第 三 回 ①
インジャ一たび草原に永えの盟友に遭い
ムウチ二たび天王に芳しき御酒を賜う
メンドゥの妖人ジェチェン・ハーンから意外な提案を受けたエジシは、指を立てて言うには、
「世嗣のインジャについてはすぐにもお連れできましょう。しかしながら母公のほうは近ごろ病に臥せりがちで、とても街を出ることはかないますまい」
とて様子を窺ったが、顔色ひとつ変えない。そこで語を継いで、
「まずはインジャとその従臣をこちらにお連れいたします。母公のほうは病が平癒してからゆるりと呼び寄せる、ということでよろしゅうございますか」
今さらそれではいけないと言えるはずもなく、ジェチェンは鷹揚に頷いて、
「よいよい、委せる」
エジシは丁重に挨拶してその場を辞すと、あれこれ思案しつつ帰途に就いた。
しばらく姿の見えなかったエジシが、久しぶりにムウチを訪ねて言うには、
「ご夫人、インジャ殿も六歳になられましたな」
「はい。幸い大病を患うこともなく、これもエジシ様のおかげです」
「いやいや、すべて天王様の加護の賜物でしょう」
「ありがたいことです。エジシ様も何かとご教授いただいているそうで、お忙しいでしょうにすみません」
するとエジシはたちまち眉を曇らせて、
「いえ、私が教えられるのはつまらないことばかり。フドウ氏の再興にはあまりお役に立てません」
「そんなことは……」
「私は街の民です。草原のことは解りませんから」
「そ、そこはハクヒ殿がいるではありませんか」
エジシはますます険しい顔で言うには、
「私が言うのもおかしいのですが、草原のことは草原で暮らしてみないと解りますまい。このままではインジャ殿は街の民となってしまい、草原の民としては生きられないのではないかと、それが気懸かりです」
それを聞いたムウチは面を伏せると呟いて、
「しかし……、そればかりはどうにもなりますまい」
「いや、ご夫人次第ではインジャ殿を草原の民とすることもできますぞ」
その言葉にはっと顔を上げる。
「私次第で?」
「はい。ただご承知いただけるかどうか」
逡巡するエジシに断乎とした口調で促して言うには、
「インジャのためなら何を躊躇うことがありましょう! お聞かせください」
エジシは居住まいを正すと言うには、
「その前にひとつお尋ねしたいことがございます。そもそもご夫人はフドウ復興の志をいまだにお持ちか」
応えてきっと面を上げると、やや怒気を含んだ調子で、
「ハクヒ殿をはじめ一同、志は変わっておりませぬ」
「とはいえ、草原からフドウ氏の名が消えて久しい。インジャ殿は当年僅か六歳、荷が重過ぎやしませぬか?」
もはやムウチは、明らかに気分を害して言うには、
「何をおっしゃりたいのです?」
「もしご夫人がお望みならばインジャ殿は街の民として平和に暮らすこともできます。何を好んで草原の争いに加わることがありましょう」
「よもやエジシ様がそのようなことをおっしゃるとは……。いやしくも私はフドウ氏族長の妻、そしてインジャは紛れもなくその子なのです。フドウ復興は命を賭しても成さねばならぬ使命、それを己の安泰のために放棄するなど以てのほか、どんな困難があろうと草原を棄てることなどありましょうか」
それを聞いてエジシは俄かに頬を綻ばせると、
「安心しました。失礼ながらご夫人の本心を確かめさせていただきましたぞ。それだけのご決意なら、事の次第をお話ししてもよろしいでしょう」
ムウチはわけがわからず呆気にとられる。
さてさてエジシが何を言い出したかといえば、
「以前、私がタロト部のハーンと懇意にしていることをお話ししたと思います。そのハーンがどこかでインジャ殿の噂を聞きつけて、自らこれを預かろうと発案してくださったのです。ご夫人さえよろしければ、すぐにでもインジャ殿を草原にお連れしますぞ」
「!」
ここまでは実際にあった話。しかしその先はあえて話を曲げて言うには、
「ですが、人に預けるからにはご夫人は同道できませぬ。よってしばらくの間は母子離れ離れということになりますから、ご決意のほどを知りたかったというわけです。インジャ殿はかわいい盛り、定めしご夫人にとっては辛かろうと存じますが、草原の民として生きるには幼いころより草原で暮らさねばなりますまい」
さらに言葉を継いで、
「また将来大事を興すときに、ハーンが後援するともおっしゃっておりました。決して悪い話ではなかろうと思いますが、いかがです? ご承知なさいますか」
ムウチはしばらく考える風であったが、やがて口を開いて言うには、
「その話、ハクヒ殿も知っているのですか? 私の一存では決めかねます」
「いえ。まだ言っておりませんが、最も重要なのはご夫人の意思ですぞ。インジャ殿が成人して力を得るまで別れて暮らさねばなりませんが、それを得心されるかどうかです」
ムウチは毅然として言い放つ。
「ご心配には及びません。私のことなどどうでもよいのです。フドウにとって最良であるというのなら、どうして否やがありましょう」
エジシは莞爾と笑うと、
「それではご夫人の意思も併せて話してみます」
とて引き揚げたが、これを聞いたハクヒが大喜びしたのは言うまでもない。