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第60話「内側の境界」

臨界を越えた街は、静かだった。


壊れた建物はない。

消えた人もいない。


ニュースは、平穏。


だが。


皐月の端末に表示される数値は、これまでと違う波形を描いていた。


「外部歪曲、安定」


朝霧が安堵の息を吐く。


「じゃあ終わり?」


皐月は首を振る。


「代わりに、内部指標が上昇してる」


ラークが低く問う。


「内部?」


皐月の視線が、ゆっくりと瑛斗に向く。


「個体差がある。特に、揺らぎ適応者」


空気が、少しだけ重くなる。


瑛斗は、何も言わない。


だが胸の第三の色が、いつもより深く沈んでいるのを感じていた。



最初の兆候は、夢だった。


見慣れた公園。


マージが、黒く滲んでいる。


少年が泣いている。


「返して」


誰の声か分からない。


返せ。

奪った。

お前が選んだ。


目が覚める。


汗でシャツが濡れている。


第三の色が、鈍く脈打つ。


朝霧が隣の部屋から顔を出す。


「顔色やばいぞ」


「大丈夫だ」


言葉は軽い。

体は重い。



街では、大きな異変は起きていない。


だが人々の表情が、どこか遠い。


電車の中で、ふと涙ぐむ人。

理由のない焦燥。


皐月が分析する。


「揺らぎが、感情の境界を曖昧にしている」


ラークが眉を寄せる。


「外界の歪曲が収まった代わりに、内面へ沈降したか」


朝霧がぼそりと呟く。


「つまり、心の中で爆発するってこと?」


皐月は頷く。


「個人単位の臨界」


瑛斗の胸が、ひりつく。



公園。


少年は元気だ。


マージも穏やかに光っている。


だが、少年の影が一瞬だけ揺れる。


黒い縁取り。


瑛斗は、はっとする。


「見えたか」


ラークの声。


「一瞬だけだ」


皐月が端末を操作する。


「外部歪曲なし。これは……」


朝霧が低く言う。


「内側の境界が薄くなってる」


人の心と揺らぎの層。


これまで外に滲んでいた余白が、

今は逆に、内側へ流れ込んでいる。



その夜。


最初の崩壊が起きる。


若い女性が、突然叫び出す。


「全部、聞こえる」


周囲の感情が流れ込む。


他人の怒り。

他人の不安。

他人の後悔。


彼女は揺らぎに敏感だった。


祈願スポットの常連。


願いを、何度も重ねていた。


瑛斗が駆けつける。


彼女の周囲で、空気がざわめく。


外には何も出ていない。


すべて、内側で暴れている。


「止めて!」


彼女は頭を抱える。


朝霧が震える声で言う。


「これ、共鳴だ」


皐月が解析する。


「感情フィルターが壊れてる」


ラークが問う。


「救えるか」


瑛斗は、迷わない。


第三の色を、静かに広げる。


彼女の内側へ、触れる。


そこは嵐だった。


無数の声が交錯する。


羨望。怒り。期待。失望。


彼女自身の感情と、街の残響が混ざっている。


「境界を引き直す」


瑛斗は、意識を集中する。


外と内。


他人と自分。


線を、再定義する。


だが。


内側は、外より難しい。


感情は形がない。


切り分ければ、彼女の一部まで削りかねない。


ダークの声が、背後から落ちる。


「内面は、お前の領域ではない」


瑛斗は歯を食いしばる。


「だからこそ、触れる」


第三の色を、刃ではなく膜のように広げる。


包む。


暴れる感情を、押さえつけない。


流す。


彼女の中心へ、静かな核を作る。


「ここが、あなた」


囁く。


他人の声は、外。


あなたの声は、内。


ゆっくりと。


嵐が弱まる。


彼女の呼吸が整う。


倒れ込む。


朝霧が受け止める。


皐月が確認する。


「安定化」


ラークが息を吐く。


ダークは、静かに言う。


「無茶をする」


瑛斗は答えない。



拠点。


空気が重い。


「これ、広がるぞ」


朝霧が言う。


「揺らぎに触れた人ほど、境界が薄い」


皐月が続ける。


「感受性の強い個体から崩れる可能性」


ラークが腕を組む。


「対策は」


瑛斗は、ゆっくりと言う。


「教える」


「何を?」


「境界の引き方」


揺らぎを消すのではない。


感じないようにするのでもない。


感じても、飲まれない。


自分と他人を区別する力。



数日後。


小規模なワークショップが始まる。


名前はつけない。


ただの集まり。


呼吸法。

感情の言語化。

「これは誰の感情か」を問い直す時間。


少年も来る。


マージは静かに光る。


「悲しいときは、どうする?」


瑛斗が問う。


少年は考える。


「マージといる」


「それはいい。でも、悲しいのは誰?」


少年は胸を指す。


「ぼく」


「それでいい」


境界は、線ではない。


意識。


朝霧が横で笑う。


「なんかカウンセラーみたいだな」


皐月が淡く言う。


「合理的介入」


ラークは無言だが、目は柔らかい。



だが。


すべてが救えるわけではない。


ある青年が、自室に閉じこもる。


「外がうるさい」


彼も祈りに触れていた。


揺らぎを、力だと勘違いしていた。


今は、境界が溶けている。


瑛斗が部屋に入る。


暗い。


青年の目は虚ろ。


「全部、自分のせいだろ」


罪悪感が膨張している。


叶わなかった願いの残滓。


瑛斗は、そっと座る。


「違う」


否定はしない。


ただ、線を引く。


「それは、君だけの感情じゃない」


第三の色を、最小限で広げる。


過干渉しない。


彼自身が、線を引けるように。


時間がかかる。


だが。


青年の呼吸が、落ち着く。


「……うるさくない」


小さな声。


成功ではない。


回復の始まり。



夜。


屋上。


ダークが立っている。


「外を守り、内も守るか」


瑛斗は隣に立つ。


「揺らぎは、人の一部だ」


「ならば人は、より脆くなる」


「強くもなる」


ダークは笑う。


「境界を自覚する種は、面白い」


風が吹く。


街の光が瞬く。


光の存在たちは、以前より静かだ。


内面に触れた分、外への過剰な滲みは減っている。


だが代わりに、人々は自分と向き合うことになる。


楽ではない。


だが必要だ。


瑛斗は目を閉じる。


第三の色が、穏やかに灯る。


臨界は越えた。


だが本当の戦いは、内側だ。


外敵ではない。


侵略でもない。


自分と他人の境界。


それを曖昧にする世界で、

どう立つか。


朝日が昇る。


街は動き出す。


誰も知らないまま、

内側の境界を、少しずつ引き直している。


揺らぎは、消えない。


だが飲み込まれもしない。


均衡は、外から内へ。


そして。


物語は、さらに深い層へ潜っていく。

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