第37話「呼び名」
名前は、不思議なものだ。
それ自体に重さはないのに、呼ばれると世界が一歩、こちらへ寄ってくる。
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医療区画。
瑛斗は、窓の外を見ていた。
雲の形が、分からない。
ただ、白い塊が流れている。
「……瑛斗」
その声で、視線がわずかに動く。
皐月だった。
「……今の、分かった?」
瑛斗は、少し考える。
「……呼ばれた」
「……戻ってきた、感じ」
それは、感情の説明としては拙い。
だが――
真実だった。
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解析区画。
「……呼称反応、安定しています」
「第三者では、反応なし」
ラークが、腕を組む。
「……皐月だけか」
パラケルススは、静かに言う。
『“最初に世界を選ばせた者”』
『核は、そこを基点に自己を定義する』
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皐月は、ベッドの横に腰掛けた。
「……ねえ」
「もし」
「私が、呼ばなくなったら」
言葉が、詰まる。
「……どうなる?」
瑛斗は、答えない。
答えられない。
だが――
彼女を見る。
その視線には、かすかな焦点。
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その瞬間。
警報。
だが、いつもと違う。
「……干渉、一点集中」
「対象――」
解析班が、声を震わせる。
「……河合皐月」
空気が、凍る。
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虚界。
ダークは、静かに告げる。
「核は、本人だけでは揺れない」
「なら」
「呼ぶ者を、問う」
空間に、影が伸びる。
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金輝島。
皐月の足元が、歪む。
「……っ!」
重力が、反転する感覚。
瑛斗の胸が、強く脈打つ。
(……だめだ)
(……離すな)
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瑛斗は、初めて自分の意思で立ち上がった。
足が、震える。
世界が、引き留める。
それでも――
一歩。
「……皐月」
声は、弱い。
だが、確か。
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影が、彼女を引きずり込もうとする。
瑛斗は、腕を伸ばす。
触れた瞬間。
世界が、きしむ。
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パラケルススが、叫ぶ。
『……呼べ!』
『名を!』
皐月は、必死に叫び返す。
「瑛斗!」
「田中瑛斗!」
その声が、核に突き刺さる。
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瑛斗の中で、何かが“定まる”。
(……俺は)
(……呼ばれてる)
選択核が、安定波形を描く。
影が、弾き飛ばされる。
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皐月は、床に崩れ落ちた。
瑛斗が、抱き止める。
「……大丈夫?」
その言葉。
心配。
感情が、確かにそこにあった。
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司令部。
松田首相は、拳を握る。
「……彼は」
「まだ、人だ」
「……だからこそ」
「狙われる」
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虚界。
ダークは、初めて不機嫌そうに息を吐いた。
「……なるほど」
「名前か」
「なら」
「次は――」
「名を奪う」
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金輝島。
夜。
皐月は、瑛斗の隣に座っていた。
「……呼ぶよ」
「何度でも」
瑛斗は、ゆっくり頷く。
「……ありがとう」
その言葉に、確かな温度。
人である証は、まだ、ここにあった。




