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草原演義  作者: 秋田大介
巻一四
784/785

第一九六回 ④

ムジカ僅かに三語を唱えて急戴白を誘い

サノウ(すみ)やかに両翼を(うなが)して慕兼成を(おとしい)

 梁軍は、洪施が数千の兵とともに残ったほかは、うち揃って(ドブン)を下る。大将軍たる慕兼成も意気揚々と平原(タル・ノタグ)に足を踏み入れた。なかなか進もうとしないヤクマン軍を三方から囲んで、(ノロウ)を押すように北上する。


 それはたちまち北軍の知るところとなる。東西両翼から、それぞれ矮狻猊(わいさんげい)タケチャクと神行公(グユクチ)キセイが駆けつけて報せたからである。サノウは珍しく緊張した面持ちで、ごくりと(シルスン)を飲み込むと言うには、


「いよいよ『(くちばし)』を閉じるときです」


 そのころには第二翼と第四翼の布陣はすっかり完了している。(ウリダ)陣形(バイダル)を伸長して、平原を挟むように向かい合う。中軍(イェケ・ゴル)より銅鑼、金鼓、旌旗(トグ)によって合図が下れば、ヒィ・チノは身震いして白夜叉ミヒチを顧みた。


「ついに『(ゴルミ)』の口を閉じよとの(カラ)だ」


「よもやお忘れではないでしょうが、(チャク)を計らねばいけませんよ」


 するとヒィ・チノは呵々と笑って、


「誰に向かって言っている。軍師の指示はすべて(タルヒ)に入ってるぞ」


「失礼しました。今にも駆けだしそうに見えたので、つい」


「ふん、引き絞った矢とはそういうものだ」


 気を悪くした風もなく(うそぶ)くと、妖豹姫ガネイに命じて、


「お前は(ニドゥ)が良い。敵軍(ブルガ)をよく観てろ。梁の歩卒がもう数百歩も進んで、先を行くヤクマン軍が平原の半ば(ヂアリム)に達する直前に教えてくれ」


わかった(ヂェー)! 観る!」


 ガネイは栗鼠(ケレム)のような円い眼をさらに円くして、目瞬き(ヒルメス)もせずに敵軍を注視する。騎兵と比べて歩卒の行軍はまるで止まっているかのように遅い。ヤクマンの騎兵も駆けないどころか、ともすれば歩卒と入り雑じるほどの遅足(アルハー)。それでも半刻ほど経ったところでガネイが(ダウン)を挙げる。


「ハン!! そろそろだよ! もうすぐ先頭が真ん中まで来るよ!」


 それを聞くや、ヒィ・チノは(もも)をぱんと叩いて、


「よし! いざ豊漁と参ろうか」


 とて、さっと右手を挙げる。一斉に金鼓が打ち鳴らされ、兵衆はわっと喊声を放つ。時を同じくして、(ヂェウン)の第四翼からも割れんばかりの大喊声。


「さあ、行け(ヤブ)!」


 颯爽と命じれば、まさに矢を放つがごとく一斉に飛び出していく。第四翼を率いるカントゥカもヒィ・チノに勝るとも劣らぬ名将、戦機を逃すはずもなく凛然(りんぜん)(注1)と進撃の命を下す。


 かくして東西併せて四万の精兵が南軍目がけて殺到する。馬蹄はエトゥゲンを揺るがし、喊声はテンゲリをどよもす。駆けながら包囲(ボソヂュ)(ドゥグイー)を形成し、さながら網の口を絞るように四方から迫る。


 周章狼狽する南軍を射程に入れると、すばやく弓を構えて矢の(クラ)を降らせる。僅かに応射するものもあったが、俊敏な騎兵を(とら)えるには至らない。かたや北軍から()れば、密集して留まっている歩卒など巨大な(バイ)に等しい。八方を軽快に旋回しつつ、盛んに矢を浴びせて片端から射殺する。


 思わぬ猛攻を受けた梁軍は、為す術もなく数を減じる。とはいえ、北軍の両翼は(ガヂャル)に伏せていたわけでも(エチネ)に隠れていたわけでもない。開戦当初から堂々と姿(カラア)を現している。梁軍が蛮族は怯懦と決めつけて、攻めてくるまいと(たか)(くく)っていただけのこと。ごく通常の攻撃をあたかも奇襲のごとく思い違いをしたのは、単に慢心のゆえである。


 慕兼成の慌てぶりときたら、(にわ)かに天が()ちたか地が崩れたかといった有様。目を白黒させて、いたずらに罵り(わめ)く。出陣を進言した崇浩は顔面蒼白、ただただ右顧左眄(うこさべん)する。


 独り四頭豹は辛うじて平静(ガイグイ)を保っている。しかし窮状を打破する策があるわけでもない。兵衆を叱咤して戦列(ヂェルゲ)を維持しつつ、どうにか逃れんと模索したが、対手はかの神箭将(メルゲン)と衛天王、乗ずる隙などあろうはずもない。


 何より周囲の梁軍こそ最大の障碍(しょうがい)。統制なく右往左往する歩卒の群れが、騎兵の足に(まと)わりつくように自在(ダルカラン)な運用を(はば)む。進退窮まるとはまさにこのこと。そもそもは己が招き呼べる(ダルバアン・ウリャア)ものだったが、ここに至っては足枷(チョドル)にしかならない。


「くっ、これは何という……。どうあっても逃れねば!」


 呟くうちにも南軍は歩騎ともに徐々に削られていく。大将たる慕兼成は、きっと崇浩を睨みつけて、


「お前が余計なことを言うからこうなったのだぞ! 何とかせよ!」


 恐懼して答えて言うには、


「前線より急戴白と大刀冠者を呼び戻して、ともに丘まで退きましょう」


「それだ! 何をもたもたしている。疾く命じよ!」


 そこであわてて退却の銅鑼を鳴らさせたが、命令とは常に二種あるもの。すなわち()()()()()()()()()()()()()()である。銅鑼はたしかに急戴白と大刀冠者の(チフ)に届きはした。しかし何と云っても激闘の渦中、応じたくとも応じられぬ。もとより今さら命じられなくとも、とうに退かんと試みていたのだが、剽悍(ひょうかん)な敵軍がそれを許さない。


 アリハン率いる第五翼に加えて、中軍より(テムル・タ)(ショウル)のアネクが石沐猴(せきもっこう)ナハンコルジを(したが)えて駆けつける。また、先に左右に分かれて退いたムジカの第三翼も、後方で(アミ)調(ととの)えて戦場に舞い戻ってくる。(こと)にアステルノの一隊は、混戦の外側をすばやく通過して北軍の退路を(やく)する。これではいかに急戴白と大刀冠者が勇将とはいえ、どうして善く戦えようか。


 血路を開かんとて(ヂダ)を縦横に振るう超粲の(もと)に、一騎寄せてきたものがある。これぞ西国にて高名を馳せた金髪の貴公子、すなわち黄鶴郎セト。(ウルドゥ)を操るさまはさながら優美な舞のごとく、それでいて確実に敵騎の急所を衝く。趙粲に声をかけて言うには、


「老公! 貴殿に恨みはないが、命をいただくぞ」


 無論、趙粲にファルタバン語のわかるはずもないが、怒り(アウルラアス)心頭に発して、


豎子(じゅし)め! お前の細腕でわしが斬れるか!」


 鼻息も荒く突きかかる。かくして梁とファルタバン朝、東西万里を(へだ)てた両大国の勇将が何の縁あってか草原(ミノウル)に雌雄を決する次第となったわけだが、まことに人の命運(ヂヤー)とは計りがたきもの。勝てば善いが、ひとたび敗れようものならその魂は、畢竟(ひっきょう)(注2)異郷を彷徨う(チュトグル)となるほかない。果たして、再び郷里の山河を望むことができるのは黄鶴郎か、それとも急戴白か。それは次回で。

(注1)【凛然(りんぜん)】勇ましく凛々しいさま。心の引き締まったさま。


(注2)【畢竟(ひっきょう)】つまるところ。ついには。結局。

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