第二 一回 ①
チルゲイ草原に機知を運らし虎口を脱し
トシロル遊楼に罵言を放って女禍を招く
ミヤーンの家に押しかけて一泊したチルゲイは、翌朝早く目が覚めた。
庭のほうから、えいっ、やぁっ、とかけ声が聞こえる。さてはそのせいで起こされたのだなと思い、何ごとかと表に出てみればミヤーンが棒を振るっている。チルゲイが見ているのにも気づかぬ様子。
ほほうとチルゲイは感心する。正心の構えから繰り出される技の数々は変幻自在、転変万化、無窮の連環といったところ。
しかしやがてチルゲイは笑いだす。というのもどこかおかしいのだ。ミヤーンが懸命になればなるほど何やら滑稽なのである。それで漸く気づいたミヤーンは、手を休めて言った。
「おお、見られていたか」
「おお、ではない。朝からえいやあ、えいやあ、おかげで目が覚めたわ」
「悪かったな。……それより何を笑った」
「何を? ああ、君の棒術、どこか滑稽で……」
これには憤慨して食ってかかる。
「滑稽だ? 失敬な奴だな。笑うからには君もかなりできるんだろうな」
「いや、あいにく武芸は不心得でな」
「それなら笑うな。だいたい草原の民が武芸ができぬとは何だ……」
ぶつぶつ言いながら中に入ってくる。
「旅先で何かあったら君のその棒が役に立つかもよ」
「もうよいわ」
チルゲイとミヤーンは朝食をすませると、旅の準備にとりかかる。
「まことに行くのか?」
ミヤーンはもうひとつ乗り気ではなかったが、強引に説き伏せてやっと旅装が整う。預けてあった馬を出し、轡を並べて渡し場に向かったところ、偶々カトメイに遇った。
「チルゲイではないか、どこへ行く?」
「おお、カトメイ。ふふふ、聞いて驚け。これから東方見聞の旅に出るのだ」
これを聞いて心の底から驚いたが、また呆れかえって言うには、
「これから冬だというのに無謀な奴だ。やめておけ、河東は治安も悪い」
「心配要らぬ、準備は万端だ。もし野盗に遭ったら、このミヤーンの棒が炸裂するって寸法だ」
カトメイは不審げにミヤーンに一瞥をくれて、
「まあ、お前のことだから心配ないとは思うが……。そうだ、これをやろう」
そう言うと身に着けた皮裘を脱いで、チルゲイに手渡した。
「こんな上等なもの、要らんぞ」
「そう言うな。草原の冬の厳しさはもちろん知っておろう。持っていくがいい」
「じゃ、貰っておこうかな。ありがとう」
いざ、カトメイと別れて舟に乗り込む。ミヤーンは初めて足を踏み入れる東岸への不安と期待に、知らず興奮している様子。もちろんそれはチルゲイも同じこと。
二人はまず長城を目指すことにした。道中は飢えては喰らい、渇いては飲み、夜休み、朝発つお決まりの行程。何日かは格別のこともなく、行けども行けども見渡すかぎりの大草原。
ミヤーンはそれだけで十分驚くに足るらしく、しきりに感心していたが、それにもすぐに慣れてすっかり飽きてしまった。
「それにしても何もないなあ。誰にも遇わんし、帰ろうや」
「何を言う。いいんだよ、誰にも遭わなくて」
そう言いつつ進んでいくと、何やらアイルらしきものが見える。
「おい、ミヤーンが妙なことを言うから、人に逢えそうだぞ」
「野盗の類じゃあるまいね」
「さあな、ここからじゃ判らんよ」
轡を並べて近づく。と、あのチルゲイがはっと息を呑んで、みるみるうちに青ざめる。
「どうした?」
ミヤーンが訝しむ。チルゲイは額に汗すら浮いている。
「おい、あの旗を見ろよ。ありゃ放浪部族ダルシェのもんだぜ」
「ダルシェ? 何だそれは」
「知らんのか。一定の牧地に留まらず、草原中を荒らし回っている連中さ。数は多くないが草原に冠たる強兵を擁している。近年はただ一度を除いて負け知らず。まあ、その一回だって奴らは負けのうちに数えてないだろうよ」
一気にまくしたてたが、ミヤーンは眉間に皺を寄せて言うには、
「待て待て、話がよく解らん。要するに危険なのか?」
ごくりと唾を呑み込んでひと言、
「そうだ」
「逃げたほうがよくないか?」
「判らん」
「は?」