第一九六回 ④
ムジカ僅かに三語を唱えて急戴白を誘い
サノウ亟やかに両翼を趨して慕兼成を陥る
梁軍は、洪施が数千の兵とともに残ったほかは、うち揃って丘を下る。大将軍たる慕兼成も意気揚々と平原に足を踏み入れた。なかなか進もうとしないヤクマン軍を三方から囲んで、背を押すように北上する。
それはたちまち北軍の知るところとなる。東西両翼から、それぞれ矮狻猊タケチャクと神行公キセイが駆けつけて報せたからである。サノウは珍しく緊張した面持ちで、ごくりと唾を飲み込むと言うには、
「いよいよ『嘴』を閉じるときです」
そのころには第二翼と第四翼の布陣はすっかり完了している。南へ陣形を伸長して、平原を挟むように向かい合う。中軍より銅鑼、金鼓、旌旗によって合図が下れば、ヒィ・チノは身震いして白夜叉ミヒチを顧みた。
「ついに『網』の口を閉じよとの命だ」
「よもやお忘れではないでしょうが、機を計らねばいけませんよ」
するとヒィ・チノは呵々と笑って、
「誰に向かって言っている。軍師の指示はすべて頭に入ってるぞ」
「失礼しました。今にも駆けだしそうに見えたので、つい」
「ふん、引き絞った矢とはそういうものだ」
気を悪くした風もなく嘯くと、妖豹姫ガネイに命じて、
「お前は眼が良い。敵軍をよく観てろ。梁の歩卒がもう数百歩も進んで、先を行くヤクマン軍が平原の半ばに達する直前に教えてくれ」
「わかった! 観る!」
ガネイは栗鼠のような円い眼をさらに円くして、目瞬きもせずに敵軍を注視する。騎兵と比べて歩卒の行軍はまるで止まっているかのように遅い。ヤクマンの騎兵も駆けないどころか、ともすれば歩卒と入り雑じるほどの遅足。それでも半刻ほど経ったところでガネイが声を挙げる。
「ハン!! そろそろだよ! もうすぐ先頭が真ん中まで来るよ!」
それを聞くや、ヒィ・チノは腿をぱんと叩いて、
「よし! いざ豊漁と参ろうか」
とて、さっと右手を挙げる。一斉に金鼓が打ち鳴らされ、兵衆はわっと喊声を放つ。時を同じくして、東の第四翼からも割れんばかりの大喊声。
「さあ、行け!」
颯爽と命じれば、まさに矢を放つがごとく一斉に飛び出していく。第四翼を率いるカントゥカもヒィ・チノに勝るとも劣らぬ名将、戦機を逃すはずもなく凛然(注1)と進撃の命を下す。
かくして東西併せて四万の精兵が南軍目がけて殺到する。馬蹄はエトゥゲンを揺るがし、喊声はテンゲリをどよもす。駆けながら包囲の輪を形成し、さながら網の口を絞るように四方から迫る。
周章狼狽する南軍を射程に入れると、すばやく弓を構えて矢の雨を降らせる。僅かに応射するものもあったが、俊敏な騎兵を捉えるには至らない。かたや北軍から覩れば、密集して留まっている歩卒など巨大な的に等しい。八方を軽快に旋回しつつ、盛んに矢を浴びせて片端から射殺する。
思わぬ猛攻を受けた梁軍は、為す術もなく数を減じる。とはいえ、北軍の両翼は地に伏せていたわけでも陰に隠れていたわけでもない。開戦当初から堂々と姿を現している。梁軍が蛮族は怯懦と決めつけて、攻めてくるまいと高を括っていただけのこと。ごく通常の攻撃をあたかも奇襲のごとく思い違いをしたのは、単に慢心のゆえである。
慕兼成の慌てぶりときたら、卒かに天が墜ちたか地が崩れたかといった有様。目を白黒させて、いたずらに罵り喚く。出陣を進言した崇浩は顔面蒼白、ただただ右顧左眄する。
独り四頭豹は辛うじて平静を保っている。しかし窮状を打破する策があるわけでもない。兵衆を叱咤して戦列を維持しつつ、どうにか逃れんと模索したが、対手はかの神箭将と衛天王、乗ずる隙などあろうはずもない。
何より周囲の梁軍こそ最大の障碍。統制なく右往左往する歩卒の群れが、騎兵の足に纏わりつくように自在な運用を阻む。進退窮まるとはまさにこのこと。そもそもは己が招き呼べるものだったが、ここに至っては足枷にしかならない。
「くっ、これは何という……。どうあっても逃れねば!」
呟くうちにも南軍は歩騎ともに徐々に削られていく。大将たる慕兼成は、きっと崇浩を睨みつけて、
「お前が余計なことを言うからこうなったのだぞ! 何とかせよ!」
恐懼して答えて言うには、
「前線より急戴白と大刀冠者を呼び戻して、ともに丘まで退きましょう」
「それだ! 何をもたもたしている。疾く命じよ!」
そこであわてて退却の銅鑼を鳴らさせたが、命令とは常に二種あるもの。すなわち従うべき命と従うべからざる命である。銅鑼はたしかに急戴白と大刀冠者の耳に届きはした。しかし何と云っても激闘の渦中、応じたくとも応じられぬ。もとより今さら命じられなくとも、とうに退かんと試みていたのだが、剽悍な敵軍がそれを許さない。
アリハン率いる第五翼に加えて、中軍より鉄鞭のアネクが石沐猴ナハンコルジを随えて駆けつける。また、先に左右に分かれて退いたムジカの第三翼も、後方で息を調えて戦場に舞い戻ってくる。殊にアステルノの一隊は、混戦の外側をすばやく通過して北軍の退路を扼する。これではいかに急戴白と大刀冠者が勇将とはいえ、どうして善く戦えようか。
血路を開かんとて槍を縦横に振るう超粲の許に、一騎寄せてきたものがある。これぞ西国にて高名を馳せた金髪の貴公子、すなわち黄鶴郎セト。剣を操るさまはさながら優美な舞のごとく、それでいて確実に敵騎の急所を衝く。趙粲に声をかけて言うには、
「老公! 貴殿に恨みはないが、命をいただくぞ」
無論、趙粲にファルタバン語のわかるはずもないが、怒り心頭に発して、
「豎子め! お前の細腕でわしが斬れるか!」
鼻息も荒く突きかかる。かくして梁とファルタバン朝、東西万里を隔てた両大国の勇将が何の縁あってか草原に雌雄を決する次第となったわけだが、まことに人の命運とは計りがたきもの。勝てば善いが、ひとたび敗れようものならその魂は、畢竟(注2)異郷を彷徨う鬼となるほかない。果たして、再び郷里の山河を望むことができるのは黄鶴郎か、それとも急戴白か。それは次回で。
(注1)【凛然】勇ましく凛々しいさま。心の引き締まったさま。
(注2)【畢竟】つまるところ。ついには。結局。




