第一九五回 ④
インジャ平原に精騎を列ねて罔罟を張り
ドルベン死灰の余焔を焚いて掣肘を試む
相も変わらず慕兼成は、四頭豹の進言など考慮に値しないと思っている。なおも言い募ろうとするのを制して、
「下がれ。それとも槁木死灰の轍を踏みたいか(注1)?」
いくら蛮族と蔑んでいるとはいえ、この発言はあまりに非礼。何となれば、四頭豹はあくまで盟邦の帥将であって、慕兼成が生殺与奪(注2)の権を持つ臣下ではないからである。四頭豹は思わず顔色を変える。すると慕兼成は、
「何だ? 言いたいことがあるなら言え」
これもまた無理難題。まことに何でも言ってよいなら、罵詈雑言を交えて言いたいことはいくらでもある。が、もちろん真に受けるほど阿呆ではない。ぐっと堪えて、何も言わずに退く。
慕兼成は先鋒の両将に命じてウチュマグ平原へと先行させる。いざ現地に辿り着いてみれば、聞いていたとおりにみっつの丘が並んでいるが、敵影はない。急戴白超粲がおおいに嘲って言うには、
「蛮族は地勢を活かすということを知らぬらしい。あの丘を占められていたら、きっと難儀したであろうに」
そこで大刀冠者聞隆運とともに躊躇なく兵を進めて、瞬く間にすべての丘陵を押さえる。いざその北に続く平原を望めば、なるほど北軍約十万騎が陣を列ねている。梁の騎兵はおよそ五万騎、すなわち敵騎の半数である。しかし超粲に怯む色はない。嘯いて言うには、
「小蝿の数がいくら増えようと、どうということはない。纏めて追い払うだけのこと」
慕兼成の中軍は歩卒が主力のため、まだ遙か後方にある。とりあえず丘陵を制したことを報せて命を待つ。その間に聞隆運に諮って言うには、
「大将軍を待つまでもない。このまま我らの手で蛮族を一掃しようではないか」
聞隆運は驚いて、
「いや、それはどうでしょう。やはり大将軍の着陣を待つべきでは……」
「こうしているうちに蛮族どもが逃げてしまったら、これを追ってさらに奥地へ侵攻せねばならぬが、我々とていつまでもはここに居れぬ。うかうかしてると大魚を逸することになろうぞ」
「そうかもしれませぬが……」
「『兵は拙速を聞くも、いまだ功久を覩ざるなり』と謂うではないか。敵の先鋒は、ここに至るまで六戦六敗。今では梁の旗を見るだけで兢々として戦くものばかり。これを撃たずしてどうする」
聞隆運はすっかり辟易(注3)して言うには、
「あわてずとも、いずれ大将軍から攻撃の命が下るでしょう。我らとて長躯して陣を布いたばかり。まずは兵馬を休ませつつ、敵の動静を注視しておけばよいのでは」
すると超粲は、
「それもそうだな。大刀冠者の言うとおりだ」
とて、あっさり肯じたので、ひとまず胸を撫で下ろす。
一方、趙粲からの早馬を受けた慕兼成は手を拍って喜ぶと、
「まったく蛮族とは愚かなものだ。あと三日もあれば、我が中軍も戦地に至るであろう。この目で彼奴らが駆逐されるさまを見届けようではないか。急戴白に伝えよ。三日後の朝、丘を下れ。私が丘上に達したら突貫の命を下す、と」
早馬はただちに踵を返して去る。慕兼成は諸将と語らいながら悠然とウチュマグ平原を指す。勝利への確信は微塵も揺るがない。
そんな軍中にあって、独り四頭豹だけが気を揉んでいる。必ず梁軍は陥穽に落ちて、進退に窮するとて恐れている。そのときには何としても逃れなければならぬ。梁軍は自ら招いたものではあるが、慕兼成たちに命運を預ける気はさらさらない。
しかしあの毛可功だけは救ってやりたいとも思う。ただの槁木死灰に復ってしまったとはいえ、一時は憂いをともにして心を通じかけたものである。そこでたびたび大スイシに様子を伺わせたが、一向に恢復の兆しはないとのこと。妙案も浮かばぬまま、次第にウチュマグ平原に接近する。
対して梁騎を眼前にした黄金の僚友たちは、快哉を叫んで俄然勇躍する。活寸鉄メサタゲが満面に笑みを浮かべて言うには、
「来たぞ、とうとう罠に罹りやがった。あちらは我らのほうを狩りの獲物か大魚と信じて追いこんだつもりだろうが、すでにその口にはがっちり釣り針が刺さってるんだぜ!」
ここまで敵軍を誘導してきたムジカは、丘の上にずらりと並んだ梁の旗を見つめながら、傍らの打虎娘タゴサや奔雷矩オンヌクドに言うには、
「みな弱卒の汚名を顧みず、よく堪えた。あとひと息だぞ。向後、我らが背を向けるのはただの一度きり。それですべてが報われる」
これを聞いて力強く頷かぬものはない。身震いして決戦に備える。この一戦こそ梁軍を殲滅し、必ず四頭豹を擒えるべき戦。ヴァルタラでもツァビタルでも、そう決意しながらすんでのところでこれを逃した。同じ過ちは決して繰り返さぬ。そのために智慧あるものは智を尽くし、豪勇あるものは力を注いできた。
すべては草原に平和と安寧を齎すため。また世を擾し、義を躙るものを誅戮するため。何よりそれが、きっとテンゲリに替わって道を行うことと信じているためである。
またときはすでに盛夏。西原の春の暴風も止んで久しい。となれば、西域に駐留するファルタバン軍や、カムタイを占める梁軍、そして先に遁れた亜喪神ムカリたちが、いつ兵を併せて押し寄せないともかぎらない。
これこそ草原の興廃を懸けた一戦。まさしく勝てば中華の衡軛(注4)を逃れて雄飛するべく、敗れれば異族の奴僕に堕ちて雌伏するべき岐路といったところ。果たして、インジャたちはいかにして梁軍を撃ち破るか。それは次回で。




