名もなき夜に
逃げた。とにかく、走った。
翼が軋み、呼吸は荒れ、何度も地面に足を取られそうになりながら――
けれど、助けられた。
鋼の脚を持つ「誰か」に抱きかかえられて。
いつの間にか、どこかの廃ビルの屋上にいた。街の端、人気のない場所。
冷たい風が吹いている。鉄の匂いと、甘ったるいガムの匂いが混じっていた。
隣には、フードを深くかぶった人影が一人。
その人が敵じゃないってことだけが、なぜか分かった。
「……お前名前は?」
そう聞いても、何も言わない。ただ、ぬるくなった缶コーヒーを差し出してきた。
「……」
中身は微糖。思わず笑いそうになる。
すごく、今の気分に合っていた。
しばらく、沈黙が続いた。
俺が訊いても、相手は話さない。でも、離れようとはしなかった。
鋼の足。無言。だけど、僕を助けた。
だから、少しだけ勇気を出して訊いた。
「……名前、ないの?」
フードの奥で、かすかに首が縦に振られる。
「……じゃあさ、つけていい?」
ちょっとだけ、首が傾いて。拒まれてはいないってわかった。
思いつきだったけど、なんとなく、ぴったりだった。
「“イオ”……どう?」
風が吹く中、ほんの少しだけ頷いた気がした。
それが、この人の名前になった。
それから彼/彼女は――イオになった。
ドヤ街。
誰が名づけたのかもわからない、そんな名前の場所。
治安も悪いし、明るくもない。
でも、黙っていれば誰も追い出さない街。
イオと一緒に、俺たちはそこに隠れた。
最初のうちは、言葉も少なくて、何を考えてるのか分からなかったけど……
一緒に何日か過ごすうちに、少しずつ、ぽろぽろと話してくれるようになった。
屋上で缶詰を分け合っていたある夜、イオがふいに言った。
「……この街にいるやつらって、みんな何かを抱えてるんだよ」
「なにか?」
「嘘だったり、過去の罪だったり、見られたくない鋼だったり。
だから、誰も干渉しない。話しかけない。――そのほうが、生きやすいから」
そう言うイオの顔は、やっぱりどこか子どもっぽくて、大人っぽかった。
「イオもそうなの?」
「……僕も昔、名前があったよ。忘れたけど」
「自分の名前を?」
「忘れたほうが、生きやすいから。
名前って、思い出すものじゃなくて、与えられるものなんだよ。たぶん」
そう言って、イオは俺の顔を見た。
フードの奥、はじめて目が合った。
その目は、たぶん俺を、名付け親として見ていた。
イオとの一週間の逃避生活は、不思議な感覚だった。
たとえば、古びた自販機の裏で雨宿りしたり、使われていない公園の遊具の下で寝たり。
コンビニの廃棄パンを分け合って、缶コーヒーの温度で朝と夜を知ったり。
ひとつひとつはバカみたいに小さなことだけど、
その全部が「生き延びた」証拠だった。
そんなある晩。屋上で寝転がって、僕は言った。
「……翼があっても、空って遠いよな」
イオが隣で、風に揺れるポニーテールを押さえながら言った。
「飛ばなきゃいい。跳べれば、たいていなんとかなる」
「それ、持論?」
「……僕の先生の受け売り」
「先生?」
「もういないけどね」
少しだけ、寂しそうに笑った。
だから俺は、それ以上は聞かなかった。
ただ、俺たちは少し似てる――そう思った。
どこかに居場所がなくて、名前も過去も歪んでて。
同じ穴のムジナ。
でも、だからこそ、一緒にいられる。
ある日、いつものように缶を探しに出た帰り。
街の奥で、パトカーのライトが見えた。
イオがすぐに察して、僕の手を強く引いた。
「見られた。逃げるよ」
雑踏にまぎれて、裏路地に身を潜めたけど――追手の足音は、すぐそこに迫っていた。
「ごめん……俺のせいだ……!」
「黙って。まだ撒ける」
イオの手は、鋼の脚よりもずっと温かかった。
でも、もう逃げ場はなかった。
周りは囲まれ、上にも逃げ場はなく、イオのジャンプで逃げることも不可能だった。
そう思った、そのときだった。
「――そこをどいてくれ」
白衣の男が、風のように現れた。透き通る右目が、光を放っていた。
「ここは危ない。ついてきてもらおう。」
そう言った彼は、ドローンを一瞥すると、煙幕を投げてくれた。
逃げ道を示し、手際よく包帯を取り出しながら言った。
「君たち、カナグモに来るべきだ。……特に、君は」
俺を見つめるその目は、声のトーンに対して、すごく優しかった。
イオは僕の隣に立っていた。少し離れて。
でも、確かに隣に。
港の背中を追って、路地を抜け、ビルを越える。
その先にあるという――“カナグモ”という場所へ。
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