第二 一回 ③
チルゲイ草原に機知を運らし虎口を脱し
トシロル遊楼に罵言を放って女禍を招く
漸くミヤーンは、チルゲイの肩を把んで小声で言うには、
「おい、皮裘の話だが、あれはイシで友人に貰ったものではなかったか」
小声のつもりが実はハレルヤにも聞こえていて、黙って耳をすましている。チルゲイは例によって気にする風でもなく、さらりと答えて、
「そうだ。それがどうかしたか」
「いつの間に家宝とか、ハーンに賜ったとかいうことになったんだ?」
すると俄かに呵々大笑、大声で言った。
「ははは、嘘に決まってるではないか!」
ミヤーンもハレルヤもあまりに堂々としているのでおおいに驚く。それにしては澱むことなく実にすらすらと言ったものだ。それを問えば、
「私は武芸の類は知らず、この三寸の舌だけが身を護る得物。あれしきのことは難しいことではない。ただ皮裘が良いものであることは間違いないから、騙したわけではないぞ。もっともさすがにふたつとない代物ではないがね」
また高らかに笑う。
ミヤーンは驚くやら呆れるやらで言うべき言葉も知らない有様。漸く口を開いて、傍らのハレルヤを憚りつつ、
「しかしそのようなこと、ハレルヤ殿に聞かせてよかったのか。族長に告げられたら命が幾つあっても足りぬぞ」
するとその言葉が終わるか終わらないかのうちに、チルゲイは卒かにこれを怒鳴りつけて言うには、
「お前は何と失礼な奴だ! ハレルヤ殿は讒言で人を陥れるような了見の狭い男ではないぞ! しかもそれが損になることが解らぬほど愚かでもない!」
ミヤーンは突然のことに鼻白む。もはや黙っていられず、ハレルヤが間に入って尋ねた。
「真実を告げるのが損になるとはどういうことか」
チルゲイは悲しげな顔で首を振ると、
「まさかハレルヤ殿がこれしきのことが解らぬとは考えられん。きっとミヤーンのためを思って敢えて尋ねているのだろう。いやいや、無礼なことを申した上に気遣いまでしてくださるとは」
にやりと笑うと、俄かに快活に喋りだす。
「まあ、尋ねられたからには答えよう。まず第一に、それを言えば私とミヤーンの首が飛ぶ。次に宝を得たと喜んでいたタルタル様は失望する。さらに、一介の旅人の皮裘に目を奪われた上、それがたいしたものではないとしたらその威信に傷が付く。最後に、そうなったのもハレルヤ殿が二人を連れてきたからだ」
さらに滔々と弁じて、
「さてさて私とミヤーンは命を失い、タルタル様は喜びと威信を失い、ハレルヤ殿は独り恨みを得るばかり。どちらを見ても損ばかりではないか。もし黙っていれば、私とミヤーンは命を得る、タルタル様は宝を得る、ハレルヤ殿は寵を得る、すべてうまくいく。なのに誰が敢えて災いを招くようなことをする。そうだろう?」
やっと口を閉じると、ふふと笑って二人の顔を眺める。ハレルヤは唖然としていたが、やがて笑いだすと言うには、
「いかにもそうだな。なるほど、貴殿はたいした得物をお持ちだ。さぞ重宝しておろう」
「持ち運ぶのには便利がある」
二人はしばらくダルシェに逗留したが、そうするうちに冬になった。ダルシェは厳寒を避けるべく部族を挙げて南下することになった。
「ついに何もせぬまま冬を迎えてしまった」
チルゲイが言えば、ハレルヤは、
「長城はもうすぐ見られるだろう」
「それはどういうことですか」
ミヤーンが問えば、
「今冬は長城の近くに冬営することになった。目の前に長城が見えるはずだ」
これには二人とも大喜び。
ダルシェがその年の冬営地に選んだのは、長城の中ではやや西よりの一角で、切り立った崖のような岩山の上に、長城が延々と築かれている。
岩山の狭間に宿営すれば、厳しい冬の風も避けることができるので、ダナ・ガヂャル(宝の地)と呼ばれているところ。ハレルヤから仔細を聞いて期待に胸を膨らます。
翌日移動を始めて、途中遮るものとてなく無事にダナ・ガヂャルに着いた。そこは聞きしに勝る天然の要害。チルゲイもミヤーンも溜息を漏らしつつ、高くそそり立つ岩山と、その上に築かれた果てしない長城を仰ぎ見る。
しばらくしてチルゲイが言った。
「この向こうは中華か。長城を築いた人衆というのはいかなるものなのか、想像もできんな」
ミヤーンも言うには、
「まことにこんなものが在るとは……。まだ騙されているようだ。もしかしてこれは世界の果てなのではないか。中華の国などなくて、茫漠たる闇か何かが広がっているのではないか。あるいは冥府の入口か。何せここにいる誰もまだ長城の向こうは見てないのだから」
二人はそれぞれの思いに耽ったが、この話はここまでとする。