逃走と出会い
──ピンポーン。
突然、玄関のドアベルが鳴った。
息が止まる。
見られるという恐怖が、いま確かに迫ってきている。
「……っ」
心臓が、弾けたように跳ねる。
こんな時間に、誰が来る。何の用だ。なぜ俺の部屋に。
ハルキは瞬時に立ち上がり、足音を立てないようドアに近づく。背中に背負ったそれ――鋼の翼が、壁に擦れる音さえ恐ろしい。息を潜めて、ドアスコープを覗いた。
見えたのは、スーツ姿の男だった。片手には書類と数枚のポスター。目線を動かしながら、どこかの住民票でも確認しているのか、玄関先でなにかメモを取っていた。
――役所?警察?
いや、見覚えがある。数日前、駅前で配っていたポスターの一部だった。
「鋼症者に関する目撃情報を募集しています」
そう、奴は“公務員”だ。鋼症者を見つけ出すために、扉を一つずつ叩いている。
(……なんで今、ここに……!?)
頭が焼けるように熱くなった。
脳内で、思考が爆発的に加速する。
(隠れなきゃ。音出すな。姿見せるな。息すら……!)
翼がバサリと小さく震える。まずい、制御できない。とにかく後ろへ、引き離して、見えない位置へ――!
ノック音はなかった。ただ、しばらくして足音が遠ざかっていく。
去った。なんとかやりすごした。
「……ふぅ……っ、あぶ、ね……」
部屋に戻ると、全身の力が抜ける。汗でTシャツが背中に張り付き、息が荒い。
もう限界だった。こんな生活、もう1週間以上続いている。
翼の隠し方を考え続け、バッグを改造したり、折り畳めないかと試したり。無駄だった。
高校も欠席し続け、貯金も底を尽き、プリントを届けに来たクラスメイトには何度か居留守を使った。ドアチェーン越しに数言交わすだけで、誤魔化すのが精一杯だった。
(このままじゃ……)
ハルキは、ふらつく足で台所へ向かい、包丁を取り出す。
翼の根元へと手を伸ばし、包丁の刃を当てる。震える。
「……これが、なけりゃ……」
声にならない。目が潤む。
歯を食いしばり、力を込めて――
ギィンッ!
甲高い金属音と共に、刃が折れた。反動で包丁が床に跳ね、転がる。
「ッ……はは……」
力が抜け、膝をつく。切れるわけがない。これは肉じゃない、鋼だ。
希望は断ち切れず、絶望だけが積もっていく。
それから8日目。
貯金は尽き、冷蔵庫も空っぽになった。誰にも頼れず、ただ息をするように生きていた。
そしてその日も、プリントを届けにクラスの生徒が来た。
ドアチェーンをかけたまま、ほんのわずかだけ開けて受け取る――その瞬間だった。
風が吹いた。小さく扉が揺れた。
そして、翼がわずかに覗いたことに、ハルキは気づいていなかった。
日は落ち、辺りが暗くなったころ。
カーテンの隙間から、赤と青の光がチラついていた。
何台もの車が路地を塞ぎ、部屋の前は異様な空気に包まれていた。
「……まさか……」
ドアの前も騒がしい。誰かが話している。重い足音。無線の音。
ハルキはドアスコープを覗いた。
いた。制服姿の警察官数名と、見覚えのあるクラスメイト。
――通報された。見られたんだ。
(まずい、逃げなきゃ)
スマホと財布をポケットに押し込み、部屋を駆ける。
窓を開け、夜の冷気が肌を叩く。
「……俺は……飛べる……俺は――!」
足場を蹴る。翼が揺れる。
だが飛ばなかった。落ちた。
二階からの落下は思ったより痛かった。足を強く打ち、激痛が走る。
「ッ……くそ……ッ!」
叫びを噛み殺しながら走る。人々の悲鳴、怒号。
「なんだあれ!?」
「警察!警察呼んで!」
「鋼症者だ、逃げろッ!」
追われる。路地に逃げ込む。息が切れる。足が動かない。
そして――袋小路。もう逃げ場はない。
警察官たちが銃を構え、声を張り上げる。
「動くな!大人しくしろ!」
「攻撃する気か!?銃を撃つぞ!」
「違う……俺は……違う……ッ!」
そのときだった。
翼が、意志を持ったように震えた。金属の羽が僅かに動く。
次の瞬間、銃声が響いた――
――空から、誰かが落ちてきた。
ハルキの前に飛び込んだその影が、銃弾を弾き、跳ねた。
着地と共に、鋼の脚部が路面を砕き、もう一度、大きく跳ねる。
ハルキの身体がその人物に抱きかかえられ、次の瞬間には視界が跳んだ。
――空を、翔んでいる。
「……だ、れ……」
フードを深く被ったその人物は、何も答えない。
だがその脚は、確かに鋼でできていた。
鋼の鳥が、夜の闇に紛れて消えていく。
飛べない鳥を、背負ったまま。
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