出張鍵屋・坂本萌の怪異譚
春の暖かな風を受けながら、一台の白いスクーターが住宅街を軽快に走っていた。
運転しているのは、坂本萌、二十五歳。
ヘルメットの下から覗く茶色がかった髪が風に揺れ、信号待ちになるたびに鼻歌が漏れる。
「今日はいい天気だなぁ」
そんなことを呟きながらも、交差点ではきちんと一時停止をし、左右を確認してからアクセルを開ける。
萌が乗っているスクーターのリアボックスには『坂本鍵サービス』と書かれた小さなマグネットが貼ってあった。
個人で営む、出張鍵屋。
それが萌の仕事だった。
仕事の依頼はほとんどスマホアプリのマッチングサイトから届く。
家の鍵をなくした。
金庫が開かない。
ロッカーの鍵を失くした。
車に鍵を閉じ込めた。
そんな依頼が入れば、工具を積んだスクーターで現場へ向かい、急ぎの案件なら電話一つで現地に飛んでいく。そんなお仕事。
その日も、朝から三件の依頼を終え、四件目の現場へ向かっていた。
マンションの前でスクーターを停めると、一人の女性が慌てた様子で駆け寄ってくる。
「鍵屋さんですか!?」
「あ、はい、坂本鍵サービスの坂本です」
「助かりましたぁ……!」
三十代くらいだろうか。
買い物帰りらしく、スーパーの袋を両手いっぱいに提げている。
「鍵を落としちゃって……冷凍食品もあるし、本当に困ってたんです」
「それは大変でしたねぇ」
萌はのんびりと笑った。
「じゃあ、一応身分証だけ確認させてください」
「あ、はい!」
身分証となるマイナンバーカードを受け取り、住所と部屋番号を確認する。
苗字が表札とも一致しているし、問題なさそうだ。
「じゃあ、開けますね」
そういって、萌はスクーターのリアボックスから工具箱を取り出し、その蓋を開ける。
そして、数ある工具の中から一本、細い金属を取り出した。
針金を曲げて鍵の形のようにした代物。
初めてそれを見た人なら、ただのピッキングの道具か、ゴミにしか見えないだろう。
だが、萌だけが、それを――
『魔法の鍵』と呼んでいた。
この鍵は、祖父が亡くなる前に萌へ託したものだった。
『絶対に悪いことには使うなよ』
優しい顔をした祖父はそう言って、この鍵を萌の手に握らせた。
おっちょこちょいで能天気だった自分の将来を心配して、託してくれたのだろうと、今では思っている。
この鍵の使い方は単純だった。
鍵穴へ差し込み、回すだけ。
それだけで、どんな鍵でも開く。
玄関。金庫。南京錠。ロッカー。車。
メーカーも年代も関係ない。
鍵穴さえ存在すれば、一度たりとも開かなかったことはない。
そして萌自身、この鍵が普通ではないことくらい分かっている。
どんな鍵でも開けられる道具など、本来なら存在するはずがない。
でも、祖父が残してくれたものだから。
世の中には、そういう不思議なものもあるのだろう、と萌は深く考えずに受け入れていた。
『おじいちゃん、すごいもの残してくれたなぁ』
それくらいの認識だった。
萌は依頼人からその鍵が見えないよう、身体で隠しながら作業を行う。
魔法の鍵を鍵穴へ差し込み、軽くひねる。
カチッ。
「あ、開きました」
「えっ!」
女性は目を丸くする。
「もう!?」
「今日は調子が良かったみたいです」
萌はえへへ、と笑う。
いつもなら鍵の存在を誤魔化すためにあえて時間を掛けて作業をするのだが、スーパーの袋に入った冷凍食品の存在を考慮して、すぐに開けることにした。
玄関のドアが開いたことを確認した後、料金を受け取り、領収書を渡す。
「ありがとうございました!」
「こちらこそ、ありがとうございましたぁ」
女性は何度も頭を下げながら部屋へ入っていった。
萌は工具箱を閉じ、スクーターへと戻る。
その時、スマホが震えた。
スマホを取り出すと、画面には登録されていない番号が表示されている。
(依頼かな)
萌は慣れた様子で電話に出た。
「はい、坂本鍵サービスです」
『……もしもし』
女性の声だった。
少し小さく、聞き取りづらい。
『今日って……まだお願いできますか』
「はい、大丈夫ですよ」
『ちょっと、箱を開けてほしいんです』
「箱、ですか?」
『はい』
萌は胸元のポケットからメモ帳を取り出し、予定を確認する。
今日の依頼はあと一件。
いまはお昼の十二時前で、時間は十分にある。
「あ、ちなみに、その箱に鍵穴はありますか?」
『……あります』
「それなら開けられますよ」
『本当ですか……』
電話の向こうで、どこか安堵したような息遣いが聞こえた。
「場所はどちらでしょうか?」
『〇×駅前の……カフェ・ブランです』
その場所を萌は少しだけ首を傾げた。
いままでの依頼で指定された場所へ向かうこと自体は珍しくない。
しかし、玄関や車の前ではなく、喫茶店を待ち合わせ場所に指定されることはあまりなかった。
「〇×駅前のカフェ・ブランですね」
萌はスクーターの座席を下敷きにして、手帳に指定の場所を書き込む。
「何時ごろがいいですか?」
『夕方……五時でお願いします』
「分かりました」
萌は手帳を閉じながら答える。
「では、五時に伺いますね」
『ありがとうございます』
電話はそこで切れた。
萌はスマホとをポケットへ戻し、ヘルメットを被る。
(木箱かぁ)
木箱の解錠依頼自体は、これまでにも何度かあった。
古い宝箱や、祖父母の遺品整理で出てきた収納箱など、鍵のついた箱を開けてほしいという依頼は珍しくない。
ただ、今回のように喫茶店で待ち合わせをして、箱だけを開けてほしいという依頼は少し珍しかった。
(何が入ってるんだろ)
少しだけ気になった。
その時。
ぐぅ……と、お腹の音が小さく鳴った。
萌は自分のお腹に手を当てる。
(そういえば、朝から何も食べてなかったっけ)
今日の朝は少し寝坊して、朝ご飯を食べずにスクーターを走らせたことを思い出す。
木箱のことを考えるより先に、空腹の方が気になってしまう。
(今日はラーメンにしようかなぁ)
そう呟くと、萌はスクーターのエンジンをかけ、近くのラーメン屋へと走り出した。
もちろん、この時の萌は知る由もなかった。
その依頼が、ただの『箱を開ける仕事』では終わらないことを。
◇◇◇
約束の時間より少し早い、午後四時五十分。
駅前は仕事帰りの会社員や買い物客で賑わっていた。
萌はスクーターを駐輪場へ停めると、ヘルメットを脱ぎ、軽く髪を整える。
「カフェ・ブラン……あ、あそこだ」
駅前によくあるチェーン店。
ガラス張りの店内はほぼ満席で、学生が勉強をし、会社員がパソコンを広げ、家族連れが談笑している。
どこにでもある、チェーン店舗の喫茶店だ。
萌は店内を見回す。
すると窓際の二人席で、一人の女性がこちらに向かって小さく手を挙げた。
あの人が、お昼の電話の依頼人なのだろうと判断し、その女性が座る席へと近づく。
「鍵屋さん……ですよね?」
近づくと、女性は不安そうな声色で、確認するように尋ねた。
「はい、坂本鍵サービスの坂本です」
女性は深く帽子をかぶり、白いマスクで口元を隠していた。
春先ということもあり、花粉対策なのかもしれない。
少し変わった格好ではあったが、萌は特に気にしなかった。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
萌は女性の向かい側の席へ座る。
女性は足元に置いていた布袋を持ち上げ、テーブルの上へ置いた。
「こちらです」
そう言って、布袋の中から木製の箱を取り出す。
女性はそれを萌の前へ差し出した。
「ありがとうございます」
萌は両手で箱を受け取る。
まず全体を確認する。
幅は三十センチほど。
濃い茶色の木目。
正面には小さな真鍮の錠前が取り付けられている。
見た目だけなら、少し古い小物入れにも見えた。
「確認しますね」
萌は箱を持ち上げる。
思ったよりも軽い。
カサ……。
箱を少し傾けると、中で何かが動いたのか、かすかな音がした。
「中には、何が入っているんでしょうか? あ、もし壊れやすい物だったら、気を付けて開けますので」
「……」
女性は何も答えない。
ただ、視線を下へ向けたまま黙り込んでいた。
おそらく何か理由があって答えたくないのだろう。
萌はもう一度、箱へ視線を落とす。
見たところ、特別複雑な作りではなさそうだった。
ただ、依頼人が中身について何も話さないことと、わざわざ喫茶店を待ち合わせ場所に指定したことが少し気になった。
とはいえ、依頼は箱の解錠だ。
開けること自体に問題はない。
「じゃあ、すぐ終わりますね」
萌はスクーターから持ってきた工具箱を開く。
そして、魔法の鍵が入った仕事用ポーチへ手を伸ばした。
その瞬間だった。
「えっ……」
女性が小さく声を漏らした。
「……ここで、開けるんですか?」
「はい?」
萌はきょとんとする。
女性は明らかに戸惑っていた。
店内を落ち着きなく見回し、木箱と萌を交互に見る。
その様子に、萌は少し首を傾げた。
もしかして、人がいる場所で作業することを気にしているのだろうか。
「大丈夫ですよ。このくらいなら一分も掛かりませんから」
萌は安心させるように笑った。
「…………」
女性は数秒黙り込む。
そして突然、慌てたように立ち上がった
「すみません、少しお手洗いへ行ってきます」
「あ、はい」
「すぐ戻りますので」
女性はそう言い残すと、そそくさと店の奥へ消えていった。
「……」
萌は開いていた工具箱の蓋をそっと閉じる。
依頼人がいる前で作業する。
それは、後から「中身が違う」「勝手に壊された」などのトラブルにならないため、萌が決めている仕事上のルールだ。
(戻ってくるまで待とう)
そう決めた萌は、店員を呼び、アイスコーヒーを注文した。
◇◇◇
それから十分。
頼んだアイスコーヒーを飲みながらスマホを眺めつつ依頼人を待つ。
だが、依頼人はまだ戻らない。
二十分経過。
頼んだアイスコーヒーの氷が少し溶け始めていた。
(大きい方だったか)
萌は能天気にそんなことを考えてながらそれでも依頼人を待っていた。
三十分経過。
さすがに少し心配になった。
(具合でも悪くなったのかな)
萌は席を立ち、トイレへ向かい、個室を確認する。
しかし、中には誰もいなかった。
「あれ……?」
店内へ戻る。
先ほど座っていた席に女性の姿はない。
萌は近くを通った店員へ声を掛けた。
「あの、すみません」
「はい、どうなされました?」
「あの席にいた、帽子とマスクの女性、見ませんでした?」
店員は少し考える。
「ああ、先ほどのお客様ですね。少し前にお会計を済ませて帰られましたよ」
「……え?」
萌は思わず聞き返した。
「帰ったんですか?」
「え、そ、そうですね、帰られたと思います」
「一人で……?」
店員は不思議そうな顔をする。
萌は女性が座っていた席を見る。
そこには――。
木箱だけが残されていた。
「そんな……」
慌ててスマートフォンを取り出す。
着信履歴から電話を掛ける。
プルルルル。
プルルルル。
何度鳴らしても出ない。
もう一度。
数回鳴ったあと、自動音声が流れる。
『お掛けになった電話番号は、現在電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため――』
機械的な音声が流れたあと、電話は自動的に終了した。
「どういうこと……?」
萌は木箱を見る。
依頼人は消えた。
連絡もつかない。
それなのに、依頼品だけが残されている。
「……」
このまま店に置いていくわけにもいかない。
かといって、店員へ預けるのも違う気がした。
(……とりあえず、持って帰るしかないか)
萌は小さくため息をつき、木箱を布袋へ戻そうと手を伸ばす。
その時だった。
――カタン。
木箱の中から、小さな音がした。
「……?」
萌は首を傾げる。
店内では食器の音や話し声が絶えず聞こえている。
(気のせい……かな)
そう思うことにして、萌は木箱を布袋へ戻した。
これ以上ここにいても仕方がない。
萌は布袋を手に取り、店を出た。
外へ出る頃には、空はすっかり薄暗くなっていた。
萌は木箱の入った布袋をリアボックスへ丁寧にしまい、スクーターのエンジンをかける。
(困ったなぁ……)
ヘルメットの中で、小さくため息をついた。
依頼人が突然いなくなるなんて、初めてのことだった。
何度電話を掛けても繋がらない。
このまま持ち帰っていいものかとも思ったが、この店へ置いていくわけにもいかなかった。
(明日、警察かなぁ)
そんな結論だけを出し、萌はアクセルを回した。
◇◇◇
萌が住んでいるのは、築三十年を超えた木造アパートだった。
四畳半の狭いワンルーム。
玄関を開ければ、数歩で部屋の奥まで行けてしまうほど小さい。
風呂も足を伸ばせないほどの小さなユニットバスだ。
友人には「狭くない?」とよく聞かれる。
だが萌は、この部屋が気に入っていた。
掃除もすぐ終わるし、冬は暖房が効きやすい。
何より、一人で暮らすには十分だった。
「ただいまー」
誰もいない部屋へ声を掛けるのも、すっかり癖になっている。
リアボックスから例の木箱が入った布袋を取り出し、小さなテーブルの上へ置く。
「よいしょっと」
萌はそれ以上箱のことを気にすることもなく、使うことのなかった仕事道具を片付け始める。
そこから着替えを済ませ、スーパーで買ってきたお弁当を電子レンジへ入れる。
チン。
温まった唐揚げ弁当を食べながら、動画配信サービスでドラマを見る。
食べ終わると容器を片付け、お風呂へ入る。
髪を乾かし、歯を磨き、明日は寝坊しないように祈りながらスマホのアラームを朝七時にセットする。
いつもと変わらない夜だった。
◇◇◇
「さて、寝よっと」
萌は押し入れから敷布団を取り出す。
畳へ広げようとした、その時だった。
ふと、テーブルの上に置かれた布袋が目に入る。
昼間、カフェから持ち帰ったままの布袋。
「そういえば、そのままだった」
萌は手に持った布団を床に下し、布袋へと歩み寄る。
そして布の中から木箱を取り出し、両手で持ち上げる。
やはり軽い。
「何が入ってるんだろ」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、耳元でそっと振ってみる。
カサ……。
小さく乾いた音がした。
軽いものがいくつか入っているような音だ。
アクセサリーだろうか。
それとも写真とか手紙のようなものが入っているかもしれない。
「うーん……」
自然と視線は錠前へ向く。
鍵穴がある以上、魔法の鍵でこの木箱は一瞬で開く。
萌は箱を片手に、工具箱からあの魔法の鍵を取り出して——
「いやいやいやいや」
邪な考えを振り払いため、首を左右に振る。
「依頼人いないし」
さすがに勝手に開けるのはまずい。
木箱を元の場所へ戻し、今度こそ布団を敷いた。
部屋の電気を消し、素早く布団へと潜り込む。
「おやすみぃ……」
心を無にして目を閉じ、眠りにつく萌であった。
……。
…………。
眠れない。
寝返りを打ちつつ、細目で時計を見る。
まだ寝始めてから十分しか経っていない。
(あぁ、気になるなぁ……)
蝶番付きの木箱。
突然いなくなった依頼人。
どうしてあんなに慌てていたんだろう。
それに、どうして箱だけを置いて帰ったんだろう。
(……いやいやいや)
自分には関係ない。
明日、警察へ届ければ済む話だ。
そう自分に言い聞かせ、布団を頭まで引き上げる。
……。
…………。
だめだ、余計に気になる。
「見るだけ」
萌は小さく呟いた。
「見るだけだから」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。
萌は布団から起き上がり、工具箱を開く。
その中から細い針金のような一本の鍵を取り出した。
「ごめんなさい」
木箱へ向かって軽く頭を下げる。
それから木箱の鍵穴へ魔法の鍵を差し込み、軽く回した。
カチッ。
聞き慣れた音が部屋へ響いた。
萌はゆっくりと蓋へ手を掛ける。
ギィ……。
古い蝶番が小さく軋んだ。
木箱の中には、二つの物が入っていた。
一つは、四つ折りに畳まれた紙。
もう一つは、黒く長い、髪の毛の束だった。
「……髪の毛?」
思わず顔をしかめる。
切り方も長さもばらばらで、誰かが適当に切って詰め込んだようにも見えた。
「な、なんでこんなのが……」
その隣に置かれていた四つ折りの紙へ目を向ける。
何か理由が書かれているのかもしれない。
そう思い、恐る恐る手を伸ばした。
ゆっくりと紙を広げる。
そこには、ボールペンで書かれた小さな二文字だけがあった。
『絞殺』
「……」
萌は、その二文字をじっと見つめる。
数秒の沈黙。
やがて、ふうっと息を吐いた。
「なんだ、ただのいたずらだったかぁ」
肩の力を抜く。
悪趣味ではあるけれど、それだけだ。
髪の毛も、きっと美容室で切ったものだろう。
紙を元通り四つ折りにし、髪の毛と一緒に箱へと戻し、蓋を閉める。
カタン。
鍵は掛けず、そのままテーブルの端へ置いた。
「よし、これでスッキリ」
萌は満足そうに頷く。
それから部屋の電気を消し、再び布団へ潜り込む。
今度は、不思議なくらいすぐに眠気がやってきた。
ほんの数分後には、小さな寝息が静かな部屋へ響き始めていた。
◇◇◇
深夜。
坂本萌が暮らす四畳半の部屋は、静寂に包まれていた。
窓から差し込む街灯の明かりが、薄暗く室内を照らしている。
壁掛け時計の秒針だけが、一定の間隔で時を刻んでいた。
カチ。
カチ。
カチ。
その部屋の中央で、萌は穏やかな寝息を立てていた。
「……んぅ」
小さく寝言を漏らし、寝返りを打つ。
掛け布団が少しずれ、枕がわずかに動く。
萌のすぐ脇の小さなテーブル。
その端に、鍵の掛かっていない木箱が、妙な存在感を放っていた。
――カタ。
小さな音が部屋に響く。
誰も触れていない木箱が、わずかに揺れた。
――カタ。
もう一度。
今度は少し大きく。
蓋と本体の隙間が、ほんの少しだけ開く。
ギィ……。
古びた蝶番が、長い眠りから目覚めたように音を立てた。
そして、ゆっくりと箱の蓋が開く。
紙も、髪の毛もない。
箱の中は、底が見えないほどの闇に満たされていた。
その闇の奥から、白い指先が一本、ゆっくりと伸びる。
人間のものとは思えないほど青白い指。
続いて手首に、腕。
まるで狭い箱の中に、無理やり身体を押し込めていたかのように、ゆっくりと這い出してくる。
だが腕は床へ伸びることなく、まっすぐある方向へ向かった。
眠る萌の、その首元へ。
少しずつ、少しずつ、指先が近付いていく。
あと数センチ。
もう少しで触れる。
「んがぁ……」
突然、萌が妙な寝言を漏らした。
次の瞬間。
ガンッ!
寝返りを打った拍子に、萌の伸ばした足がテーブルの脚へを押し出すようにぶつかる。
勢いよく押し出されたテーブルが横へ滑り、端に置かれていた木箱が弾かれるように宙へ浮いた。
――ズルッ。
伸びていた腕も箱に引っ張られる形で向きを変える。
ガタンッ!
床へ落ちた木箱は、運悪く蓋を下にしたまま叩きつけられ、
――バタンッ。
木箱の蓋と床の間に、腕が挟まった。
びくり、と腕が跳ねる。
声はない。
口がないのだから、叫ぶこともできない。
だが、まるで挟まれた痛みに耐えるように、小刻みに震えていた。
しばらくすると震えは収まり、止まっていた指先がゆっくりと動き始める。
その動きは先ほどまでとは違う。
ぎこちなく、それでいて明確な意思を持つように、指先は眠る萌へ向けられた。
――その時だった。
「うむぅ……」
萌が再び寝返りを打つ。
今度は先ほどより大きく身体が転がり、どすん、と萌の太ももが、偶然にも木箱の真上へ乗った。
腕の動きが完全に止まる。
閉じかけた蓋に挟まってた腕。
その上に、人間一人分の重み。
もしこの腕に感情があったなら。
もし声が出せたなら。
間違いなく叫んでいただろう。
しかし、できない。
ただ伸ばした手だけが、暗闇の中でもがく。
助けを求めるように。
しかし、萌は起きない。
「すぅ……」
穏やかな寝息。
あまりにも平和な寝顔。
数分。
十数分。
やがて、腕の動きが弱くなる。
伸ばしていた指先が震える。
そして。
力尽きたように、ゆっくりと透けていく。
指先。
手首。
腕。
最後には、跡形もなく消え去った。
部屋には再び静寂だけが戻る。
床には、萌の太ももに押さえつけられた木箱だけが、静かに転がっていた。
◇◇◇
翌朝。
「……あれ?」
目を覚ました萌は、ぼんやりと部屋を見回した。
「え、箱が落ちてる」
昨夜テーブルに置いたはずの木箱が、床へ転がっている。
萌は寝ぼけ眼のまま近寄り、小さくため息をついた。
「また寝相悪かったのかなぁ」
自分のことながら少し呆れてしまう。
そこで、昨夜のことを思い出した。
「あ」
箱の鍵、掛けてなかった。
一応、お客さんから預かっている依頼品だ。
「やっちゃった……」
反省しながら工具箱から『魔法の鍵』を取り出し、鍵穴へ差し込み、軽くひねる。
カチッ。
聞き慣れた解錠音とは逆の、小気味よい施錠音が部屋に響いた。
◇◇◇
その後、依頼人へ何度か電話を掛けてみたが、結局一度も繋がることはなかったため、萌は例の木箱を紛失物として警察へ届けることにした。
木箱は、持ち主が現れるまで警察署の方で保管してくれるとのこと。
これで一安心だ。
だが、なぜ依頼人の女性はあの時、急に姿を消したのか。
なぜ箱の中に髪の毛と『絞殺』と書かれた紙が入っていたのか。
結局、萌がその理由を知ることはなかった。
けれど、坂本萌という人間は、そんなことで深く考え込む性格ではない。
「よし、今日も仕事頑張りますかぁ」
そう呟くと、萌は鼻歌を歌いながら工具箱を積んだスクーターにまたがり、いつものように依頼先へ向かった。
春の風を受けながら走るその背中は、昨日までと何ひとつ変わらない。
だが、この時の萌はまだ知らない。
いつもの仕事道具だと思っていたその鍵が、これから先、彼女の日常を少しずつ変えていくことを。




