれてハメを外すからな。だから祭りの次の日は、二日酔いの薬がよく売れるんだ」
確かに建国祭になると、ここぞとばかりに酒をあおる人間が大勢出てくる。
……去年も、その前の年も、酔い潰れた仲間たちの介抱をしていたことを思い出し、レオニードは小さく息をついた。
鈍い動きで立ち上がり、青年は「また頼むよ」と小瓶と同じ個数の銀貨を差し出した。
レオニードが受け取ってすぐに皮袋へ入れていると、青年が薄く笑いながら生温かい視線で見つめてきた。
「どうしたんだ? 言いたいことがあったら言ってくれ」
「いやー、まさかレオニードと取り引きする日が来るなんて、と思ってさ」
からかうように青年が肩をすくめる。
「だってお前が兵士を辞めたなんて、未だに信じられないんだよ。マクシム様にも一目置かれていたって、ボリスから聞いているし」
レオニードはわずかに苦笑を浮かべる。
退役が決まってすぐ、ほとんどの兵士仲間が同じようなことを言っていた。
確かに数カ月前の自分なら、兵士を辞めるなど考えもしなかった。
自分でさえ想像できなかったのだから、他の人間が驚くのも無理はない。
そんなことを考えていると、青年が声を落として言葉を続けた。
「一つ聞くけど……お前、みなもさんを恋人にしたって本当なのか?」
思わずレオニードの体が強張る。しかし、どうにか動揺を抑えて平然とした表情を保つ。
「……その話、誰から聞いたんだ?」
「誰からって言われてもなあ。多分、街にいる半数以上の人間は知ってる話だから」
…………。
街の半数以上の人間が?
予想を遙かに上回った答えに、レオニードは目を丸くする。
みなもが城の藥師たちを手伝っていた頃から、そんな話が侍女たちの間で囁かれていたことは知っていた。
その程度なら言わせておけばいいと思っていたが、ここまで規模が大きくなるのは計算外だった。
彼女とともに生きることを、恥じる気持ちはない。
ただ、男同士であるという誤解を抜きに考えても、数多の人間に自分たちの関係を知られているのは、何とも落ち着かない。
レオニードは軽い頭痛を覚えてこめかみを押さえた。
「どうして噂がこんなに広がっているんだ?」
思わず呟くと、青年が意外そうに小首を傾げた。
「当事者なのに知らないのか? つい最近、街で――」
彼が言いかけたその時。
バンッと荒々しく扉が開いた。
振り返ると、そこには激しく息を切らし、大きく肩を上下させるボリスがいた。
いつものにこやかな表情はなりを潜め、必死な形相を浮かべている。
一目見て、何か問題が発生したのだろうと察する。
それと同時に嫌な予感が、レオニードの全身を駆け巡った。
「探したよ、レオニード。すぐ来て欲しい、大変なんだ」
「ボリス、一体何があったんだ?」
レオニードが駆け寄って尋ねると、ボリスはわずかに呼吸を整えて答えた。
「ついさっき、賊が入ったんだ……パレードの女神の衣装を作っている仕立て屋に」
確か今日は衣装合わせのために、みなもが仕立て屋へ行っている。
顔から血の気が引いていくのを実感しながら、レオニードは息を呑む。
「ケガ人はいるのか? みなもは無事なのか?!」
「眠り薬を使われたみたいで、店の人にケガはなかった。ただ――」
ボリスは眉をひそめ、小さく首を振った。
「みなもさんとクリスタの姿が見当たらないんだ。女神の衣装も、装飾品も……」
あの二人が盗みを働くなんて、まず有り得ない話だ。
衣装や装飾品と一緒に、二人が賊に連れて行かれたとしか考えられない。
しかし腑に落ちない点がある。
みなもは常に自衛の毒を隠し持っている。それを使えば十分に対処できたはず。それができなかったとなれば……。
レオニードはグッと奥歯を噛み締めた。
(クリスタを人質に取られて、抵抗できなかったのか)
ずっと仲間を探すために生きてきた彼女が、ようやく穏やかな生活を手に入れたというのに。
胸の内が痛くなるほどの怒りが、体を満たしていく。
そして同時に、何か冷たく暗いものが足首に巻き付いてくる。
もし、すでに口封じのために殺されていたら――。
想像すらしたくなくて、レオニードは流れる思考を止め、ボリスへ話を振った。
「賊はどこへ行ったか、見当はついているのか?」
ボリスは口を閉ざしたまま、首を横に振る。
「警備隊が店の周辺で聞き込みしているけれど、まだ有力な話はつかめていない」
わずかにボリスが俯き、両拳を強く握った。
「二人とも僕らにとっては大切な人だ、ジッと待つなんてできない。レオニードもそうだろ?」
「ああ、当然だ」
レオニードが間を置かずに即答すると、ボリスは鋭く強い眼差しをこちらに向け、素早く腰から剣を取り外す。
今まで気づかなかったが、彼の腰には剣が二本あった。
「勝手に持ち出して悪いけれど、レオニードの剣も持ってきたよ」
差し出された剣は、確かに家へ置いてきた愛用の剣だった。レオニードは有無を言わずに剣を手にする。
そんな切羽詰まった様子の二人へ、ずっと成り行きを見ていた青年が、「なあ」と口を開いた。
「ちょっと小耳に挟んだ噂なんだが……裏町にあるゴルバフ商会が、近隣を荒らしている賊と繋がっているらしいぞ。まあ、噂だから本当かどうかは分からないけどな」
思わず二人は青年を見てから、互いに顔を合わせた。
「どうするレオニード?」
「行こう。ここで立ち止まっているよりも、事の真偽を確かめに行ったほうがいい」
言い終わらぬ内に、レオニードとボリスは走り出す。
早くなる鼓動に煽られ、焦燥感が際限なく膨らんでしまう。
こんな非常時に冷静さを失って、良いことなど一つもない。
レオニードは心の中で、自分へ言い聞かせるように呟く。
(みなものことだ、うまく立ち回って生きているはず。彼女の強さを信じなければ)
細い路地を抜けて人通りの多い市場へ出ると、二人は買い物客を避けながら駆けていく。
何人かと肩をぶつけて驚かせてしまったが、立ち止まる余裕はない。
ただ「すまない」と言い残していくことで精一杯だった。