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草原演義  作者: 秋田大介
巻一四
782/785

第一九六回 ②

ムジカ僅かに三語を唱えて急戴白を誘い

サノウ(すみ)やかに両翼を(うなが)して慕兼成を(おとしい)

 これを(いぶか)しんだのは、最前線の趙粲や聞隆運も同様である。北軍が近づいてきたので、いざ開戦かと色めき立ったところ、なぜか敵人(ダイスンクン)は中途で足を止めて一斉に(わめ)きはじめる。


 しかし(ダウン)が揃わぬため、何と言っているのかよく判らない。ただ何やら短い言葉ウゲを叫んでは、げらげらと(わら)う。


「タァッ、シアッ、ギッ!!  タァッ、シアッ、ギッ!!」


 幾度も銅鑼を鳴らして叫ぶうちに徐々に拍子が合えば、(ようや)く声が(まと)まって判然としてくる。


「ターン・シャーオ・グイー!! ターン・シャーオ・グイー!!」


 趙粲はじっと(チフ)を傾けていたが、やがてはっと気づいて、


「も、もしや、あれは華語か!?」


 そう思ってよくよく聴けば、謎の言葉がたちまち意味を結ぶ。すなわち、


「胆・小・鬼!! 胆・小・鬼!!」


 と、叫んでいるのであった。趙粲の怒るまいことか、顔色を一変させて(ニドゥ)(いか)らせる。何となれば、それは臆病者を指して揶揄する語だったからである。


「こ、この急戴白を愚弄するか! 言うに事欠いて『胆小鬼』だと!? みっともなく逃げ惑ってきたのは彼奴らのほうではないか」


 激昂(デクデグセン)して得物を(つか)むや、すばやく愛馬にうち跨がる。後先顧みずに号令して言うには、


「全軍突撃! 金鼓を打て! 今すぐあの口を塞げ!」


 次の瞬間には馬腹を蹴って駆けだしている。兵衆はあわててこれに付き従い、遅れて出撃の金鼓が轟く有様。これぞまさに急戴白の面目躍如、ひとたび(ツォサン)(たぎ)れば(ブルガ)の血を見るまで治まらぬといったところ。かくして梁騎の半ば(ヂアリム)戦列(ヂェルゲ)も整えずにどっと押しだす。


 狼狽(うろた)えたのは敵軍よりもむしろ聞隆運。


「あ、急戴白め。易々と挑発に乗りよった!」


 急ぎ本営(ゴル)に報せようとしたところに、ちょうど伝令が至って言うには、


「大刀冠者も速やかに突貫せよ。愚かな敵を蹴散らし、そのまま中軍に突き入ってこれを制するべし」


 聞隆運はなぜか胸騒ぎがしてすぐには答えられなかったが、軍命が下ったからには従うほかない。強いて迷いを払拭して言うには、


「承知! 大将軍は我らの戦いぶりをしかとご覧あれ!」


 高らか(ホライタラ)に宣して、兵衆に(カラ)を下す。すでに趙粲が突貫に移っていれば、もとより逡巡している暇はない。


「我に続け! 急戴白殿を援護せよ!」


 金鼓が連打され、わっという喊声とともに駆けだす。




 一方、ムジカは嘆声を漏らすと、タゴサを顧みて言うには、


「おお、さすがは軍師殿。例の呪言、どういう意味かは判らぬが、覿面(てきめん)に効いたようだぞ! ……()()()()()()!!」


 応じて第三翼の二万騎は躊躇なく反転する。梁騎に(ノロウ)を向けるのはこれで七度目。兵衆も馴れたものか、いっそ鮮やかとも言うべき勢いで後退する。


 趙粲はますます猛り狂って、


「どちらが胆小鬼だ! 追え、追え!」


 (アクタ)に鞭打ち、さらに足を速める。将兵も遅れてはならじと全速で突進する。かくして北軍はひたすら逃げ、南軍は躍起になって追う。かつて獅子(アルスラン)ギィが説いたように(注1)、一瞬の足においては梁騎がやや勝る。次第に差は縮まり、ついに両軍は指呼の間に迫る。


「蛮族どもめ、(なぶ)り殺してくれようぞ!」


 いよいよ趙粲は目をぎらぎらさせて(ヂダ)を構える。対するムジカは泰然自若、駆けながらちらと周囲を見廻すと満足げに頷いて、


「そろそろ良いかな」


 とて、さっと右手を挙げて言うには、


「斉射!」


 これに後列の兵衆が応じる。どうしたかと云えば、疾駆(ツォギオ)の足はいささかも減じることなく、ただ己の()()()()()()()()()()()()()矢を放ったのである。これこそ中華(キタド)の兵が想像だにしない騎射の術の神髄。これまで秘匿していたものを、七度目の背走で初めて披露に及んだという次第。


 梁軍はおおいに驚いて俄かに乱れる。そこへ二の矢、三の矢が次々と至り、たちまち数十騎が(たお)れ伏す。しかしそこは急戴白、大音声に叱咤して言うには、


「怯むな、進め、進め! (とら)えてしまえばあとは蹂躙するのみぞ!」


 俗に「勇将(バアトル)の下に弱卒(アルビン)なし」と謂う。梁兵は怒声を挙げて再び突貫に転じた。ところが何としたことか、先のような勢いがない。(タショウル)も折れよとばかりに馬の(ボコレ)を叩いても、思うように進まない。


 ひとつには、全速の突貫により漸く梁馬に疲労が募ったためである。


 そしてもうひとつは、これもまた先に述べたウチュマグ平原の地勢(注2)に因るもの。すなわち北軍の本営より約三百歩の辺りから、傾斜は緩やかな上りに転じている。ムジカは、ちょうど梁軍がそこに至る(チャク)を見計らって反攻を命じたのである。


 下るより上るほうが足が鈍るのは当然のことながら、趙粲はもちろん南軍の誰も気づかない。古言に謂う「強弩の末、布帛(ふはく)をも穿(うが)つあたわず(注3)」とはまさにこのこと。


 ムジカは莞爾と笑って、


「みなよくやった。あとは信頼(イトゥゲルテン)ある僚友(ネケル)に託そう!」


 とて(ガル)を振れば、じゃーんと銅鑼が鳴る。するとムジカとキレカが率いる一万騎(トゥメン)(バラウン)へ、アステルノとソラの一万騎は(ヂェウン)へと、さっと二手に分かれる。方角を転じつつも戦列はまるで崩れない。さながら門扉(エウデン)が開くように、するすると左右に退いていく。


 その「()」の奥から堂々と進みでてきた一軍こそ、碧睛竜皇アリハンを将とする第五翼。先鋒(ウトゥラヂュ)を務めるのは草原(ミノウル)に冠たる猛将(バアトル)、盤天竜ハレルヤ。大刀が陽光を反射して、きらりと輝く。

(注1)【獅子(アルスラン)ギィが説いたように】鬼頭児の兵と戦ったことがあるギィが、サノウの問いに答えて述べたこと。すなわち、「梁の(アクタ)草原(ミノウル)のそれよりも大きく、疾駆(ツォギオ)においてはより速く駆けることができる」。第一九二回④参照。


(注2)【ウチュマグ平原の地勢】第一九五回①参照。


(注3)【強弩の末、布帛(ふはく)をも……】強い弓から放たれた矢も、ついには薄い布すら貫くことができなくなる。すなわち、初めは強いものでも衰えては力がなくなり、何もできなくなるという意味。

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