第二 三回 ①
喪神猛威を奮いてタロト潰走し
妖人冥府に入りてマタージ哭泣す
凍りついた大地が緩みはじめ、柔らかくなった土を踏んで、初めて人衆は春が近づいたのを実感する。
風はまだ厳冬の余韻を留めているとはいえ、陽射しは漸く暖かくなりゆき、草原の民はひとしく安堵の息を吐きながら無事に春を迎えたことを喜び合う。
狭い冬営地から広々とした平原に移り、いっぱいにアイルを展開させれば、自然と心穏やかになるというもの。
しかし中には春とともに、抑えていた欲望を発露させる輩もいる。メンドゥ河の西、ウリャンハタ部では、ミクケル・カンが諸将を招いて早くも出陣を諮っていた。すでに準備は整っており、あとは大カンの勅命を待つばかり。
「我が忠実なる諸将よ。ついにウリャンハタが草原に覇を唱えるときが回ってきた。いよいよメンドゥを渡る。先鋒はイシャン、副将にチトボ。汝らはウラカン氏、シモウル氏の兵衆一万を率いてタムヤを攻めよ。舟の手配はツォトン」
続けて中軍の陣容。
「スンワ氏、カオエン氏、チダ氏の衆二万は、わしが親ら率いる。ネサク、ダマンの両氏は後軍として留まり、機を覩てタロト部の本営を衝き、妖人を討て。留守陣のことはジャルに委せる」
居並んだ諸将は拱手して退出する。
即日、先鋒のイシャン率いる一万騎は次々と渡河を開始した。主な将を挙げれば、副将チトボのほかにウラカン氏からトゥイン・チノ、マムル、ブル、バクチェ、スク・ベク、シモウル氏からボチュ、ジュゲン、カヂュ、フウテイ、ヤンテ。
いずれも勇名轟く豪のもの、殊に大将たるイシャンは喪神鬼と渾名されるほどの猛将である。河を渡ったウリャンハタ軍は、怒涛のごとくタムヤに押し寄せた。
これを守るのは僅か二千騎。知事のハンマンは肝を潰すと、ほかに良策もなく籠城を決めて急使を発した。タムヤ攻囲の報は、マタージらを愕然とさせた。
「一万だと? ウリャンハタが卒かにメンドゥを渡るとはいったい……」
マタージはジェチェン・ハーンに事の次第を告げて、裁可を仰いだ。かつては妖人と呼ばれ、草原中から恐れられたジェチェンも、すっかり年老いて馬に騎ることすらできなくなっていた。顔には深い皺が幾重にも刻まれ、髪は真っ白である。
しかし眼光のみはいささかも衰えず、狼狽えるマタージを目で制して言うには、
「騒いだところで事態は好転せぬ。諸将を集めよ。敵は一万、それに匹敵する兵はすぐにも集まろう。ゴルタと諮って虱どもをメンドゥに叩きこめ」
これを受けてただちに迎撃軍の編制にかかる。何とか一万騎を揃えると、自ら率いて全軍を叱咤しつつ救援に向かった。
これを知ったイシャンは、口の端に引き攣った笑いを浮かべると言った。
「来たな、小僧。マムル、大カンに報せよ。妖人の不肖の息子はあわてて巣を飛び出したとな」
マムルを行かせると、タムヤにさらに猛攻を加えた。ハンマンはよく堪えてきたが、もはや落城寸前であるのは誰の目にも明らかだった。
マタージ率いるタロト軍が二十里に迫ると、イシャンは攻囲の指揮をチトボに委せて、自らはウラカン軍七千を連れてこれを迎え撃った。両軍は指呼の間にまで近づくと、申し合わせたように足を止めた。マタージが進み出ると詰って言うには、
「ウリャンハタとタロトは、そもそも先祖に仇なく、今に恨みない間柄。しかるに何故メンドゥを渡って我が街を攻めるのか。返答次第では容赦せぬぞ!」
イシャンは冷笑すると、傍らのトゥイン・チノに命じた。
「世間を知らぬ小僧に戦というものを教えてやれ」
トゥインは頷くや、三人張りの強弓をきりりと引き絞った。ぱっと放たれた矢は唸りを挙げてマタージの騎った馬に突き立つ。どうと馬が倒れ、マタージもあっと悲鳴を挙げて落馬した。顔は青ざめ、額には脂汗が浮き出る。
「戦場では気を抜かぬことですな。我が射手は常に貴殿の命を狙っておりますぞ!」
そう言い放つとイシャンは高らかに笑った。兵衆は応じてどっと喊声を挙げる。タロト軍は目に見えて浮足立つ。マタージはよろめきながら、ゴルタに助けられて退く。イシャンは全軍に命じた。
「敵は動揺しているぞ! 戦を知らぬ主将に率いられた不幸を思い知らせてやるがいい!」
旌旗が大きく振られると、七千騎は怒号を挙げて殺到した。タロト軍はマタージ自身が動揺を抑えきれずにいたためにさしたる指揮も仰げず、為す術もなく陣形を崩された。
ゴルタが叱咤して兵をまとめようとしたが攻勢を止めることはできず、あえなく潰走することとなった。イシャンは適当なところで追撃を止めると、悠々とタムヤ攻めに戻った。