第48話「選ばれなかった者たち」
世界が変わるとき、誰もが主役になるわけではない。
多くの人は、理由も知らされないまま、余波を受ける。
選ばれなかった者たち。
だが、彼らが無関係だというわけではなかった。
神奈川県郊外、午前十時二十七分。
古い団地の五階で、少年は机に向かっていた。
年は十五。ノートの端に、意味のない線を引きながら、頭の中の映像を必死に書き留めている。
「……また、同じ夢」
夢の中で、彼は知らない街を歩いていた。
石畳。空を漂う光。耳元で囁く声。
それが目覚めても、消えない。
机の上に置いた鉛筆が、かすかに浮いた。
「……え?」
少年が息を呑んだ瞬間、鉛筆は床に落ちる。
何も起きていない。
だが、確かに“起きかけた”。
同じ頃、別の場所。
大阪の繁華街。
雑踏の中で、女性が立ち尽くしていた。
二十代後半。仕事帰り。
人混みの音が、急に遠ざかる。
視界の端に、見知らぬ影が映る。
角のある、人の形。
「……疲れてるのかな」
瞬きをすると、影は消える。
だが、心臓の鼓動だけが、妙に速い。
世界のあちこちで、同じ現象が起きていた。
夢が現実に染み出す。
想像が、物理に触れかける。
だが、完全には越えない。
境界が、人の中で軋んでいる。
国際連合臨時対策本部では、報告が山のように積み上がっていた。
「原因不明の集団幻視」
「一時的な物理法則の乱れ」
「精神的影響と現実干渉の相関」
丸山は、報告書を閉じ、深く息を吐いた。
「……選ばれたのは、彼だけじゃない」
補佐官が頷く。
「ええ。
ただし、“完全に踏み越えた”のは、彼一人です」
「田中瑛斗……」
名前を口にした瞬間、モニターが一瞬だけ乱れた。
「……今も、観測できているのか」
「ええ。ただし」
補佐官は、言葉を選ぶ。
「彼は、観測される側でありながら、
同時に観測点にもなっています」
丸山は、苦笑した。
「つまり……見られているだけじゃない。
見返している、か」
その頃。
ドラード側、タイガル国南部。
荒野に、魔族たちが集っていた。
数は多くない。だが、全員が古参だ。
「境界が、人に宿った」
魔族の一体が、低く唸る。
「不完全だが、確かだ」
別の魔族が、嗤う。
「ならば、好都合だ。
人の形をしているなら、壊せる」
その言葉に、奥から声が響く。
「浅はかだ」
空気が、凍りついた。
闇の中から、巨大な影が現れる。
翼を持たない。だが、圧倒的な存在感。
魔族たちが、膝をつく。
「デーモンロード……」
ダークは、ゆっくりと歩み出る。
「境界とは、破壊対象ではない」
低く、静かな声。
「利用するものだ」
魔族の一体が、恐る恐る問う。
「では……どうするのです」
ダークは、闇の奥を見る。
「選ばれなかった者たちを、拾い上げる」
「……人間、ですか」
「そうだ」
ダークの口元が、歪む。
「中途半端に境界に触れ、
居場所を失いかけている者たち」
魔族たちは、理解する。
恐怖、不安、疎外感。
それらは、魔にとって最良の“入口”だ。
「境界の子が、世界を繋ごうとするなら」
ダークは言う。
「我々は、裂け目を“内側”から広げる」
一方。
瑛斗は、街を歩いていた。
変装も、護衛もない。
ただの人間の姿で。
「……多すぎる」
皐月が、小さく言う。
「まだ表面化していないだけで、
影響を受けてる人、かなりいる」
瑛斗は、立ち止まる。
ベンチに座る老女。
不安げに空を見る子供。
スマホを握りしめたまま、動かない若者。
誰も、異世界を望んでいない。
ただ、いつもの日常が、少しだけ壊れ始めている。
「……俺は」
瑛斗は、唇を噛む。
「間に合ってるのか」
ラークが、静かに言う。
「完璧ではない。
だが、遅すぎもしない」
そのとき。
瑛斗の視界に、赤い“点”が浮かんだ。
一つではない。
街のあちこちに、灯り始める。
「……魔族の干渉だ」
皐月が、息を呑む。
「もう、始めたんだ……人の心に」
瑛斗は、目を閉じる。
世界の音を、聞く。
恐怖のざわめき。
孤独の震え。
誰にも理解されないという感覚。
「選ばれなかった者たち……」
彼は、拳を握る。
「でも」
目を開く。
「切り捨てる気はない」
第三の色が、静かに広がる。
街全体を包むほどではない。
だが、確実に届く範囲で。
「聞こえる人がいるなら」
瑛斗は、心の中で呟く。
「ここにいる」
遠くで、赤い点の一つが、わずかに揺らいだ。
ダークが、闇の中で目を細める。
「……面白い」
境界の子は、まだ気づいていない。
戦場は、もう“外”ではないことに。
世界は、静かに二つの手に引かれ始めていた。




