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草原演義  作者: 秋田大介
巻一
9/782

第 三 回 ①

インジャ一たび草原に(とこし)えの盟友に遭い

ムウチ二たび天王に(かんば)しき御酒を賜う

 メンドゥの妖人ジェチェン・ハーンから意外な提案を受けたエジシは、(ホロー)を立てて言うには、


「世嗣のインジャについてはすぐにもお連れできましょう。しかしながら母公(エケ)のほうは近ごろ病に()せりがちで、とても(バリク)を出ることはかないますまい」


 とて様子を窺ったが、顔色ひとつ変えない。そこで語を継いで、


「まずはインジャとその従臣(コトチン)をこちらにお連れいたします。母公のほうは病が平癒してからゆるりと呼び寄せる、ということでよろしゅうございますか」


 今さらそれではいけないと言えるはずもなく、ジェチェンは鷹揚に頷いて、


「よいよい、(まか)せる」


 エジシは丁重に挨拶してその場を辞すと、あれこれ思案しつつ帰途に就いた。




 しばらく姿(カラア)の見えなかったエジシが、久しぶりにムウチを訪ねて言うには、


「ご夫人、インジャ殿も六歳になられましたな」


はい(ヂェー)。幸い大病を患うこともなく、これもエジシ様のおかげです」


いやいや(ブルウ)、すべて天王(フルムスタ)様の加護の賜物(アブリガ)でしょう」


「ありがたいことです。エジシ様も何かとご教授いただいているそうで、お忙しいでしょうにすみません」


 するとエジシはたちまち(フムスグ)を曇らせて、


いえ(ブルウ)、私が教えられるのはつまらないことばかり。フドウ氏の再興にはあまりお役に立てません」


「そんなことは……」


「私は(バリク)の民です。草原のこと(ケエリイン・ウィレ)は解りませんから」


「そ、そこはハクヒ殿がいるではありませんか」


 エジシはますます険しい(ヌル)で言うには、


「私が言うのもおかしいのですが、草原のことは草原(ケエル)で暮らしてみないと解りますまい。このままではインジャ殿は(バリク)の民となってしまい、草原の民としては生きられないのではないかと、それが気懸かりです」


 それを聞いたムウチは面を伏せると呟いて、


「しかし……、そればかりはどうにもなりますまい」


いや(ブルウ)、ご夫人次第ではインジャ殿を草原の民とすることもできますぞ」


 その言葉(ウゲ)にはっと顔を上げる。


「私次第で?」


はい(ヂェー)。ただご承知いただけるかどうか」


 逡巡するエジシに断乎とした口調で(うなが)して言うには、


「インジャのためなら何を躊躇(ためら)うことがありましょう! お聞かせください」


 エジシは居住まいを正すと言うには、


「その前にひとつお尋ねしたいことがございます。そもそもご夫人はフドウ復興の(オロ)をいまだにお持ちか」


 応えてきっと面を上げると、やや怒気を含んだ調子で、


「ハクヒ殿をはじめ一同、志は変わっておりませぬ」


「とはいえ、草原(ミノウル)からフドウ氏の名が消えて久しい。インジャ殿は当年僅か六歳、荷が重過ぎやしませぬか?」


 もはやムウチは、明らかに気分を害して言うには、


「何をおっしゃりたいのです?」


「もしご夫人がお望みならばインジャ殿は(バリク)の民として平和(ヘンケ)に暮らすこともできます。何を好んで草原の争い(ブルガルドゥアン)に加わることがありましょう」


「よもやエジシ様がそのようなことをおっしゃるとは……。いやしくも私はフドウ氏族長(ノヤン)(エメ)、そしてインジャは(まぎ)れもなくその(クウ)なのです。フドウ復興は(アミン)を賭しても成さねばならぬ使命、それを己の安泰のために放棄するなど以てのほか、どんな困難があろうと草原を棄てることなどありましょうか」


 それを聞いてエジシは俄かに(ハツァル)(ほころ)ばせると、


「安心しました。失礼(ヨスグイ)ながらご夫人の本心(カダガトゥ)を確かめさせていただきましたぞ。それだけのご決意なら、事の次第をお話ししてもよろしいでしょう」


 ムウチはわけがわからず呆気にとられる。

 さてさてエジシが何を言い出したかといえば、


「以前、私がタロト部のハーンと懇意(カラウン)にしていることをお話ししたと思います。そのハーンがどこかでインジャ殿の噂を聞きつけて、自らこれを預かろうと発案してくださったのです。ご夫人さえよろしければ、すぐにでもインジャ殿を草原にお連れしますぞ」


「!」


 ここまでは実際にあった話。しかしその先はあえて話を曲げて言うには、


「ですが、人に預けるからにはご夫人は同道できませぬ。よってしばらくの間は母子離れ離れということになりますから、ご決意のほどを知りたかったというわけです。インジャ殿はかわいい盛り、定めしご夫人にとっては辛かろうと存じますが、草原の民として生きる(オスチュ)には幼いころ(バガ・ナス)より草原で暮らさねばなりますまい」


 さらに言葉を継いで、


「また将来大事を興すときに、ハーンが後援(トゥサ)するともおっしゃっておりました。決して悪い話ではなかろうと思いますが、いかがです? ご承知なさいますか」


 ムウチはしばらく考える風であったが、やがて(アマン)を開いて言うには、


「その話、ハクヒ殿も知っているのですか? 私の一存では決めかねます」


いえ(ブルウ)。まだ言っておりませんが、最も重要なのはご夫人の意思ですぞ。インジャ殿が成人して(クチ)を得るまで別れて暮らさねばなりませんが、それを得心されるかどうかです」


 ムウチは毅然として言い放つ。


「ご心配には及びません。私のことなどどうでもよいのです。フドウにとって最良であるというのなら、どうして否やがありましょう」


 エジシは莞爾と笑うと、


「それではご夫人の意思も併せて話してみます」


 とて引き揚げたが、これを聞いたハクヒが大喜びしたのは言うまでもない。

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