第二 一回 ②
チルゲイ草原に機知を運らし虎口を脱し
トシロル遊楼に罵言を放って女禍を招く
ミヤーンが思わず聞き返せば、チルゲイが言うには、
「奴らは商旅だろうが軍隊だろうが、獲物と見れば襲いかかって殲滅する。ただ我らのような得るものもない旅人まで襲うのかどうかは知らん。野盗とは違うからな、ひょっとしたら平気かもしれん」
「かもしれんたってなぁ」
「どうせ逃げても同じこと、ここはひとつみやげ話にダルシェのアイルをお騒がせしようか」
すでにその顔には生気が戻り、それどころか口許には笑みさえ浮かんでいる。すっかりもとの何も恐れない奇人。
「俺は嫌だぞ。肝を抜いて喰われるかもしらん」
「まさか。それにもう遅いわ。迎えが来た」
指すほうを見れば、一騎駆けてくるものがある。
「何ならミヤーン、得意の棒であの豪傑を叩き伏せるか?」
チルゲイは軽口を叩く。しかしそれが不可能なことはすぐに判った。その騎馬の武人は何と身の丈八尺を超える偉丈夫。
「好漢、わざわざのお出迎え、恐縮です」
チルゲイは、機先を制して朗らかに声をかけた。馬上の武人は意表を衝かれた様子も、辛うじて威厳を保って言った。
「お前ら、ここで何をしている」
ミヤーンはすっかり怖気づいていたので、チルゲイが答える。
「私はチルゲイと申します。こちらはミヤーン。イシからメンドゥを渡って長城見物に向かうところ。好漢はダルシェの武人とお見受けしましたが」
まるで臆する様子もない。
「いかにも俺はダルシェの先鋒、ハレルヤ。この季節に長城見物とは怪しい奴。ひとまずアイルに来てもらおうか。逆らうとためにならぬぞ」
何とその男はあのハレルヤであった。覚えているだろうか、先にインジャの初陣(注1)においてダルシェと遭遇した際、これと言葉を交わした好漢である。
「もとより逆らう気など毛頭ありません。何も疚しいところがないのに、どうして異存がありましょう」
馬上で拱手して一礼すると、ミヤーンを促してあとに続く。
「お前はダルシェがいかなるものか知らないのか」
ハレルヤが半ば気味悪く思って尋ねる。莞爾と笑って答えて言うには、
「存じておりますとも。ダルシェの勇名は草原にあまねく轟いております」
「知りながらそのような態度を見せるとはお前は頭がおかしいのか」
チルゲイは、さも意外だと言わんばかりに目を瞠ると、
「さてさてなぜでしょう。ダルシェは上天に替わって道を行い、悪逆非道の主を討ちながら自らは牧地にいささかの欲も示さず、東奔西走して義を広め、百戦百勝してただ一度の敗北も知らぬ剽悍な一族。決して一介の旅人を殺して慰みとするような野蛮な部族ではない、ということをよく存じております」
「な、何だと!?」
「お招きを受けて喜びこそすれ、どうして恐れましょう。それとも私が聞き及ぶダルシェは、真のダルシェと違うのでしょうか」
「いや、そんなことは……。お前の言うとおりだ」
やむなくそう答える。チルゲイは笑みを絶やさない。ハレルヤは内心この男はただものではないと思ったので、やや言葉遣いを改めて言った。
「我が族長は珍しい品を殊の外好まれる。覚えておくとよいだろう」
「心遣い恐縮です。覚えておきましょう」
二人はハレルヤに連れられて族長のゲルへ通された。泣く子も黙るダルシェの首魁タルタル・チノは、その名のとおり狼のごとき偉丈夫、高き座にあって二人を睨み据える。
ミヤーンは眉を顰めて横目でチルゲイを窺う。ちなみに眉を顰めるのは彼が困惑したときの癖にほかならない。
ハレルヤが経緯を伝えると、タルタルはぐうと喉を鳴らして言った。
「長城見物だと? 頭がおかしいのか。真意は何じゃ」
「まことに長城を見にいく道中、大君に見えることができたのはまったくの僥倖でございます。ただ心の赴くままに草原に遊ぶもので、何の意図もありませぬ。天王様に誓って虚偽は申しません」
タルタルは狂人を見るような眼を投げかけた。ふとその眼がチルゲイの着ている皮裘に止まる。
「お前の着ているそれは何か由来のあるものか」
瞬間ぱっと顔を輝かせて、
「はい! これこそ狐の腋の毛のみで造られた、草原中を探してもふたつとない代物でございます。父がウリャンハタ部の先代ハーンから賜った家宝、私の唯一の宝でございます」
タルタルはほほうと感嘆の声を挙げる。チルゲイは満面の笑みを湛えて言った。
「大君がお望みなら喜んで献上いたしますが」
「何、まことか!」
「はい、大君ほどの方に貰っていただけるなら光栄です。もとより私には不釣り合いな珍品、大君こそこの宝に相応しい英雄かと存じます」
それを聞いてタルタルはおおいに喜ぶ。掌を返したように機嫌が好くなり、すぐさま酒宴の準備を命じるほど。
「今日から貴殿をダルシェの客人として扱おう。ハレルヤが接待せよ」
二人には別に新しい皮裘を用意したばかりか、駿馬を二頭選んで与えるよう命じた。チルゲイとミヤーンは再拝して謝す。それから盛大な宴となったがくどくどしい話は抜きにして、その夜はハレルヤのゲルに泊まることになった。
(注1)【インジャの初陣】第 四 回④参照。