第二 〇回 ④ <ミヤーン登場>
ヒスワ大王に見えて征東の利を説き
チルゲイ部落を離れて疑狐の士に遇う
道中格別のこともなく、イシに着いた。馬を預けてから、これといった当てもないので何となくうろうろしていると、ふと目に付いた男があった。何か思案顔で歩いているが、一見して並のものではない。
その人となりはと云えば、
身の丈は七尺少々、眼は狐のごとく、顎は盾のごとく、双肩は稜線のごとく、四肢は仔羊のごとく、歩くさまは仔牛のごとく、思うさまは童子のごとき尋常ならざる異形の人物。
「やあ、そこの人。何をそんなに考え込んでいるのか」
声をかけると、胡散臭そうに一瞥をくれて再び歩きだす。ますます興が湧いてきて、その行く手を遮るや拱手して挨拶した。
「失礼しました。私はカオエン氏のチルゲイと申すもの。先から何やら思案している様子。よろしければ何をそれほど思い悩んでいるのか私にも教えてください」
すると男は、
「ああ?」
そのひと言で去ろうとする。再び前に回り込んで、
「待て待て、こちらが名乗ったんだから君も名乗るがいい。思索を断って悪かったが、独りで考えるより二人で考えたほうがいいこともあるぞ」
強引に引き止めると、諦め顔で言うには、
「俺はミヤーン。……君、失礼だぞ」
「そうかい。それより何をそんなに考える?」
一向に意に介する様子もない。ミヤーンは溜息を吐く。
「君みたいな奴は苦手なんだ。人の気などおかまいなしか」
「私は君みたいな奴、苦手じゃないぜ」
「わかった、わかった。もうよいからそこの楼に入ろう。そこで話す」
チルゲイは首肯してあとに続く。
さてここで疑問のあるかたもあろう。そもそも草原の民は銀錠を持ってないのではないか、と。しかしご安心あれ、チルゲイは少額ながら持っているのである。
というのも、ウリャンハタ部はイシ、カムタイという二つの街に代官を置く雄族である。街との往来も多く、家によっては多少の貯えがある。
またチルゲイの属するカオエン氏は、ウラカン氏と並んで街との繋がりが深い氏族であるから銀錠はあって当然、ただもちろんチルゲイは家人に無断で拝借してきたのであったが。
それはさておき、二人は楼に入って適当に注文すると、早速酒を酌み交わして改めて名乗り合った。
「では聴こう。何を悩んでいたのか」
「くだらぬことだが重要だぞ。悩み、というものでもないが……」
ミヤーンは眉を顰めて続けて、
「俺は生まれてこの方、イシを出たことがない。噂によるとメンドゥを渡った先には、四方千里とも万里ともつかない大草原が広がっているという。その彼方にはメンドゥを凌駕する大河が流れ、対岸には神都なる巨大な都城があるとか。その先も大地は延々と続き、果てることがない。しかも草原の南には万里に及ぶ石の壁があり、それを超えると百余州を統べる大帝国があって、幾千万もの人衆が暮らしているとか」
チルゲイは頷く。すでに聞き知っていることばかりだ。しかしそこでミヤーンは声を大にして言った。
「だがそれは真か? 騙されているのではないか?」
さすがの奇人も虚を衝かれる。ついには腹を抱えて笑いだした。
「あ、笑ったな。だが君はそれを確かめたのか? 俺はいろいろな人から話を聞いたが、どうも騙されているような気がしてならぬ。万里に及ぶ壁? そんなものがまことにあるのか?」
チルゲイはおかしくてしかたがない。だが同時に感心もして、
「なるほど、なるほど。ミヤーンの言うのももっともだ。私も長城は見たことがない。ははあ、疑問にも思わなかったが、言われてみれば確かにそうだ。神都も、そこから来たと云うものには遇ったが、確かにそこから来たかどうかは判らんなあ」
さもありなんと頷いて、
「そうだろう、君も騙されてるかもしれんぞ。もしかしたら大草原も何もないかもしれん。まして神都や長城など物語に過ぎん」
そう言って杯を傾ける。
チルゲイは愉快な気分になって、ついには高らかに言った。
「よし、確かめに行こう! 大草原も、長城も、神都も、まことにあるかどうか見に行こう!」
ミヤーンは思わず含んだ酒を吹き出した。唖然としてチルゲイの顔を見る。
「何をそんなに驚く。聞いただけじゃ信じられないと言ったのは君だぜ。ならばこの目で確かめればすむことじゃないか」
「君ねぇ、安易に言うけどね……」
「いやいや、案ずるより生むが易しだ。今日は君の家に泊めてもらって、明朝出発しよう。実は来たばかりで宿もないんだ」
そう一方的に宣言して大はしゃぎ。ミヤーンはわけもわからずその調子に乗せられて、瞬く間に旅立つことに決してしまった。
さてこの二人が旅に出たことから、草原に散らばる数多の宿星は俄かにその運行を速め、来たるべき大乱に備えるということになるのだが、果たしていかなる道中になるのか。それは次回で。