第二 三回 ②
喪神猛威を奮いてタロト潰走し
妖人冥府に入りてマタージ哭泣す
マタージは、やっとのことで追いついたゴルタが横から手綱を把むまで、後ろも見ずに逃げに逃げた。完敗であった。ばらばらと集まった兵を数えると、すでに十中の三を失っていた。
「イシャンという男、恐るべき将だ」
ゴルタが進言して、
「このたびの戦はいかにもまずいものでした。次は然るべき備えをして臨むべきです。また完敗ともなればいよいよ兵の心は離れ、部族の存亡に関わります」
「うむ、父上に申し上げて兵を送ってもらおう」
そのころタムヤでは、援軍がいとも容易く撃ち破られたと知って、おおいに落胆した。衆議は降伏に決したので、知事ハンマンはイシャンに使者を送った。これを接見したイシャンは答えた。
「認められぬな。帰ってハンマンに伝えよ。草原の民としての矜持があるのなら、刀が折れ、矢が尽きても最後まで抗戦する道を選べとな」
使者はうなだれて帰ると、青い顔でその言葉を伝えた。イシャンが降伏を拒んだのはなぜかと云えば、あっさりタムヤが降ってはかえって具合が悪いからである。
タロト部を完膚なきまで叩くには、さらに敵を誘い出す必要がある。今日破ったのはたかだか一万騎、タロト全軍の半分にも満たない。
マタージはきっとジェチェンに援軍を要請するだろう。それをタムヤに引きつけたところで大カンの中軍と挟撃して殲滅し、かつ手薄になったタロトのアイルを襲ってジェチェンを討ち取ろうというのが策戦の骨子。よってタムヤが落ちるにはまだ早い。
「それにしても弱い。率いるものが違うと、こうも軍というのは脆くなるのか」
かつて妖人ジェチェンに率いられたタロト軍は、無類の強さを誇っていた。ところが今日の戦は、ほぼ一方的にウリャンハタがタロトを追っただけであった。
「つまらぬ。もっと楽しませてもらわんとな」
さて敗報を受けたジェチェンは、長子のチャルトーと次子のマジカンに早馬を送った。チャルトー、マジカンはマタージの実兄で、それぞれ左右一万の軍を率いて叛乱鎮圧に奔走していた。
もちろん頻発する叛乱は神都の暗躍によるものだったが、さすがのジェチェンもそれには気づいていない。
弟の苦境を知った二人はすぐに軍を返すことを決めると、三日のうちにアイルに戻った。そこでさらに五千騎の増援を得て、マタージと合流するべく北上した。
マタージはこれを自ら迎えると本営に招き入れて上座に座らせた。二人とも当然のようにそれぞれ座を占めると尋ねて言った。
「敵の将は何ものか」
「喪神鬼イシャンなるもの。タムヤが落ちるのも旦夕に迫っております。ここは両兄のお力に縋るほかありません」
「聞けば敵軍は一万。我らは今や三万二千。どうして敗れることがあろう。いかに猛将とはいえ為す術もあるまい」
翌日、三兄弟は堂々とタムヤへ進軍した。その威容は辺りを圧し、砂塵を巻き上げて進むさまは上天をも恐れぬ勢い。
イシャンもウラカン軍七千を率いて出撃する。両軍はタムヤの南、ウリヤンバルと呼ばれる平原で対峙した。ウラカン軍の布陣は譬えて云えば錐のごとき陣形。
対するタロト軍は大鵬が翼を広げたかのごとく左右に展開し、敵を包み込まんとする陣形。
中央はマタージが一万二千騎をもって守り、右翼にチャルトー、左翼にマジカンがあって、それぞれ一万騎を従える。
「ははは、ついに敵は全軍が飛び出してきたぞ」
イシャンはまったく臆する様子もなく、全軍に向かって言うには、
「よいか、一気に敵陣の中央を突破する。左右の敵には目もくれるな。ただ俺の背だけを見てついてこい。遅れたものは死ね!」
兵衆はこれに応じておうと喊声を挙げる。旗が振られると、イシャンは得物を高々と掲げて馬腹を蹴った。七千騎がこれに続く。
「来たぞ、無謀な。誘い込んで包囲殲滅せよ」
タロト軍も金鼓を打ち鳴らして、わっと前進する。ここに史上に名高いウリヤンバルの戦いが始まった。
イシャンは躊躇なく、まっすぐにタロトの広げる翼の付け根へと迫った。タロトの両翼がこれを囲むように動く。
「敵は嚢中に陥ったわ」
マタージはそう呟いた途端、驚愕して目を瞠った。
「な、何っ!?」
見ればイシャンを先頭にした七千騎は包囲が完成する前に、早くも中軍の眼前に到達したのである。その勢いたるや疾風のごとく、マタージの予測を遥かに上回っていた。
「ほ、包囲を急げ!」
そう叫ぶ間にもイシャンは中軍に斬り込んできた。
「うまく嚢中に誘い込んだつもりだろうが、錐は嚢を突き破って外に出るぞ。それ進め、進め!」
イシャンは襲い来る敵兵を、手にした槍で突き倒し、薙ぎ払い、まるで行く手に人なきがごとく、まさに鬼神のはたらきで本営に迫る。続くものもこれに感化されたか、一騎当千の猛者と化して突き進んでくる。
「喰い止めろ! ここで喰い止めれば我らの勝ちだぞ!」
マタージが声を嗄らして叫ぶが、当の本人の腰がすでに浮いている。タロト軍の両翼も、あっという間に眼前を過ぎた敵の速さにあわてて、進むものあれば遅れるものもあるという有様で足並みを乱す。