第二 五回 ②
ハクヒ敢えて佯り称して南に義君を逃し
インジャ僅かに兵を併せて東に山塞へ赴く
ナオルらが次々に戻ってきて、喪神鬼の猛勇を語った。
「とても手が出ません。奴に勝てるものなど我が軍にはおりません」
セイネンが言った。
「もし全力であの鬼神が突撃してくれば禦ぐのは難しいでしょう。今日は様子見に手合わせしただけのこと、だからすぐに退いたのです。きっとミクケルの到着を待って一挙に勝負をつけようという魂胆。さあ、我らはどんな手を打ちましょう」
みな考え込んで妙案が出ない。とりあえず二十里退いて陣を布いた。初戦は互いに千騎あまりの負傷者を出したに止まった。まずは挨拶といったところ。もちろんこれですむわけもない。
夜、セイネンがやってきて言った。
「今夜のうちにここを引き払ってタロトまで駆けられないものかと思ったのですが、いかがでしょう」
早速諸将を招集して諮れば、ハクヒが言うには、
「兵衆は疲れきっております。無謀な行軍は避けたほうがよいかと思います」
するとナオルが異を唱えて、
「それは相手も同じこと。私はセイネンの案に賛成です」
その後も意見が戦わされたが、議論百出して決定を見ない。最後にはやはりインジャが、
「よし、タロトに急使を送ろう。合流するのだ」
使者には飛生鼠ジュゾウが選ばれた。
「すぐに発ってマタージに報せてくれ。夜半にここを出て、朝にはそちらへ着くだろう」
ジュゾウは承知して即座に出発した。諸将はそれぞれ兵にこれを伝える。
さてジュゾウは騎馬を駆って暗い平原に出た。ところが十里も往かぬうちに、ただならぬ気配を感じて手綱を引いた。耳をすまして辺りを窺えば、どうやら大量の人馬が息をひそめている様子。
「げげっ! ウリャンハタの奴らめ、夜襲をかける気か」
あわてて帰って知らせれば、みな途端に色めき立つ。
「どこにそんな力が残っていたんだ。ジュゾウ、敵の数は判らぬか」
ナオルの問いに答えて言うには、
「月も出ていませんからしかとは判りませんが、尋常の数ではありませんでした」
「さてはミクケルの兵と合流したに違いない。そうでなければイシャンの兵はまさしく鬼神の群れよ」
セイネンが吐き捨てる。インジャが騒ぐ諸将を制して言った。
「ともかく逃げるほかない。篝火はこのままに、一隊ずつ静かに離れることにしよう。まずナオルとジュゾウが、ジョンシ軍二千五百を連れて落ちよ。次にズラベレンの三将が続け。次いでハクヒにフドウ軍千騎を預けよう」
さらに言うには、
「セイネンとタンヤンは、私とともに隷民軍五百を連れて最後に出る。命あらば、南方百里、ツァイバルの地で再び見えようぞ」
諸将は頷いて去る。あとにはセイネン、ハクヒ、タンヤンが残った。と、ハクヒは卒かに拝礼すると言った。
「インジャ様。一時は滅亡の憂き目を見た我がフドウが、今や四氏を統べる勢を築くことができたのも、すべてインジャ様のおかげです。このハクヒは長年お側にお仕えしながら力足らず、何の役にも立ちませんでした。本来なら氏族が壊滅したときに死ぬべき身でありながら、今日まで生き長らえた上に、インジャ様とともに夢を見ることができました。もう思い残すことはありません。どうか生きてみなの夢を叶えてください。ナオルやセイネンをはじめ、ここにいるものはみなインジャ様に夢を託しているのですぞ」
インジャはおおいに驚いてその手を取ると、
「突然何を言いだすのだ、ハクヒ。これからだぞ。ずっとお前を恃みにしているのだ。若い将領が力を振るえるのもお前がいるからだ」
「いえ、私はもう旧い時代のもの。これからさらに雄飛しようとなさるインジャ様には必要ありません。インジャ様、是非ハーンとなられませ」
答えることができずにいると、なおも続けて言うには、
「それも草原にただ一人の大ハーンとなられませ」
そしてもう一度拝礼すると、呆然としているインジャを残して去った。
「……どういうことだ、今のは! セイネン、答えよ!」
「……ハクヒ殿は、ここで死ぬつもりです」
「許さん、そのようなことは許さん! ハクヒを連れて戻れ」
そう喚き散らしているところへ伝令が来て、
「ジョンシ軍、出発しました」
入れ替わりに入ってきたのはズラベレンの兵。
「ズラベレン三千、出発しました」
インジャが返事もできなかったので、いちいちセイネンが答える。
やがて彼方から馬蹄の響きや喊声が聞こえてきた。どこかでウリャンハタの兵に遭遇したのだろう。
「みな、生きて相見えようぞ。ここで一人でも欠ければ私は……」
そこにフドウの伝令が来て告げた。
「フドウ、出発します」
インジャはびくりとして顔を上げると、言うには、
「急ぎハクヒに伝えよ。必ず生きてツァイバルに参れ、と。これは単なる言葉ではない、命令だ」
兵は、インジャの常ならぬ険しい形相に恐れを抱きながら退出した。戻ってそのことをハクヒに伝えると、
「承知」
と、短く答える。
辺りはすでにざわめき、先行した隊が戦闘に入っている様子。ウリャンハタも夜襲の計画が漏れた今となっては躊躇しているときではないので、必死で攻め寄せる。