異母姉の代わりに嫁いだら、お相手の伯爵様が人面犬だった。 〜笑ってはいけない政略結婚〜
今日初めて会ったばかりの実の父親は、サインした書類を執事に渡すとこう言った。
「手続きが終わったら、おまえは正式に男爵令嬢になる。すぐに嫁いでもらうから、支度をしておくように」
準備といわれても、何をすればいいのかさっぱりだ。
いろいろ聞きたいことはあったが、どうもあたしの実の父親という人は、そんなに親しみやすいタイプじゃなさそうだ。黙って頷いておくことにした。
「エレナちゃん、ごめんなさい……。わたしが、わたしがいけないの」
黒髪の儚げな美少女が、目に涙を溜めて訴える。
紹介されたばかりの、あたしの異母姉だ。
「別に……ええと、ナターリアさん? のせいってわけじゃ」
「いいえ、わたしのせいよ。わたし、どうしても化物伯爵様に会うのが恐ろしくて……。それにわたし、セシリオ殿……お慕いしている方がいるんです。……でも、今日会ったばかりの妹に、こんなこと……」
ナターリアは顔を覆う。
「ナターリア、おまえのせいではないと言ったろう。それに、この結婚はエレナも望んでいることなんだ」
男爵は、なんとか言えという目線をあたしに送った。
「エレナちゃん、本当に……?」
「あ、えっと、そうです! お役に立てて光栄、みたいなー」
「まあ……!」
ナターリアは大げさに喜んだ。
「エレナちゃん、なんて良い子なのかしら。わたし、あなたみたいな妹ができて幸せだわ」
あたしをよそに、良かった、良かったと盛り上がる親子。いったいどこまで本気で言っているんだろうか……。
もちろん、あたしには初対面の姉の役に立ちたい、なんて願望などない。
あたしがこの人たちに求めるのは、一にも二にもお金だ。
男爵家からの使いがやってきたときは、新手の詐欺だと思った。
あたしの父がどこかのお貴族様だというのは聞いていた。だけど、タイミングからしてそうとしか思えなかった。
それは女手ひとつで育ててくれた母さんが、病気で倒れてしまった時だった。
生活費はあたしの稼ぎでなんとかなるにしても、治療費は高額でとても払える額じゃない。
そこに男爵家の使いを名乗る人がやってきて、母親の治療費と生活費を援助する代わりに、男爵家の娘になれと言うのだ。
母さんが床に伏せっていて事実を確認できないのを良いことに、あたしを売り飛ばそうって魂胆だと思った。
すぐに追い返したけど、次は医者を連れてやってきた。
当面の生活費だと言ってなかなかの額のお金を渡され、男爵家に来ればもっと良い環境に母親を移すと言われて、折れるしかなかった。
「政略結婚?!」
「はい、旦那様の事業の支援をしてくださる条件で、結婚を打診されたのです」
男爵家の使いの男が説明した。
「失敗できない事業なのに、当時の支援者が急に支援を打ち切ると言い出して。そこへ伯爵様からの話があったのです」
男爵としては断りたくない縁談ってわけか。
「あれ、でも縁談が来たってことは、男爵様には娘がいるんじゃないの」
「……ナターリア様という、エレナ様の姉にあたる方がいらっしゃいます。ですが……」
「嫌がったと」
なんとなく読めてきた。
断れない縁談なら、無理にでも娘を嫁がせたいだろう。だけど、それができないってことは。
「お相手に、問題があるんだね」
使いの男はしぶしふと事情を打ち明けた。
お相手はカーネリア伯爵のレオナルドという人だそうだ。
伯爵家は裕福で、伯爵本人も若いのに優秀で人柄も良いと評価されているんだとか。
本来なら縁談も引く手数多のはずだった。
だけど五年前、状況は一変した。
魔女の呪いを受けて、見るも恐ろしい姿になったというのだ。
呪いは真実の愛の口づけで解けるというが、姿を目にした令嬢たちは、恐怖に叫ぶか失神するかでそれどころではなかった。
以来、縁談は断られ続け、下位貴族や裕福な庶民階級も視野にお相手を探していたところ、男爵が支援者を探していると知り、白羽の矢を立てたのだ。
だが化物伯爵の噂を知るナターリアは拒み、男爵は娘可愛さに強く言えないでいた。そのときふと、あたしの存在を思い出した。
まあ、何か事情があって男爵家に入れたいのだとは思ってたけどさ、
「そういうの、最初に言っておいて欲しいんだけど」
使いの男はスッと目を逸らした。
やっぱり詐欺じゃないか!
男爵家にいる間、男爵夫人とは一度も顔を合わせなかった。
生まれたばかりの娘がいるのに浮気をして外で子供を作ったことが、いまだに許せないらしい。
母さんは、あいつは最低男だから死んでも支援を受けたくないって言ってたから、独身だと偽って浮気をしていたのかも。
母さんの気持ちを無視したことになってごめん。
だけど後悔はしていない。母さんが死ぬより酷いことなんかないから。
伯爵家に到着すると、ひとりの淑女が出迎えてくれた。
「シンミアーノ男爵家のエレナ様ですね。お待ちしておりました。侍女のソフィアと申します」
「エレナです。お世話になります」
ペコリと庶民らしく頭を下げた。
男爵家にいた三日間、最低限の貴族のマナーを教え込まれたが、所詮は付け焼き刃だ。
あたしは早々に諦め、素のままでいこうと決意した。
これでは伯爵の妻は務まらないと断られるなら、その時はその時。どうせ取り繕ってもそのうちボロが出るに決まってる。
ソフィアさんはあたしの態度を気にした風もなく、客間に案内してくれた。
「旦那様はいつでもお会いになられます。少し休憩してからになさいますか」
覚悟はできているかと聞きたいんだろう。
あたしは意を決して返事をした。
「すぐに会います」
書斎のようなところに案内された。
机のある場所と入り口までの間に布で仕切りがされている。
「君がエレナか」
布の向こうから、声がした。
「私がカーネリア伯、レオナルドだ」
知的でよく通る、きれいな声だった。
化物の姿をしているというが、心は理性的な人のようだ。
あたしは少し、緊張を緩めた。
「エレナです。これからお世話になります」
「ああ、君は妻となる覚悟をしてきてくれたのだな。男爵には無理強いをするような物言いになってしまって、申し訳ないことをした。事業提携の件なら継続するから心配いらない。もし君が私の姿をどうしても受け入れられないなら、遠慮せずに断ってくれ」
評判通り、いい人のようだ。
こんな立派な人なのに、縁談に恵まれなかったのは、やはり姿形がよほど恐ろしいのか。
「エレナ様、恐ろしいと思ったなら、遠慮なくわたくしに助けを求めてください」
そう言ってソフィアは手を握ってくれた。
仕切りの布が取り払われていく。
鼓動を鎮めようと胸を押さえつつ、様子を見守る。
伯爵の机の上に、その姿はあった。
見たことない、といえば見たことはないが、完全に未知のものかといえばそうでもなかった。
似ている生き物を挙げるとすれば、街中でもよく見かける四つ足の生き物。そう、犬だ。
街で見かける野良たちよりはよっぽど毛艶がよく、ふっくらとして尻尾もピンと上を向いているから、いいところに飼われている犬だ。
奇妙なのは、首から上の部分だった。
そこだけ急に人間だった。
遠い昔の神話のおはなしでは、上半身が人間で、下半身が馬の生き物がいたそうだ。
だけどこれはちょっと、あんまりなバランスではないだろうか。
顔だけ人。
しかもその顔が大変見目麗しい青年で、奇妙さに拍車をかけていた。
「エレナ様……?」
あたしの体の震えに気づいたソフィアが、心配そうに覗き込んでくる。
だめ、堪えて……。
そう願っても、体が言うこときかない。
「やはりダメか……仕切りを閉じてくれ」
顔だけ人間の口から、麗しい声が聞こえた瞬間、堪えきれなくなった。
「あーっはっはっはっはっはっはっはっ!」
あたしはお腹を抱えて爆笑した。
だって無理……。
ワンちゃんの体に美男子の顔が乗っかってるなんて。
失礼すぎるから、絶対笑わないようにしようと抑えてたのに。
めちゃくちゃ素敵な声で切なげに言葉を発するという畳み掛けで、もうダメだった。
笑い転げるあたしを見て、
「このパターンは……はじめてだな」
呆然と呟く伯爵様の美声に、あたしはさらに爆笑する。
結局息切れを起こすまで笑い続けてしまった。
「あまりの恐ろしさに、気が触れたのかと思いました」
笑い続けるあたしを落ち着けようと、客間に帰してくれたソフィアがお茶を注いでくれた。
ありがたく頂戴し、笑いすぎてカラカラになった喉を潤した。
「だって……あれは反則……だめだ、思い出したらまた笑えてきた」
引き攣る腹筋を押しとどめる。
「他のご令嬢は、怯えて泣いたり青ざめたりされたのですが……旦那様が怖いわけではないのですか」
「怖くはないよ」
そりゃ、暗闇から突然顔を出されたりしたら怖いだろうけど、普通に言葉も通じるし、問題はない。
「ソフィアだって、伯爵様が怖いわけではないんだよね」
「それは、以前からお仕えしている方ですから。お気の毒には思いますが」
あたしはソフィアに、気になっていた疑問をぶつけてみた。
「ソフィアはあたしが庶民育ちの名ばかりの男爵令嬢だって知ってる?」
「はい、簡単な事情は男爵家から」
男爵からの情報ということなら、庶子だという事実以外は、都合よく曲げて伝えられているかもしれない。
「あたし、ここに来る三日前まで庶民として暮らしてたし、学もないし、男爵家のことも貴族のことも何も知らないんだけど。そんな嫁じゃあ伯爵様が迷惑じゃない?」
「そうでしたか……でも、心配はないと思いますよ。伯爵様は当主としての責任感から伴侶を探しておられましたが、あの状態ですから、ほとんど諦めていらっしゃったんです。エレナ様は庶子とはいえ、シンミアーノ男爵がお認めになった歴とした男爵令嬢です。伯爵様も問題ないと判断されたから、ナターリア様の代わりにエレナ様をという話に同意されたはずです」
この際お嫁さんに来てくれるなら誰でも良かったってわけね。だったらなおさら気になる。
「ソフィアはどうなの?」
「わたくしが、なんでしょうか?」
「見た感じ、ソフィアもお嬢様だよね。伯爵様を見ても怖くはないんだよね。じゃああたしより伯爵様に釣り合ってるんじゃない?」
「わたくしは既婚者ですから」
「そう。でも侍女はソフィアだけじゃないんでしょう?」
人が何かを怖がるのは、知らないもの、どう対処していいかわからないものだからだ。
貴族の妻はこうあらんと厳しく育てられた令嬢であればなおさら、奇妙な姿をした見知らぬ相手との縁談に怯えもするだろう。
だけど、伯爵様に仕える人なら、怖がりはしないだろう。だって伯爵のことを知っていて、中身は化物じゃないとわかっているんだから。
「おっしゃりたいことはわかります。ですが、わたくしども使用人は、旦那様を大切に思っているからこそ、その提案はしないでしょう。あのお姿になってから、態度を変えた者がどれほどいるか。わたくしどもだけでも、以前と変わらずにお仕えしたいのです」
伯爵様は使用人たちからとても慕われているようだ。
どうしてそんないい人が、呪いなんかにかけられたんだろう。不思議だ。
「エレナ様は、旦那様と結婚してもかまわないのですか。かなり取り乱されていましたが」
「そ、それは……ちょっと笑いのツボがくすぐられちゃうだけで、嫌とかじゃないから」
断っても支援は続けると伯爵様は言ってくれたけど。伯爵様が男爵家に縁談を持ってこなければ、母さんは医者にかることもできなかった。
そう考えると、伯爵様は恩人だ。
もらえるものだけ貰って、はいさよならするのはなんか違う気がする。
「でもヒトの姿を見て笑う失礼な女のことなんて、伯爵様は嫌だよね……?」
顔も見たくないと思われたなら、すぐに立ち去るほかない。
「いいえ! エレナ様が乗り気なら、わたくしが旦那様を説得するから大丈夫です。さっそく旦那様に話してきましょう」
ソフィアはうきうきした様子で出て行った。
だ、大丈夫かなあ。
「では婚姻証明書にサインを」
ソフィアはあのあとすぐに引き返してきて、すぐに結婚手続きをしようと言われた。
あたしが自分の名前をサインをし、伯爵様の分を秘書が代筆する。
こうしてあっけなくあたしと伯爵様は夫婦になった。
数日前のあたしは、思いもしなかっただろう。
まさか自分が伯爵様に嫁ぐなんて。
しかも体が犬で顔が人の伯爵様に。
「あの、伯爵様の妻ってどんなことしたらいいんてす?」
「……そうだな、今後のことは明日二人で話すとしよう。今日はもう疲れただろう。ゆっくり休むといい」
伯爵様は、四本足でとてとてと扉まで歩き、そこで足を止めた。
「レオナルドと」
「はい?」
「夫婦なのだ、伯爵様ではおかしいだろう」
なるほど。
「はい、レオナルド」
「……それでいい」
レオナルドは振り向かずに出て行った。
「エレナ、散歩に出かけよう」
翌日の昼に、レオナルドから声をかけられ、伯爵邸の庭を散策した。
犬の散歩……
思い浮かんだ言葉に吹き出しそうになり、腹筋に力を込める。
「エレナ……笑ってもいいから、変に我慢をしてプルプル震えるのはやめてくれ」
ばれていた。
「綺麗……」
噴水を中心に、色とりどりの薔薇が咲き乱れるエリアに来た。
「ちょうど今が見頃だ」
レオナルドが満足げに尻尾を揺らす。
「父が母を怒らせたとき、ご機嫌取りに造ったバラ園だ」
「ええ?」
こんなすごいものを作っちゃうなんて、義父になる人は、よほど奥さんを愛してるんだろう。
もしくはとんでもなく怒らせたか。
「これなら奥さんも許しただろうね」
「さて、どうだろうか」
レオナルドは意味ありげに微笑む。
雰囲気のある表情と姿のギャップにあたしはまた吹き出してしまった。
「伯爵の妻としての役目だが、私がこの姿だからな。外出の公務は父母が行っているから、君も表に出る必要はない」
義父母は王都に住んでいて、偉い人たちに会う仕事をし、レオナルドが領地の仕事をするという役割分担らしい。
「やむを得ず自宅に人を招いてパーティーを開く場合がある。君は女主人として主催ができるようになってほしい」
「それは大役ですね」
「心配はいらない。私はこの姿を理由にパーティーを断り続けているし、まだ当分はその言い訳ができる。ゆっくり覚えていけばいい」
そのほか、女主人として采配を振いたいなら家政を学んでもいいし、そこはあたしの好きにすればいいという。
貴族の奥様というのはそういう仕事もあるのかと感心したが、あたしが聞きたいのはそういうことではなかった。
「伯爵の妻としての役目はわかったけど、レオナルドの妻としては、何をしたらいいの?」
「私の……?」
レオナルド様が小首を傾げる。また笑いが込み上げてくるが、話が進まないのでひと呼吸して続けた。
「ええとつまり、夫婦としてどう過ごせば良いのかと思って。レオナルドは普通の人と勝手が違うじゃない。夜の営みとかもきっと無理だろうし、だから……」
「夜の……」
レオナルドが頬を染める。
あたしだって口にするのはちょっと恥ずかしいのに、伯爵さまがそんなウブな反応をするなんてずるい。
「あの、あたしが言いたいのは、レオナルドの役に立ちたいってこと。夫婦って、助け合うものでしょう」
「夫婦としての過ごし方か。そうだな、君の言う通り、大事なことだ」
レオナルドは考えるように空を見上げた。
「私としては、君が私のような者に嫁いできてくれただけでも、充分なのだが……」
「あの、レオナルドの呪いが、愛する者の口付けで解けるというのは、本当なの?」
「ああ、その通りだ」
「考えていたんだけど、あたし、レオナルドを愛せるように頑張ってみようと思って」
「ありがたいが……無理はしなくていい」
レオナルドは心配そうに見上げる。
「普通の夫婦でも、恋愛結婚じゃなければ、結婚してからお互いを知っていくものでしょ? それであたし、一日一回、レオナルドに手紙を書こうと思う。そこに、その日レオナルドについて気づいたこと、良いことも悪いことも書くの。きっとひと月もすればいろんなことを知ることができる」
「そうか、では私は……」
レオナルドは近くの薔薇の枝を前足で踏みつけると、茎を千切って咥えてきた。
「一日一回、その日の君に似合う薔薇の花を捧げるとしよう」
満開を迎える前の、美しい一輪だった。
「いいの? ここまで来て薔薇を取ってくるの、大変じゃない?」
「手紙を書くのは難しいが、このくらいはたいしたことじゃない。それに、君に愛を請わねばならないのは私の方だ。より私が努力すべきだな」
姿形は、さっきまでと変わらないおかしさなのに、どこかレオナルドが頼もしく見えた。
あたしたち、うまくやっていけそう。
そんな気がした。
一ヶ月後。
私たちは、どのくらい愛が深まったかを確かめることにした。
「本当にいいのか?」
レオナルドが不安そうに聞いてくる。
「大丈夫」
きっと最初の一日目にはもう、惹かれてはじめていた。
ひと月も待つ必要がないくらいに、レオナルドを想う気持ちは深まっていった。
今でも時々、レオナルドを見て吹き出してしまうけど、それはきっと、その不思議な姿も愛おしいから。
「顔をあげてください、レオナルド」
私はレオナルドの頬を挟むと、口付けを落とした。
変化は、瞬く間だった。
唇を離したときにはもう、レオナルドは人の姿に戻っていた。
「戻っている、人の姿に戻っている!」
レオナルドは涙を滲ませた。
「エレナ、君は最高だ! 愛している」
「きゃっ」
抱きついてくるレオナルドに、私は赤面せずにはいられなかった。
「レオナルド、お願い、一回離れて」
「だめだ、やっと君を抱きしめることができるんだ!」
そうは言っても、今のレオナルドは何も着ていない姿。
離して欲しい、嫌だの押し問答が、使用人たちが何事かと駆け込んでくるまで続いた。
レオナルドはその後、ソフィアにこってり絞られたようだ。
ちょっとかわいそうだけど、あんな恥ずかしいことは二度とごめんだ。
反省して、早く人間らしく服を着る生活に慣れて欲しい。
後日、私とレオナルドは、義父母の元へ結婚の報告に向かった。
そこで仰天の事実を聞かされる。
なんと、レオナルドに呪いをかけたのは、レオナルドのお母様だったのだ。
「まだ結婚したばかりだったのに、夫がが浮気をして、浮気相手が妊娠したから認知してくれって押しかけてきたの。頭にきちゃって、この人に息子ができたら、結婚適齢期になったら化物の姿になるように、って呪いをかけたの」
義母は義父と別れるつもりだったようだ。
結局、浮気相手の妊娠は嘘で、義父の謝罪で、今回だけだと離婚を思い留まったそうだ。
しかしここで、困ったことが起きた。
呪いの内容は、「義父の息子」に向けられたもの。
つまり、義母はこれから生まれる実の息子に呪いをかけてしまったのだ。
「でも良かったじゃない。おかげで運命の相手が見つかったのでしょう?」
義母はそう言ってウインクした。
この人だけは敵に回さないようにしよう。絶対に。
そう心に誓った。
私の淑女教育がようやく人前に立てるレベルになってきた頃、レオナルドは社交活動を再開した。
そうではないかと思っていたが、レオナルドはかなりモテる。
庶子である私はあからさまに嫉妬の対象で、肩をぶつけられたり、足を踏まれたりと、バレない程度に地味な嫌がらせを受けた。
『レオナルドの、今日の良かったところは、すごくモテていて、実際にかっこよくて、私は鼻が高かったところ。ダメだったところは、私がいじめられても気づかなかったところ』
私は今も、レオナルドに手紙を書いている。
ちょっとした愚痴のつもりだったけれど、レオナルドは伯爵夫人が軽く見られていることを問題視した。
「エレナ、結婚式を挙げよう。大々的に」
レオナルドが決意に満ちた表情で言った。
「結婚式、ですか? でも私たち、もう結婚していますよね」
「ああ、だが式は、私の病気療養で先延ばしにしていた。そういうことになってるから大丈夫」
私が軽く見られるのは、式を挙げていないせいもあるかもしれないと、レオナルドは言う。
式も挙げないほどに軽視されている嫁なら、雑に扱っても良いだろうという理屈らしい。
まだまだ貴族の思考にはなじめそうにない。
伯爵家の家格の中でできる、最上級の式を挙げようと張り切って、レオナルドは準備をはじめた。
私も招待状の手配を手伝ったり、ドレスの採寸をしたりと忙しく動き回っている中、男爵から訪問の打診が届いた。
男爵家には、以前からレオナルドを通して母の容態を確認してもらっていた。
今回は母の経過の報告と、式の相談にやってくるそうだ。
男爵は娘のナターリアを連れて伯爵邸を訪れた。
ナターリアには伯爵邸を見てみたいとねだられたそうで、使用人たちに屋敷の案内を任せた。
そして男爵とレオナルドと私の三人で、近況を報告し合った。
母の病気は完治に向かっていて、結婚式にも列席できるそうだ。
では母には早めに伯爵邸に来てもらい、式までゆっくり過ごしてもらおうと話していると、男爵が切り出した。
「エレナ、いや伯爵夫人。申し訳ないが、こちらでマリアを世話して貰えないか」
私が伯爵邸に嫁ぐ前の態度とは打って変わった遠慮がちな物言いに、私は驚いた。
母、マリアの支援をはじめたことで、男爵夫人の機嫌が悪いらしい。
夫が別れたはずの愛人を急に気にかけ始めたのだ。事情があるとはいえ、夫人の立場では不愉快になるのも無理はない。
男爵は、十数年も昔の浮気を、まだ妻が許していないことに気がついて、ご機嫌を取るのに必死なようだ。
母にとっても、伯爵家に来てもらった方がいいだろう。
レオナルドが快諾してくれたので、喜んで提案を受け入れた。
話し合いが終わり、庭を案内しようとレオナルドが男爵を誘った。
二人に付いて行こうとしたところを、ナターリアに呼び止められた。
「エレナちゃん、姉妹水入らずてお話したいわ」
私の目配せで、使用人たちは菓子と紅茶の準備に向かった。
ナターリアを客間に通して、ソフィアには側についていてくれるよう念を押した。
なんとなく嫌な予感がしたのだ。
「エレナちゃん、本当に素敵になったわね。ついこの前まで庶民として暮らしていたなんて、信じられないくらい。伯爵邸ではずいぶん良くしてもらってるみたいで、姉として嬉しいわ」
貴族独特の含みにはまだ慣れないが、なんとなく言葉の端々に棘を感じる。
庶民出のくせにうまくやりやがって、といったところか。
「ありがとうございます。ナターリア嬢」
私は笑顔で流すことにした。
「ところでエレナちゃん、姉妹水入らずで話したいって言ったの、覚えてるかしら」
ナターリアは愛らしい微笑みを崩さないが、言葉には毒が乗りすぎている。
外見の美しさは格別で、仕草も美しく貴族らしいナターリアだが、どうも性格は貴族向きではなさそうだ。
正直すぎるのか、苛立ちが隠しきれていない。
この程度の舌戦なら、庶民育ちの私でも対処できそうだ。
「使用人は主人やお客様の不利益になることを口外したりしません。彼女のことは居ないものとして、自由にお話になって」
「まあ……まあ、ダメよエレナちゃん。そんな風に言っては。伯爵夫人と言われて自惚れてしまったのね。あの人だって、立派な人間なのよ」
ナターリアは何十にも失礼なことを言っているのに気づいているだろうか。
まず、私をエレナちゃんなどと呼ぶのは間違いだろう。
庶民の感覚では妹を名前で呼ぶのは間違っていないが、あの横柄だった男爵でさえ、実の娘の私を伯爵夫人と呼んだのだ。肩書のないただの令嬢の姉が、そんなふうに親しげに呼びかけてはいけないのは想像がつく。
そしてソフィアのことを人間扱いしていないと注意したこと。
私はソフィアの役割を説明しただけで、彼女を蔑むことなど口にしていない。
それに「立派な人間だ」などと言うナターリアの発言こそ、ソフィアを馬鹿にしている。
男爵家ならいざ知らず、伯爵家の上級使用人たちのほとんどは、貴族の子息子女やその係累だ。
一絡げに使用人と片付けていい相手ではない。
もちろん、数ヶ月前までは、私もそんなことは露ほども知らなかった。
何も知らない私に、一からわかりやすく教えてくれた伯爵家の人たちには感謝しかない。
ナターリアは直情的で腹芸のできない性格のようだから、少しの嫌味程度なら付き合おうと思っていたが。
思ったより常識のない人らしい。
それに、何か狙いがありそうだ。
「ごめんなさい、ナターリア嬢がおっしゃる通り、私、庶民の出ですから、知らないことも多いの。いろいろ教えてくださると嬉しいわ。ソフィア、退がっていいわよ」
ソフィアが頭を下げて退出した。
安全を考えればソフィアに居てもらうべきだったが、ナターリアのたくらみをもう少し探っておきたい。
結婚式を控える今、不安要素を潰しておきたかった。
「やっと二人きりになれたわね。エレナちゃん、相手が何を求めてるのか、ちゃんとわかる能力がないと、伯爵夫人は務まらないのよ」
ナターリアは優雅な仕草で紅茶をひとくち飲んだ。
「美しさ、知性、マナー、貴族夫人には多くのことが求められるわ。でも悲観することはないわ。エレナちゃんは庶民の出なのだから、持っていなくても仕方がないもの」
いったい何が言いたいの?
そう思う気持ちを抑えて続きを促す。
「レオナルド様のお話、縁談を断った令嬢たちに聞いたわ。たしかに奇妙なお姿をされていたようだけど、化物だなんて大嘘じゃない。実際にお姿を見た令嬢方も、驚いただけだとおっしゃってたわ。酷い噂を流す方がいたものね」
ナターリアはため息をついた。
「でもね、エレナちゃんもいけないと思うのよ。元々わたしに来ていた縁談なのだから、事実と違ったのなら、ちゃんと報告して、わたしと交代すべきだったのよ」
無茶苦茶な言い分だ。
ナターリアが自分に嫉妬しているのはわかる。
だが、それではまるで、レオナルドとの縁談を受けたかったみたいじゃないか。
「ナターリア嬢、あなた、愛する人がいらっしゃったのでは?」
私の言葉に、ナターリアは動きを止めた。
ずっと浮かべていた穏やかな笑顔が消え、確かな怒りの表情が浮かんでいた。
「エレナちゃん。わたし、あなたがもう少し素直ないい子だったら、仲良くできたと思うのよ」
怒りに震える指先で、ナターリアはカップを持ち上げた。
「ちゃんと反省して、自分が卑しい庶民の愛人の娘だってことを、きちんと理解しましょう。わたしは心が広いから、あなたが身分相応というものを理解すれば、優しくしてあげられるわ」
ナターリアはカップを傾け、頭から紅茶を被った。
そしてカップを叩き落として叫んだ。
「きゃあああああ!」
「これはいったい、どういうことだ?」
ソフィアが連れ戻してくれたのか、ナターリアが大声で悲鳴を上げてすぐに、レオナルドと男爵が駆け込んできた。
ナターリアは床にうずくまり、潤んだ瞳で訴えかける。
「ひどいわ、エレナちゃん。どうしてこんなことを……」
どうやら、私が乱暴を働いたことにしたいらしい。
レオナルドはピクリと眉を動かし、男爵はどうしたものかとおろおろする。
「わたし、あなたを心配しただけなのよ。庶民出のあなたが、伯爵家でちゃんとやって行けるか心配だって。なのにこんなこと……」
「何を言って……」
反論しようとしたところ、レオナルドが私の肩に手を置いて引き止めた。
「ナターリア嬢。すぐに着替えを用意させます。立てますか?」
微笑を浮かべて手を差し伸べるレオナルドをしばし見つめるナターリア。
「え、ええ……」
手をつないだまま、エレナを控えの間に連れていくレオナルド。
私の横を通り過ぎるときに、そっと耳打ちした。
「私に考えがある」
男爵の話によれば、ナターリアは第二王子殿下と懇意にしており、恋仲と囁かれていた。
少々身分に開きがあるが、どこか高位の貴族に養子縁組をしてもらえれば問題ないだろう。
そう考えた男爵は、途中までは娘を応援していたが、様子を探ってみると、どうにも旗色が悪い。
原因は娘の社交界での評判だ。
大きな問題こそ起こさないが、気に入らない令嬢に小さな嫌がらせをしたり、王子のお気に入りであることを笠に着て横柄な態度を取ったりして恨みを買っていた。
王室に仕える者たちはスキャンダルの種になりそうなナターリアに警戒し、第二王子に進言した。
はじめは恋心からナターリアを庇っていた王子だが、しだいに彼女の底意地の悪さが目に付くようになり、ナターリアを遠ざけた。
男爵はナターリアに言動に気を付けるよう言い聞かせていたが、真意は伝わらず、猫を被るのが上手いナターリアに、最後は毎回丸め込まれる始末だった。
王子に捨てられたナターリアは、嫁ぎ先でうまくいっているという私に嫉妬し、なんとか私になり替わろうと画策していたようだ。
ナターリアが少し落ち着いたからと、レオナルドは全員で話し合うことを提案した。
ソファに案内される前から、ナターリアはレオナルドの隣に自ら腰掛け、愛おしそうにレオナルドを見つめている。
「各自、いろいろ言いたいことはあるだろうが、まずはナターリアの言い分を聞こうと思う。ナターリア、君は私に嫁ぎたくなくて、代わりにエレナが来たのだと聞いていたのだけど、事実と異なるというのは本当かな」
「レオナルド様、わたしは誓ってあなたとの結婚を拒むつもりはありませんでした。だってわたしはあなたのことをずっとお慕いしていたんですもの。でも、どうしてもすぐにお返事できない事情があったのです」
ほろりと涙をこぼすナターリア。
「その事情というのは?」
「第二王子殿下に、言い寄られていたのです。わたしには愛する人がいると言ってもお構いなしで……。あなたとの縁談が来たとき、どれだけ嬉しかったことか。でも、この縁談をお受けしてしまったら、嫉妬深い王子殿下から、あなたがどんな嫌がらせを受けることか」
隣の男爵を見れば、目を白黒させている。
事前の情報がなければ、信じてしまいそうになるほど迫真の演技だった。
私の前では怒りと庶民育ちの私への侮りがあったのか。下手な芝居だと眺めていたが、こちらがナターリアの本当の実力のようだ。
「そうか、それはありがたいことだ。だが、第二王子殿下がいくら嫉妬深くても、悪い人物ではないのは確かだ。君を想っておられるのなら、王子妃となるのも良いのではないか」
ナターリアは、顔を覆う。
「だめなのです。王子はわたし以外にも愛するひとがいるようで。最近は別の令嬢にご執心なのです。わたしはあなたへの気持ちで引き裂かれそうになっているのに。こんなことって、あんまりです」
ナターリアは自分が捨てられたのだとは言わない。
そう言えば、自分に非があるのではないかと追及されると考えているのだろう。
鮮やかに王子殿下に全ての責任があるのだと押し付けている。
レオナルド様は、ナターリアの言い分を否定せずに続けた。
「それは気の毒だったね。それで、そんな辛い思いをした君は、どうして客間で紅茶を被ることになったんだろう?」
「わかりません……きっとわたしがエレナちゃんの気に障ることを言ってしまったのがいけないのです。わたしは庶民育ちの彼女が伯爵夫人としてうまくやって行けるか心配で、助言をしようとしていたのです。だけどエレナちゃんにはそれがプレッシャーだったのかもしれません」
「そうか、ならば、私にも責任があるな。エレナが君の助言で激情するほどに心を揺らされたなら、彼女の不安に気付かなかった私のせいだ」
「そんな! レオナルド様は何も悪くありません」
「では、エレナに何か問題があると?」
「問題だなんて……エレナちゃんは何も知らない庶民なだけですもの。わたしはただ、本当に心配なんです。わたしは、妹になら愛するレオナルド様を譲ってもいいと思っていたのに。こんな風に人を傷つけるだなんて。レオナルド様が可愛そうで……」
潤んだ瞳で、レオナルドを見上げるナターリア。
「もしわたしだったら、レオナルド様に恥ずかしくない妻でいられるのに。……ずっと、ずっとお慕いしていたんです」
愛らしい顔で訴えるナターリア。私が陥れようとされている本人でなければ、同情して心を痛めたかもしれない。
「なるほど、話はわかった。ナターリア。だが私には、化物と恐れられた経験があるからね。疑う気持ちが拭えないんだ。その気持ちは真実の愛と言えるだろうか」
「もちろんです! わたしほどあなたを愛している女性などおりませんわ」
「そうか、では証明できるだろうか」
「化物の姿になったあなたに口づけできるかとおっしゃるの。いまあなたは人の姿になっていらっしゃるから、実際に試すことはできないけれど。必ずできると誓いますわ」
「そうではない」
レオナルド様が首を振る。
「もし君が私との婚姻を望むなら、四つ足の化物になった私と、生涯共に暮らさないといけない。それでもかまわないだろうか」
ナターリアは首を傾げた。
「化物のあなたでも愛してほしいとおっしゃるの? もちろんですわ。あなたを心から愛していますもの」
「ナターリア嬢、たとえ話だと思っているね。だが違う。君と私が婚姻した場合に起こる未来の話をしている。私の呪いは、過去にある人が行った浮気について、怒った魔女がかけたものだ。もし私がエレナを捨てて、君を選んだとしたら、魔女は私を許しはしないだろう。君は生涯四つ足の化物を伴侶とすることになる。それでもかまわないか?」
「そんな……」
ナターリアは青ざめた。
「きっと、その魔女を説得すれば、わかってもらえるはずですわ。わたしがあなたをどれほど愛しているのか」
レオナルド様が私の方を向いた。
「エレナにも聞こうか。化物の私でも、君は愛してくれるかい」
「もちろんです」
私は大きく頷いた。
「ああ、でも少し困りますね。またあなたの姿を見て、笑ってしまいそうになったらどうしましょう。生涯笑い転げて生活しないといけないかもしれません」
レオナルドは私の答えを聞いて、満足げに微笑んだ。
「それもまた、楽しいかもしれない」
レオナルド様が立ち上がった。
「どちらがより私のことを愛してくれているか、答えがでたようだね」
「そんな……お待ちください、レオナルド様」
ナターリアが縋り付く。
「式までのあいだに、ナターリアが本当にエレナを祝福する気持ちになれば列席を許しましょう。ですが、このままでは花嫁に害を及ぼすでしょう。男爵、判断はあなたにお任せします」
「寛大なご配慮に感謝いたします」
男爵は恐縮して頭を下げた。
私とレオナルドの結婚式は、王都の教会で盛大に行われた。
国内の多くの貴族が参列し、噂のカップルを一目見たいと詰めかける市民たちにも祝いの品が配られた。
私の話は、ずいぶんと美化されて伝わっているようで、
『化物になった領主様を、真実の愛で救った庶民育ちのお嬢様』
の物語が、王都の本屋では飛ぶように売れているのだとか。
なんだか恥ずかしい。
新婦側の列席者には、私の母のほか、男爵夫妻と私のいとこにあたる、次期男爵家当主がいた。
ナターリアは反省したような態度を取っていたが、それでも男爵は列席させないことにした。
隣国の、厳しい教育で知られる全寮制の学校に留学させたそうだ。
官僚を多く輩出している学校で、そこの卒業者は引く手あまただという。
国を担う人材を多く輩出する学校とあって、不正には敏感だ。
ナターリアは頭の良い娘だ。そこで、性根をたたき直してもらい、その賢さを世のために生かしてもらえれば。そんな男爵の願いが込められた沙汰だった。
男爵夫人は、母の方をできるだけ見ないようにしていたが、私には「おめでとう」とほほ笑んで抱きしめてくれた。
参列者の間を、花びらのシャワーを浴びながら歩く私とレオナルド。
「人の姿に戻って、少し残念なことがあるんだ」
レオナルドが私に囁く。
「そうなの、意外。どんなこと?」
「君を笑わせられなくなったこと」
大真面目な顔でそんなことを言うレオナルドに、私は噴き出した。
「面白い話術を学ぶ必要があるな。道化師でも呼んで習ってみようか」
「もう、こんな時に大笑いさせるのは禁止よ。せっかく綺麗にしてもらったのに、化粧がくずれちゃう」
私はおかしさに流れる涙を拭う。
「そんなことをしなくても、いつだってあの時の姿を思い出して笑えるのに」
「そうかい」
「ええ、それに。無理に笑わせてくれなくていいの。あなたと一緒なら、ずっと楽しいんだから」
レオナルドは破顔して、私を抱き上げた。
湧き起こる歓声に、私たちは笑顔を浮かべる。
きっと、これからも生涯、ずっと面白おかしく暮らせるわ。
あなたがたとえ、どんな姿になったとしても。