第一九六回 ①
ムジカ僅かに三語を唱えて急戴白を誘い
サノウ亟やかに両翼を趨して慕兼成を陥る
さて、義君インジャ帥いる北軍は、ウチュマグ平原を決戦の地と定めて南軍を待ちかまえる。一方、超世傑ムジカは、獬豸軍師サノウの計策に従って「釣り針」の大役を担った。梁の帥将を欺き、その驕慢を煽って戦地に誘いだすという難しい任務である。
そこでムジカは戦を挑むこと六度、ことごとく大敗して見せた。おかげで梁の大将慕兼成は、すっかり慢心して疑うことなく北へ北へと兵を進める。報を受けた黄金の僚友は欣喜雀躍、活寸鉄メサタゲが言うには、
「とうとう罠に罹りやがった。すでにその口にはがっちり釣り針が刺さってるんだぜ!」
ついに梁の先鋒数万騎が、ウチュマグ平原の入口とも言うべきみっつの丘を占める。うち並ぶ旗を望んでムジカが言うには、
「向後、我らが背を向けるのはただの一度きり。それですべてが報われる」
打虎娘タゴサをはじめ、麾下の将兵が等しく勇躍しているところへ、サノウからの伝令が至る。ムジカは赫彗星ソラにその場を託すと、紅火将軍キレカと神風将軍アステルノを随えて、ただちに本営に赴いた。これを迎えたサノウは、慇懃(注1)に席を勧めて言うには、
「三将を呼んだのはほかでもない。戦端を開く『機』について意思を通じておくべきだと思ったのだ」
「機?」
アステルノが短く問えば、
「然り。我らはこのウチュマグにて梁軍を撃ち破るとともに、必ず四頭豹を擒えねばならぬ。今、梁軍については首尾よくその歩騎を分断して、『大鵬の嘴』へ誘いこまんとしているが、肝心の四頭豹が至っておらぬ」
サノウは例によって索敵に長じた僚友、すなわち矮狻猊タケチャクや神行公キセイらを駆使して、敵軍の動向を正確に把んでいた。それによると、四頭豹は先鋒から外されて中軍と行をともにしているらしい。サノウは続けて、
「梁の大将はきっと中央の丘に本営を置く。そこで先着した敵騎は、これを迎え入れるべく必ず丘を下ってくる。それを見たら開戦は目前だと思え」
三将が頷いたのを確かめて、さらに言うには、
「梁の中軍が至れば、四頭豹はその前面に盾となって展開するだろう。そして丘の上に梁の中軍が布陣を了えたそのときこそ、『機』だ」
アステルノがふふんと笑って、
「承知した。軍師の策は相変わらず細かいが、道理がある」
キレカもまた微笑んで、
「細かいとはひと言多いが、なるほど、早すぎれば四頭豹に逃れる隙を与え、遅すぎれば一度は分断した梁軍がうち揃ってしまうというわけですね」
独りサノウだけはにこりともせず、
「然り。この機を決して違えるなかれ。遠路行軍してきた梁の中軍が、漸くひと息吐いた瞬間を捉えよ」
と、俄かに声をひそめて言うには、
「それから、ひとつ貴公らに秘密の呪言を授ける」
三将は虚を衝かれて思わず眉を顰めたが、戯言を言っている風でもない。サノウは謹厳な表情を崩さぬまま、何と言ったかと云えば、
「敵陣に接近したら、これから教える呪言を兵衆に声を合わせて叫ばしめよ。そうすれば敵将は必ず憤激して突出してくる」
半信半疑の三将にサノウはある言葉を囁いたのであるが、それが何であるかはすぐに判ること。
何ごともなく三日が過ぎた。梁の先鋒たる急戴白趙粲と大刀冠者聞隆運は、先に得た命令(注2)どおりに丘を下る。陣を整えるうちに、後背の丘を越えて四頭豹の二万騎が姿を見せた。しずしずと進んで、やや中腹にかけて陣を布く。
次いで現れたのは、もちろん慕兼成率いる中軍。歩騎併せて約三万の軍勢が、みっつの丘に分かれておもむろに陣営を築きはじめる。後続の軍勢は遥か後方、いまだ影も見えない。が、日を経るごとに順次合流するはずとて、気にするものもない。
慕兼成は設営も了わらぬうちから趙粲と聞隆運に伝令を送って、いつでも出撃できるよう準備を促す。自らは蛮族を蹴散らすのをしかと見届けようと、平原を一望できる位置にどっかと腰を下ろした。傍らに侍す洪施に満悦の体で言うには、
「おお、これはいい。蛮族の敗れるさまがよく見えようぞ」
洪施もまた答えて、
「我が騎兵の突貫の前に敵は無力。大勝は疑うべくもありません」
にやにやしつつ平原を見下ろしていると、何やら北軍に動きがある。前軍の一翼が戦列を整えて、するすると前進してくる。慕兼成は鼻で笑って、
「ふん、先方からしかけてくるとはちょうどよい。しかもあの旗は、我が軍が六度も退けた凡将のものではないか」
「まったく蛮族というのは愚かですな。もはや優劣も明らかなれば、何度やっても同じこと。よいではありませんか。あれを破れば兵勢に弾みが付きます。そのまま敵軍を蹴散らして、速やかに勝ちを決しましょう」
「ふふふ、好い。実に好い」
じっと観ていると、敵軍は数十歩まで寄せたが矢を射かけるでもない。ずらりと馬を並べたかと思うと、卒かにじゃーん、じゃーんと銅鑼の音が轟く。そして調子を合わせて一斉に何ごとか叫ぶ。
再び銅鑼が鳴れば、またひとしきり叫んで大笑いする様子。丘の上にあってはよく聞きとれないが、三音節ほどの言葉を繰り返しているようだ。
「蛮族どもは何を騒いでおるのだ?」
慕兼成と洪施はわけがわからず、首を捻る。
(注1)【慇懃】真心がこもっていて、礼儀正しいこと。
(注2)【先に得た命令】慕兼成が三日後に丘を下るよう命じたこと。第一九五回④参照。




