あの糸は解けない
『あの糸は解けない』
黒光りの、重く冷たい扉。その向こう側にあるのは、ぞっとする程白い空間。
壁も床も天井も、何もかもが白い。そしてそこには時計も、机も、絨毯も、ベッドも、無い。
雪を固めて作ったようなそこから、赤い紐が伸びている。白雪に落ちる血の雫、地平線へと落ちていく夕陽、命を燃やす炎……鮮やかで、冷たく、美しく……そして、おぞましい。それを直視した者の背筋は必ず凍る。そして体内を火と氷で出来た鋭い棒でかき回され、身悶え、嗚咽し、倒れるだろう。
蛇の如く地を這い、獲物を捕らえる蜘蛛の糸の如く垂れる紐の先にあるのは、この空間に負けぬ位白い肌――手、足、首。
うねりながら床へ落ちていく、見た者の目を奪う黄金の髪。細く、しなやかな肢体に絡みつき、その滑らかな肌を撫で。
女は何をするわけでもなく、ただそこに、座っている。
黒い扉が開かれた。女が微かに身動ぐ。彼女が精巧な人形などではなく、正真正銘の人間である証であった。
「……今日も、解かなかったのか」
入ってきたのは、女と同じ位の年頃の男。自身が今しがた開けた扉と同じ色の髪、瞳、服。
天使、女神の様な女と悪魔、死神の様な風貌の男。青い瞳と黒い瞳がぶつかり合い、接触した瞬間誰にも聞こえない音をたて、互いの瞳を弾き返す。
「お前は今日も、解かなかった」
冬、外、氷の張った湖――を思わせる声。しかしその湖の底には、赤く燃えるマグマが沈んでいる。それは今にも氷を突き破り、噴出し、女に襲いかかっていきそうだった。
女は、何も答えない。長い間吊り上げられ続けている手も、同じく縛られている何も履いていない足も、死なない程度に閉めつけられている首も、動かない。
その態度が男を苛立たせた。俯いた女の、小さな顎に手をやり、無理矢理その顔をあげさせる。再びぶつかりあう青と黒の、磨きあげられた二つの石。
「あいつは未だ、あの家にいた。今日も変わらず」
男の言葉を聞いて、女が笑みを零す。幸せに満ち溢れたそれが、男の感情を激しく揺さぶった。煮えたぎる熱いマグマが薄く張られた氷を突き破る。
顎から手を離し、その手で女の顔を殴りつけた。吐き気のする音がしいんと静まり返っている空間に響き渡った。女は悲鳴一つあげない。赤くなる男の手、女の顔。
「俺はあの糸を解けと言ったはずだ!」
「ええ、確かに言ったわ。今日も昨日も、一昨日も。けれど私はその言葉に対して『はい』とは一言も言わなかった」
力強く殴られた直後にも関わらず、彼女は恐ろしい位冷静だった。上がる口の端から流れる血の雫が、自分の着ている白いワンピースの上に落ちても、少しも気にする様子は無い。
男はそんな彼女の両頬を二度三度はたく。痛くないはずは無いだろうに、それでも彼女は笑うことをやめない。その目の奥で輝く魂が、男に屈することは決してなかった。
「この……!」
もう一度そんな女を殴りつけようと男は手を上げる。殴ってやらねば気が済まなかった。だが、その手を振り下ろすことはどうしても出来なかった。今はもう酷く遠いものに感じる過去の思い出が、彼の手を押さえつけたのだ。
怒りと悲しみ入り混じった顔をしながら、ゆっくりと男はその手を下げる。
「……出来ることなら、こんなことなんてしたくないんだ……俺だって」
苦しげな息と共に嘆く男。女は笑みを崩さぬまま目をそうっと瞑る。
「分かっているわ。貴方……月夜見はとても優しい人だものね。他人の為なら、自分が傷ついてもいいと、どれだけ黒い罪だって背負ってみせると本気で思える人。一人になるのが怖いから……他人に嫌われ、捨てられることを何より恐れているから、だから、貴方は他人に優しくする。……寂しがり屋で、可哀想な人」
やめろ! 男の悲痛な叫び声がこだまする。長い髪を振り乱し、呻き、膝を折る。
「ねえ月夜見。貴方は大切な人が自分の前から消えていくことを何より恐れているのでしょう? それなのに貴方はあの人を――自分にとって一番の親友である彼を自分の意思で遠くにやろうとしている。糸を解けば、彼は貴方の前から永遠に姿を消してしまう……それが分かっているのに、貴方は」
「うるさい!」
その言葉に呼応するように、女の両手を縛っていた紐が上へ勢いよく引っ張られる。同時に、白い腕も……。ぎぎぎい、という嫌な音。それは引っ張られた紐が出している音か。それとも。
女の顔から流石に笑みは消えた。だが、苦しげな表情は意地でも出さない。
「俺はもう受け入れたんだ! あいつがいない世界を! 泣いて、呻いて、吐いて、もがいて、叫んで……地獄の様な日々を経て、ようやくな! どれだけ辛い現実でも、目を背けてはいけないと。全部受け入れて、その上で前へ進まなくてはいけない、そう思った。……お前もそうだと思っていた。俺より時間はかかるかもしれないが、きっと、受け入れるだろうと思っていた」
それなのに、お前は。女を睨みつける瞳にうっすら滲む硝子の水。
「受け入れるどころか、最もしてはいけないことをしてしまった! あいつの体に糸をくくりつけ、あの家に縛りつけた! 何も知らないあいつは、今日も満面の笑みを浮かべて俺を……あの家に招きいれ、茶と菓子を寄越し、楽しそうに……話を」
その先を言う前に、自分の中にあった様々な感情が爆発し、眉一つ動かさない女の髪を乱暴につかみ、引っ張る。それでも女の顔は少しも崩れなかった。
「あいつを、解放しろ! あいつは本来行くべき世界へいかなくてはならないんだ! もうこの世界に、あいつの居場所は無い。あいつはもう、この世界にいてはいけない人間なんだ! 誰もがもつ運命……俺やお前もいつかはそうなる日が来る。その運命は、どんな理由があっても決して捻じ曲げてはいけないんだ。だから解け、解いてくれ。あいつをこの世界に縛りつけるあの糸を」
叫び、怒鳴り、髪から手を離し、女の儚い両肩をつかみ。無理矢理声を絞り出し、祈る様に彼女に言った。
だが彼女の答えは、男が待っているものでは決して無かった。
「嫌よ。嫌、絶対に駄目。糸を解けばあの人は今度こそ行ってしまう。幾ら私でも同じ人を二度も縛ることは出来ない。……あの人が行く世界には何も無いわ。この部屋だって、その世界に比べればずっと素敵な所でしょうよ」
「どんな場所なのか、それは今の俺には分からない。けれど……本来行くべき世界へ行くことが、あいつにとって一番幸せなことだ」
「そんなはず無いわ。陽だまりの世界で、三人で仲良く過ごすことの方が、ずっと幸せなことに決まっている」
「違う!」
女の主張を、怒鳴り声で叩きつける。
彼女が自分の恋人の体に糸をくくりつけ、この世界に縛りつけたことを知った時、月夜見は絶望した。同時に激しい怒りを覚えた。
彼は彼女に、糸を解くように説得したが彼女は聞く耳持たず。それを何日も続けた後、月夜見は彼女を捕らえ、魔力で作り上げた空間に閉じ込め、更にその体を紐でくくりつけた。少し痛めつけてやれば、そして自分が誠心誠意を込めて説得し続ければきっと彼女はすぐにでも糸を解いてくれる、そう思いながら。
ところが女はいつになっても糸を解こうとしなかった。どれだけ痛めつけられても涙一つ零さず、心折ることもなく。
心が折れかけているのはむしろ月夜見の方だった。彼女に糸を解かせる為とはいえ、手足や首を紐で引っ張ったり、首を絞めたり、自身の手を使って暴力をふるったりし続け……自分の思いを少しも理解してくれない相手と話をしなくてはいけない日々が、彼を苦しめる。
「俺はこんなことをしたくない。したくないんだ。けれどお前が糸を解くことを決めてくれるまで、そしてそれを実行してくれるまで……俺はこの日々を終わらせるつもりは無い。お前だってこんな俺以外誰もこない、何も無い空間に一生居続けるのは嫌だろう? 痛めつけられ、罵声を浴びせられ、同じことを何度も言われる日々を送り続けることを望みはしないだろう? なあ、頼む。俺のことは憎んでもらっても構わない。けれど、けれど、あの糸……あの糸だけはお願いだ、解いてくれ……お願いだから」
心からの言葉だった。しかしその言葉も矢張り女の心には届かない。
「私はどれだけ痛めつけられても、苦しめられても、構わないわ。だから月夜見、こんなことをしても無駄なのよ。無駄なことに無駄な労力を使って、自分で自分の首を絞めて、苦しんで。可哀想な月夜見、馬鹿な月夜見。……ねえ、もう一度言うわ。私は糸を解かない」
月夜見を見る彼女の顔は、子を慈しむ母、弟を思いやる姉、他人を哀れむことに優越感を感じている、聖女ぶった女のそれそのもの。
じわじわと、月夜見の心を削り、奥まで侵入していく声。怒りと悲しみ、心を壊されていく苦痛に震える月夜見を見て、女は無邪気な笑みを浮かべる。それは彼女が恋人のことを語る時に見せるものだった。
「ねえ、月夜見。彼は今頃何をしているからしら。庭までは出られるから……花に水をやっているのかしら、それとも大好きな音楽を聞いているのかしら、それともレモンパイを焼いているのかしら。彼、あれを作るのが何より得意ですものね。私は彼の作ったレモンパイが食べ物の中で一番好き。ああ、またあれを食べたいわ。ねえ月夜見、三人で一緒に食べましょうよ、彼の作ったレモンパイを。お茶を飲んで、お喋りして、笑って……」
ねえ、そうしましょうよと彼女は笑い声をあげる。月夜見を馬鹿にした笑い声では無い。恋する乙女の、無邪気な少女の、声だ。
その声が月夜見の感情を激しく揺さぶった。吠えるような、泣くような……声なのか何なのかよく分からないものをあげ、彼は立ち上がり、女を蹴りつけた。一度、二度、三度。その度みしみしと彼の心が悲鳴をあげる。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!」
蹴り、殴り、叩き、絞め、揺さぶり、罵詈雑言を浴びせ。
女は抵抗しない。悲鳴もあげないし、こんなことはもうやめてと懇願することも無い。
感情の赴くままに体を動かす。暴力をふるうことしか出来ない自分を情けないと思いながら。
しばらくして手をだすのをやめ、肩で呼吸しながら女を見る。女は全く参っていなかったし、思いを汲み取った様子もなかった。
「何度殴りつけても、蹴飛ばしても、首を絞めても、無駄よ。私の愛はどんな暴力の前にも屈しない」
「愛? 禁を犯し、糸で縛りつけ、あいつの魂や運命を冒涜することを愛だとお前は言うのか。違う、そんなものは愛とは呼ばない!」
それを聞いて、女が笑う。今度は月夜見を馬鹿にするような、哀れむような、厭な笑い声をあげながら。月夜見はその笑いを止めさせようと、彼女の首を紐で軽く絞める。しばらくそうしていると彼女が動かなくなったので、もしや死んでしまったのではないかと肝を冷やした。だが首を絞める力を緩めると女は咳き込んだ。死んではいないようだった。男はほっと胸を撫で下ろす。
女は何度か咳き込み、それから再び顔をあげる。そして彼の顔を見ながらまた笑みを浮かべるのだった。
「愛よ。愛だわ。……真実の愛よ。私はあの人を心から愛している。その愛の力で私はあの人をこの世界に留めているの。……分からないの、月夜見? そうね、分からないでしょうね貴方には。心から人を愛したことが無い貴方には」
月夜見の顔が真っ赤に染まる。怒りと悲しみで。頭が沸騰する、心が熱した刃物でずたずたに裂かれる。
怒鳴る声すら出なかった。
愛したことが無い。そう言われたことに怒りを覚え、そしてショックを受けた。
自分に『愛』を教えてくれた人間が、それを笑って否定した。
月夜見は愛していた。女の恋人である男を親友として……そして女を愛していた。親友として……異性として。
愛しているからこそ、彼は願ったのだ。大切な親友の本当の幸せと、女が再び陽だまりの世界で笑う日を。
そんなことも分からないなんて。落胆、絶望、悲しみ、怒り。広がっていく心の穴。心臓が動く度痛む。
「悼む心をお前が思い出すその日まで……俺は痛みをお前に与え続ける」
今日は彼女とこれ以上話していたくなかった。話せば自分の心が完全に壊れると思ったからだ。
「月夜見。何をしたって、駄目よ。私は絶対にあの糸を解かないから。……月夜見、私は貴方のことも愛しているのよ。勿論それは彼へ抱いているのとは違う形の愛だけれど。……ねえ、月夜見。貴方は愛を失うことを恐れている。両親や村人から化け物と呼ばれ、蔑まれ、捨てられた貴方にとって、愛を失うことは耐え難い苦痛よね。糸を解くことになれば、貴方は二つの愛を失うことになるのよ。一つはあの人の愛――勿論恋愛とかそういう類のものでは一切無いもの――。もう一つは私の愛。貴方は全て受け入れたというけれど……無理よ、月夜見、貴方には。手に入れた愛を失ってまで生きるなんてこと。三人で生きましょう? 私と彼に愛されながら、生きる方がずっと幸せに決まっているわ。糸を解かないことは貴方の為にもなるのよ」
「……また来る」
女の言葉は無視し、彼はそこから出る。同時に黒い扉は消滅した。
「くそ!」
出るなり月夜見は先程まで扉があった壁を殴る。それからそこに体を預け、床に座り込んだ。
「畜生、畜生、畜生!」
涙が溢れて止まらない。
自分に、親友をこの世界に縛りつける糸を解くなり切るなりする力があればこんなことにはならなかったのにと彼は自分を責める。
しかしそれは出来ない。月夜見にも、他のどれだけ優れた術師にも出来ない。
「あの糸を解けるのは、彼女だけ……」
彼女の魔力と絶対的な意思が作り上げた糸をどうにか出来るのは、それを生みだした彼女だけ。彼女が死んでも糸は消えない。女の魔力と意思はそれだけの力があった。そうでなければ、この世界にもういてはならない人間を縛ることなど出来るはずが無かった。
月夜見が好き勝手に出来るのは、女を縛りつけている紐だけだ。
「悪魔だ、化け物だと蔑まれ、忌み嫌われる原因になったこの力も……あいつの意思と力の前では無力だ。なんて役立たずな力なんだ……」
俯いた彼の目にとまったのは、首にかけているペンダント。それは親友と女が誕生日プレゼントにくれたロケットペンダントだった。
のろのろとした手つきでそれを持ち、蓋を開ける。
そこには三人で初めて撮った写真が飾られていた。三人仲良く笑っている。
真ん中に映る自分の笑みは少しぎこちない。だが、とても幸せそうだった。
二人に出会うまでの月夜見の人生は、散々なものだった。魔力持ちの人間を忌み嫌う風潮が未だ強く残る集落で産まれたことが悲劇の始まり。誰にも愛されず、憎悪に溢れた言葉と暴力だけを貰って生き、やがてゴミのように捨てられた。それから多くの人を殺し、傷つけ、騙しながら毎日をどうにか生きていた彼はあることをきっかけに二人に出会ったのだ。そして愛、友情、信頼、温もり、笑顔を知った。
涙が次々とその写真の上へ落ちていく。
「子供の時よりもっと苦しい日々が来るなんて……思わなかった……! 俺はいつまでこんなことを繰り返せばいい? いつになったらあいつは糸を解く? 俺はいつになったらあいつを解放することが出来る?」
答えは返ってこない。
――ねえ月夜見、三人で一緒に食べましょうよ、彼の作ったレモンパイを。お茶を飲んで、お喋りして、笑って……――
先ほど女が発した言葉が月夜見に、幸せの日々を思い出させた。悲しい現実を受け入れ、前へ進むことを決めた彼の決心を一瞬揺るがせた。
いっそ彼女の言う通りにしてしまおうか……そんなことを思ってしまう位、彼は弱っていた。そして三人で過ごした日々を愛しく思っていた。
だが、そうするわけにはいかないのだ。それは許されざることなのだ。
「お前のそれは愛じゃない。痛みと悼みから目を背けることを愛とは呼ばない……」
穴があき、今にもぼきりと音を立てて折れそうな心に強く言い聞かせる。
月夜見はゆっくり立ち上がった。
「そうだ……諦めてはいけない。俺は諦めてはいけないんだ」
彼は自室へと戻っていく。心と体を休める為に。
月夜見と女、先に心が折れるのはどちらか。
その答えを知る者は誰も居ない。