第二 〇回 ③ <カントゥカ、ヒラト登場>
ヒスワ大王に見えて征東の利を説き
チルゲイ部落を離れて疑狐の士に遇う
一刻ほどして、ヘカトは酔いを醒ますために表に出た。辺りは暗くなっている。と、何処からか歌が聞こえてくる。
東から黒雲が流れてきたよ
太陽隠れて辺りは真っ暗
みんな浮かれて飲んでるけれど
互いの顔も見えやしない
ヘカトは驚いて目を凝らす。
闇の中から現れたのは何と奇人チルゲイ。やはり長い裾を引き摺ってふらふらと歩いてくる。手に提げた瓶には酒でも入っているのか、ときおり口に運んではぐいぐいと飲んでいる。
チルゲイはヘカトの姿を認めて莞爾と笑った。ヘカトはごくりと唾を呑み込んで言った。
「今の歌はいったい……」
それには答えずに両手をひらひらさせて踊りつつ、高い声でまた歌いはじめて、
即興、即興、
大カンのご英断を祝って思いつくままに
災い、災い、
東に向かう我が友に形見は何を貰おうか
春は出陣の盃、
夏は勝利の風、
秋は草臥の調べ、
冬は屈辱の祈り
ヘカトは今やすっかり青ざめている。はっと気づけばチルゲイは舞うのをやめている。そして卒かに指を突きつけて叫んだ。
「ははは、ウリャンハタに人なしと思ったか!」
それを聞いて跳び上がらんばかりに驚く。チルゲイはそれを見て高笑い。ヘカトは漸く気を取り直して、
「やはり思うままにはいかぬか」
チルゲイはへらへら笑いながら酔眼を向けると、
「さあ、それは知らぬ。大カンの勅命とあらば人衆は死力を尽くそう。万が一、うまくいかないともかぎらない」
「万が一……」
「そう悲観するものでもない。さてさて私は何処に難を避けようか。君も関わらぬほうがよい。見たところ、好んで乱を起こそうという人には見えぬが」
ヘカトは素直に頷く。そして言うには、
「そもそも巻き込まれただけだ。俺は草原の民が街の民の思うとおりに動くわけがないと考えている。だが、ここまでベルダイもウリャンハタも舌先三寸で乗ってきた。ひょっとしたらこのままうまくいってしまうのではないかと思ったとき、君の歌を聞いておおいに驚いたというわけだ」
「草原の民は、街のものが信じているほど単純ではない。まあ、うまいこと言えばだいたいころっと騙される。でも最後には気づくのさ。大カンでなくとも誰かが……。おっと、まあタロトやフドウにしても易々と敗れはしないだろう。とにかく注目、注目。君も深入りせずに注目、注目」
そう言って呵々大笑すると、おぼつかない足取りで去っていく。ヘカトは呆然としてそれを見送った。
翌日、ヒスワら三人は帰途に就いた。まずイシに戻ってツォトンに挨拶し、それから神都へ帰っていったが、くどくどしい話は抜きにする。
さて奇人チルゲイは、ヘカトに宣言したとおり早速旅装を整えると、ヒスワらのあとを追うようにアイルを飛び出した。鞍の左右に大きな酒瓶をぶら下げている。
「冬になるまでにどこかに落ち着かないとなあ」
長い冬が目前に迫っていた。すでに頬に当たる風は鋭さを増しはじめている。
と、背後から馬蹄の響き。あわてずに振り返る。
「何だ、二人揃って」
その言葉のとおり、二人の若者が駆けつける。
ともに一見して並のものではない。
かたや身の丈七尺、尖った髪、濶い額、眼には炎、頬には光、虎のような髭、狼のような肩、胴は大木のごとく、腕は小木のごとく、獅子をも素手で屠る豪力、飛鷹をも叩き落とす俊敏、これぞウリャンハタにその人ありと称される豪力無双の好漢、スンワ氏のカントゥカ。
かたや身の丈七尺半、瞳は虚偽に惑わされぬそれ、唇は意志を曲げぬそれ、頭蓋に智の溢れ、痩身に気の盈ち、天を欺かず、人に欺かれぬウリャンハタにその名轟く知謀の士、カオエン氏のジュン・ヒラト。
「どこへ行くのだ」
そう尋ねたのはヒラト。
「殆うきを避け、再び大地に光が甦るまで身を隠そうと思ってな」
チルゲイはすらすらと嘯く。
「相変わらず気ままな奴だ。それどころではないというのによくもそんな……」
カントゥカが腰の剣をがちゃがちゃ鳴らしながら言う。
臆することなく、答えて言うには、
「まさにそれどころじゃないからなあ。ここに居たら命が危ない」
ヒラトが尋ねて言うには、
「それは征東のことか」
「いかにも。君だってもちろん賛成しないだろう」
あっさりと認めて逆に問えば、躊躇いながらも、
「それはそうだ。とはいえアイルを離れるのは……」
からからと笑ってそれを制すると、
「まあまあ、私一人くらいよかろう。いなくても何の影響もあるまい。君やカントゥカが消えたら大騒ぎだろうが」
と、俄かに表情を改めて言うには、
「ただ命は粗末にするなよ」
カントゥカは荒々しく息を吐くと、
「気楽な奴だ。我らは一線に立って戦うんだぞ」
「だから死ぬなと言っている。つまらん戦で死ぬのは、それこそつまらんからな。ウリャンハタの将来に二人が欠けていたら困る。スク・ベクやシン・セクにもそう伝えておいてくれ」
ヒラトもまた溜息を吐いて、
「お前はいいな、気楽で。わかった、互いに天王様の加護があらんことを」
カントゥカはまだ何か言いたげだったが、促されて馬首を廻らせた。チルゲイはしばらくそれを見送ってから、南へと向かった。