第一九六回 ②
ムジカ僅かに三語を唱えて急戴白を誘い
サノウ亟やかに両翼を趨して慕兼成を陥る
これを訝しんだのは、最前線の趙粲や聞隆運も同様である。北軍が近づいてきたので、いざ開戦かと色めき立ったところ、なぜか敵人は中途で足を止めて一斉に喚きはじめる。
しかし声が揃わぬため、何と言っているのかよく判らない。ただ何やら短い言葉を叫んでは、げらげらと嗤う。
「タァッ、シアッ、ギッ!! タァッ、シアッ、ギッ!!」
幾度も銅鑼を鳴らして叫ぶうちに徐々に拍子が合えば、漸く声が纏まって判然としてくる。
「ターン・シャーオ・グイー!! ターン・シャーオ・グイー!!」
趙粲はじっと耳を傾けていたが、やがてはっと気づいて、
「も、もしや、あれは華語か!?」
そう思ってよくよく聴けば、謎の言葉がたちまち意味を結ぶ。すなわち、
「胆・小・鬼!! 胆・小・鬼!!」
と、叫んでいるのであった。趙粲の怒るまいことか、顔色を一変させて目を瞋らせる。何となれば、それは臆病者を指して揶揄する語だったからである。
「こ、この急戴白を愚弄するか! 言うに事欠いて『胆小鬼』だと!? みっともなく逃げ惑ってきたのは彼奴らのほうではないか」
激昂して得物を拏むや、すばやく愛馬にうち跨がる。後先顧みずに号令して言うには、
「全軍突撃! 金鼓を打て! 今すぐあの口を塞げ!」
次の瞬間には馬腹を蹴って駆けだしている。兵衆はあわててこれに付き従い、遅れて出撃の金鼓が轟く有様。これぞまさに急戴白の面目躍如、ひとたび血が滾れば敵の血を見るまで治まらぬといったところ。かくして梁騎の半ばが戦列も整えずにどっと押しだす。
狼狽えたのは敵軍よりもむしろ聞隆運。
「あ、急戴白め。易々と挑発に乗りよった!」
急ぎ本営に報せようとしたところに、ちょうど伝令が至って言うには、
「大刀冠者も速やかに突貫せよ。愚かな敵を蹴散らし、そのまま中軍に突き入ってこれを制するべし」
聞隆運はなぜか胸騒ぎがしてすぐには答えられなかったが、軍命が下ったからには従うほかない。強いて迷いを払拭して言うには、
「承知! 大将軍は我らの戦いぶりをしかとご覧あれ!」
高らかに宣して、兵衆に命を下す。すでに趙粲が突貫に移っていれば、もとより逡巡している暇はない。
「我に続け! 急戴白殿を援護せよ!」
金鼓が連打され、わっという喊声とともに駆けだす。
一方、ムジカは嘆声を漏らすと、タゴサを顧みて言うには、
「おお、さすがは軍師殿。例の呪言、どういう意味かは判らぬが、覿面に効いたようだぞ! ……さあ、逃げよ!!」
応じて第三翼の二万騎は躊躇なく反転する。梁騎に背を向けるのはこれで七度目。兵衆も馴れたものか、いっそ鮮やかとも言うべき勢いで後退する。
趙粲はますます猛り狂って、
「どちらが胆小鬼だ! 追え、追え!」
馬に鞭打ち、さらに足を速める。将兵も遅れてはならじと全速で突進する。かくして北軍はひたすら逃げ、南軍は躍起になって追う。かつて獅子ギィが説いたように(注1)、一瞬の足においては梁騎がやや勝る。次第に差は縮まり、ついに両軍は指呼の間に迫る。
「蛮族どもめ、嬲り殺してくれようぞ!」
いよいよ趙粲は目をぎらぎらさせて槍を構える。対するムジカは泰然自若、駆けながらちらと周囲を見廻すと満足げに頷いて、
「そろそろ良いかな」
とて、さっと右手を挙げて言うには、
「斉射!」
これに後列の兵衆が応じる。どうしたかと云えば、疾駆の足はいささかも減じることなく、ただ己の上半身だけを真後ろに捻って矢を放ったのである。これこそ中華の兵が想像だにしない騎射の術の神髄。これまで秘匿していたものを、七度目の背走で初めて披露に及んだという次第。
梁軍はおおいに驚いて俄かに乱れる。そこへ二の矢、三の矢が次々と至り、たちまち数十騎が斃れ伏す。しかしそこは急戴白、大音声に叱咤して言うには、
「怯むな、進め、進め! 捉えてしまえばあとは蹂躙するのみぞ!」
俗に「勇将の下に弱卒なし」と謂う。梁兵は怒声を挙げて再び突貫に転じた。ところが何としたことか、先のような勢いがない。鞭も折れよとばかりに馬の尻を叩いても、思うように進まない。
ひとつには、全速の突貫により漸く梁馬に疲労が募ったためである。
そしてもうひとつは、これもまた先に述べたウチュマグ平原の地勢(注2)に因るもの。すなわち北軍の本営より約三百歩の辺りから、傾斜は緩やかな上りに転じている。ムジカは、ちょうど梁軍がそこに至る機を見計らって反攻を命じたのである。
下るより上るほうが足が鈍るのは当然のことながら、趙粲はもちろん南軍の誰も気づかない。古言に謂う「強弩の末、布帛をも穿つあたわず(注3)」とはまさにこのこと。
ムジカは莞爾と笑って、
「みなよくやった。あとは信頼ある僚友に託そう!」
とて手を振れば、じゃーんと銅鑼が鳴る。するとムジカとキレカが率いる一万騎は右へ、アステルノとソラの一万騎は左へと、さっと二手に分かれる。方角を転じつつも戦列はまるで崩れない。さながら門扉が開くように、するすると左右に退いていく。
その「門」の奥から堂々と進みでてきた一軍こそ、碧睛竜皇アリハンを将とする第五翼。先鋒を務めるのは草原に冠たる猛将、盤天竜ハレルヤ。大刀が陽光を反射して、きらりと輝く。
(注1)【獅子ギィが説いたように】鬼頭児の兵と戦ったことがあるギィが、サノウの問いに答えて述べたこと。すなわち、「梁の馬は草原のそれよりも大きく、疾駆においてはより速く駆けることができる」。第一九二回④参照。
(注2)【ウチュマグ平原の地勢】第一九五回①参照。
(注3)【強弩の末、布帛をも……】強い弓から放たれた矢も、ついには薄い布すら貫くことができなくなる。すなわち、初めは強いものでも衰えては力がなくなり、何もできなくなるという意味。




