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草原演義  作者: 秋田大介
巻一三
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第一九五回 ②

インジャ平原に精騎を(つら)ねて罔罟(もうこ)を張り

ドルベン死灰(しかい)余焔(よえん)を焚いて掣肘(せいちゅう)を試む

 慕兼成は北軍が(ゴルミ)を広げて待ちかまえていることも知らず、ひたすら北上する。いや、たとえ知っていたとしても気にも留めなかっただろう。


 そもそもツァビタル高原での奇襲が成功してから、草原(ミノウル)の兵と云えば(みじ)めに背走(オロア)する姿(カラア)しか見ていない。卑劣な夜襲に驚きはしたものの、まともに戦えばどうして敗れよう。すでに(クチ)の差は歴然、さながら赤子(ニルカ)(ガル)を捻るように易々と勝つと確信している。


 実際、あれから数十里進むうちに三たびムジカと戦って、三たびこれを蹴散らした。高原を下ってより野戦においては六戦全勝、(おご)るなと言うほうが難しい。あの無能(アルビン)な敵将を指して名将とは笑止千万、蛮族の程度が知れようというもの。


 慕兼成は騎兵を先行させつつ悠然と進軍する。歩卒も(ウドゥル)に十数里を稼いで、行く先々で野営を張る。さすがに夜襲の備えこそ怠らなかったが、心中には余裕があり、もはや大功は成ったも同然とて終始機嫌が()い。


 対して中軍(イェケ・ゴル)の前衛にある四頭豹は、鬱屈が募って日を重ねるごとに表情が険しくなる。かつては、世界(イュルトゥンツ)のすべてを掌中にあるのかのごとく鳥瞰(ちょうかん)(注1)して、敵味方問わず翻弄してみせたものだが、今や昔日(エルテ・ウドゥル)の面影もない。


 敵人(ダイスンクン)に善からぬ企図があるのは明白だが、それが何かも判らず、ただ話の通じぬ慕兼成に振り回されるばかり。将の迷いはいつしか兵衆にも伝播(でんぱ)して、どうにも士気が振るわない。


 ある日、そんな四頭豹の(もと)を意外な人物が訪れた。槁木死灰(こうぼくしかい)と揶揄されて、誰にも相手にされぬ毛可功である。四頭豹とてこれを軽んじることは同じ(アディル)だったので、首を(かし)げつつ相見(あいまみ)えた。


 ところがいざ対面しても、毛可功は(うつむ)いてなかなか(アマン)を開かない。()れた四頭豹が尋ねて言った。


「軍師殿、私に何か用でも?」


 それでも逡巡していたが、重ねて(うなが)せばやっと答えて、


「あ、あ、あの、つまり、私も同じ、その、四頭豹殿と同じ考えなので……」


「と、おっしゃいますと?」


 すると毛可功、大きく(アミ)を整えたかと思うや、俄かに(コセル)の一点を見つめたまま()かれたように喋りだす。


「敵軍のあの(もろ)さ、いっそ鮮やかとも言うべき逃げっぷりには、きっと何か意図があるはずです。ええ、そうですとも! 剽悍な塞北の兵があのように弱いわけがありません。聞いていた話とあまりに齟齬がありすぎます。四頭豹殿はかねてより敵人の奸謀を疑い、大将軍に幾度も忠言を呈しておりましたが、まったくもって同感。私はその慧眼に感服しておるのです! しかしながら大将軍はまるで耳を傾けようとせず、敵人の示した虚像に踊らされて、すっかり警戒を怠っています。思うにあれは、『()()()()』。敵人は何処かに我々を誘いだそうとしているに違いありません。今、遠く本国を離れて重地に包囲されれば、どうやって故郷の山河に帰れと言うのでしょう」


 いつしかその(ニドゥ)は爛々と輝き、(ハツァル)は紅潮して、吐く息は熱を帯びているかのようである。その変貌に四頭豹は唖然として、すぐには言うべき言葉(ウゲ)も知らない。毛可功はかまうことなく続けて、


「さあさあ、我らの死地は何処となるのやら。早く大将軍をお止めせねば、二十万の梁兵が異郷に屍を(さら)すことになります。私にそれができるか? いや、軍師として我が軍の危機を座視するわけには……」


 ついには自問自答しはじめたので、四頭豹はあわててこれを押し止めると、


「ご明察のとおり、敵の実力はあんなものではありません。なるほど、佯北して我々を有利な戦地へ導かんとしているとお考えなのですね」


 毛可功は、はっとして目を上げると、初めて四頭豹を正視して、


「あ、はい。敵軍は連日のように攻め寄せながら、まともに戦うつもりがない様子。さながら猫の玩具のごとく目の端でちらちらと動いてみせて、これを押さえんとて跳びつけばすかさず退き、また彼処(かしこ)に現れるということを繰り返しています。雀躍してこれを追うは、まさに玩具に(もてあそ)ばれる猫そのものではありませんか」


「ほう、猫。言い得て妙ですな」


 四頭豹は、これまで眼中になかった槁木死灰が、実は密かにものを考えていたことに素直(ツェゲン・セトゲル)に感心した。しかも(おおむ)ね己が怖れていたことに合致した見解である。


 二十万の友軍(イル)のうちにありながら孤立、孤独に呻吟していた四頭豹にとっては暗中に光明を得た心地。らしくもなく(セトゲル)を揺り動かされる。しかしそこは四頭豹、情動(ドウラ)を表に出すようなことはせず、平静(ガイグイ)を装って言うには、


「では軍師殿から大将軍に具申していただきたい。敵は(いつわ)()げるものゆえ、安易にこれを追ってはならぬと。敵の本隊が何処にあるかは早晩この私が探し(もと)めて、必ずその奸策の全容を明らかにいたします」


 するとたちまち毛可功の眼は輝きを失って、再び(ヌル)を伏せてしまう。


「どうされました?」


「……私は軍師とはいえ名ばかり。大将軍は私の進言など聞き容れないでしょう」


 何とも頼りないが、四頭豹こそは誰よりその苦衷(くちゅう)(注2)を理解できる。だが今はほかに(たの)みとするものもない。大刀冠者などは(ひそ)かに同情を寄せる風もあるが、それだけでは何の役にも立たぬ。


 そこで言葉を尽くしてこれを(なだ)め、(すか)し、また鼓舞して奮い立たせようと試みる。毛可功はついに言うには、


「何とかやってみましょう。いずれ大将軍が翻意せねば、我が軍は必ず危地に(おちい)ります。そのとき悔やんでも悔やみきれませぬ」


「情理を尽くして説けば、きっと解っていただけます。そうすれば軍師殿は勲功第一。梁軍を救った希代の智者として、永久に青史に名を留めましょうぞ」


「私が……?」


「ええ。後世まで名軍師として語り継がれましょう」


 内心、それはさすがに言いすぎだと思わなくもなかったが、とにもかくにもこの槁木死灰に僅かに残っていた余焔(よえん)(注3)を燃え上がらせるしかない。


 (ようや)く毛可功は(オロ)を決して、やや昂奮しながら本営(ゴル)に帰っていった。四頭豹はその小さな(ノロウ)を見送りながら、他人の手に命運(ヂヤー)を委ねるほかない現況に自嘲の念を禁じえない。

(注1)【鳥瞰(ちょうかん)】高所から見下ろし、眺めること。転じて全体を大きく眺め渡すこと。


(注2)【苦衷(くちゅう)】苦しい心のうち。


(注3)【余焔(よえん)】消え残りの炎。

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