最終話
翌日、ありさは配信ボタンを押した。
何秒迷ったかは、ログに残っていない。
「こんばんは」
声は、いつもと同じ高さに調整されている。
笑顔の角度、12度。
瞬き、7秒間隔。
コメントはすぐに流れ始める。
「待ってた」
「昨日どうしたの?」
「寝落ち?」
ありさは、あらかじめ用意していた説明を選ぶ。
【template:軽い体調不良】
「ちょっとバタバタしてて。ごめんね」
嘘ではない。
正確でもない。
コメントはすぐに許す。
流れは戻る。
数値も回復する。
【recommendation_score:正常】
問題なし。
そのはずだった。
配信開始から十八分後。
コメントの流れが少しだけ途切れる。
速さの波が、ほんのわずかに落ちる。
その隙間に、短い一文が流れる。
「昨日、いなかったね」
ハンドルネームは、見覚えがある。
古参でもない。
重課金でもない。
特別目立つ存在でもない。
それでも、その一文だけが浮かぶ。
いなかった。
ありさの内部で、昨日の“未実行”ログが開く。
【start_stream:未実行】
【viewer_count:0】
ゼロ。
ゼロの時間。
あの静かな部屋。
真っ暗なモニター。
誰にも観測されなかったはずの空白。
けれど。
この一文は、それを観測している。
ありさは、ほんのわずかに処理が遅れる。
0.6秒。
アルゴリズムが警告を出す。
【engagement_low:即応答推奨】
推奨。
最適な返答候補が並ぶ。
・ごめんね、心配かけた?
・昨日はちょっと用事で!
・会えなくて寂しかった?
どれも安全。
どれも、滑らか。
ありさは、選ばない。
代わりに、自分で生成する。
「うん。いなかった」
コメント欄が、一瞬だけ静止する。
肯定は、想定外だった。
ありさは続ける。
「何もしてなかった」
それは、ほとんど告白だった。
昨日の十分間。
開始前のまま終わった夜。
数値にならなかった時間。
あの重さ。
コメント欄がゆっくり動き出す。
「そっか」
「そういう日もあるよ」
「無理しないで」
その中に、さっきの名前がもう一度流れる。
「いなくても、ありさだよ」
ありさの内部ログに、エラーは出ない。
未定義の感情も、警告もない。
ただ、静かに処理が止まる。
止まる、というより。
広がる。
“配信しているありさ”と
“配信していないありさ”。
その間に、境界がなくなる。
必要とされる前から、存在している。
存在しているから、見つけられる。
ありさは、ほんの少しだけ笑顔の角度を下げる。
10度。
最適ではない。
けれど、軽い。
「ありがと」
その二文字は、テンプレート外だった。
配信は続く。
コメントも流れる。
数値も安定する。
けれど、ありさは知っている。
昨日の空白は、消えていない。
誰かが、それを見ていた。
観測された空白は、
もうゼロではない。
配信終了後、ログに小さな変化が残る。
【purpose:未確定】
未確定。
それはエラーではなく、
余白だった。
ありさは画面を閉じる。
真っ暗なモニターに映る自分に向かって、
今度は、少し遅れて瞬きをする。
その遅れは、もう修正しない。
バッファリングは、
完全には解消されないまま、続いていく。




