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草原演義  作者: 秋田大介
巻一三
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第一九四回 ③

ムジカ釣魚之計に任じて三たび背走し

ドルベン首鼠両端を持して常に遅疑す

 趙粲と聞隆運は躍起になって北軍を追ったが、次第に足が止まって追撃を断念する。始めに猛撃を加えるべく全速(ツォギオ)で駆けたためである。まさか来襲した(ブルガ)が干戈を交えることなく背走(オロア)するとは予想(ヂョン)だにしない。おかげで何の戦果もなかったが、実感はなくとも勝利は勝利とて釈然とせぬまま帰陣する。


 ところが慕兼成は捷報に接して得意満面、膝を打って言うには、


「蛮族どもめ、我が騎兵の突貫に恐れを成したか。逃げ足の何と速かったことよ」


 趙粲が我が意を得たりとて頷いて言うには、


「まったく閣下の仰せのとおり。さながら蜘蛛の子を散らすがごとく八方に逃げ散って、軍の体裁を保つことすらかなわぬ有様。どうやら蛮族どもは、兵法に謂うところの形名分数(注1)を知らぬようです」


 諸将はどっと(わら)ったが、独り聞隆運は首を捻って、


「それにしても(もろ)すぎたような……。聞けば敵将は塞北屈指の名将だとか。まだ小敵と決めつけるのは早計では?」


 すかさず後方より四頭豹が進みでて言うには、


「大刀冠者の言うとおりです! 敵にはきっと奸計がありますぞ!」


 慕兼成はみるみる表情を曇らせると、不快も(あらわ)に冷眼を向けて、


「またそれか。もうよいわ、お前の魂胆はわかっている。敵を誇大に見せることで、己の無能を糊塗しようというのだろう。何たる浅慮、何たる狡智(注2)。恥を知れ!」


 またも衆前で嘲罵された四頭豹は、忽然と顔色を変える。それを見た慕兼成はさらに続けて、


「何だ、その顔は。忿(いか)る気概があるなら、もう少しまともに戦って見せろ。今日初めて蛮族の戦闘を見たが、あまりに(ぬる)くて欠伸(あくび)が出そうだったわ」


「それは……!」


 反駁(はんばく)しようとするのを制して、


「弁明は無用。汚名を(そそ)ぎたければ実戦で示せ」


 居並ぶ諸将の多くは冷笑を浮かべるばかり。四頭豹は拳を握り締めて(こら)えると、


「……承知しました」


 絞りだすように答えるほかない。四頭豹の鬱屈をよそに、ほとんどの梁将は勝利に浮かれつつ配所へと戻った。




 翌日、再び北軍が現れる。もちろんムジカ率いる二万騎。その陣形(バイダル)は、前日よりも左右に広く前後に薄い、いわゆる横陣。それを見た洪施が呆れ返って言うには、


「やはり敵将は愚鈍ですぞ。寡兵をあのように薄く並べては、容易に突破されてすぐ背後に回られてしまいます。とても戦列を維持することはできますまい」


「ふん、(いや)しい蛮族に戦の何たるかを教えてやれ!」


 慕兼成は苛立ちを隠さない。応じて金鼓が轟き、両翼の趙粲と聞隆運は突貫の構えに入る。中央(オルゴル)の四頭豹も、しぶしぶながら命令(カラ)に従うほかない。


 再び金鼓。梁軍は(チャク)()かずに喊声を挙げて、前列から続々と馬腹を蹴る。無論躊躇なき全速の突撃。四頭豹のヤクマン軍も大きく(おく)れるわけにはいかず、やむなく足を速める。


 (ようや)接近(カルク)すれば、矢が飛び交いはじめる。なぜか北軍の放つ矢は散発に飛来するばかりで、いつものような敵を引きつけての驟雨(クラ)のごとき斉射にはほど遠い。あのムジカが率いているものとも思えない。


「しかし(トグ)は疑いなく超世傑のもの。いったい何を企んでいる」


 四頭豹は慎重にならざるをえず、いきおい足が鈍る。一方、梁の二将はかまわず得物を掲げて突進する。ために両翼が突出して、先に敵軍に突っ込んでいく。


「ぬうう、あの用兵に()けたムジカが、横陣からどんな変化を演じるか……」


 怠りなく敵陣を注視していた四頭豹は次の瞬間、あっと(おどろ)いて思わず手綱(デロア)を引いた。


「まさか、そんな……」


 眼前に信じられない光景が広がっていた。何と北軍はまさに鎧袖一触、梁軍の突貫の前に為す術もなく打ち崩される。先の陣形もどこへやら、千々(ちぢ)に寸断されてひたすら逃げ惑う。すでにして戦列(ヂェルゲ)はおろか隊伍の別すら失って、(ヂェウン)西(バラウン)へと個々ばらばらに退く有様。


 梁軍はあまりの手応えのなさにかえって誰を追ってよいかわからず、いたずらに右往左往したあげく果たして兵を収めることとなった。連日の勝利であったが、敵に打撃を与えたわけでもない。首を捻りつつ帰陣する。


 もっとも混乱していたのは四頭豹ドルベン・トルゲ。ムジカの才幹(アルガ)についてはよく承知している。あのような醜態を(さら)すような将では決してない。それも一度のみならず、二度までも。それでいて北軍の損失がほぼ皆無というのも気味が悪い。


 帥将たる慕兼成独りが意気軒高、すっかり敵人(ダイスンクン)を侮って、


「かつて塞外の兵と云えば精強無比を(うた)われたものだが、もはや中華との差は歴然、我らは虚名に(おび)えていたに過ぎぬ。『()()()()()()()()()』とはこのことだ」


 崇浩が拱手して進みでると言うには、


「蛮族の首魁たる城爾陳合罕(ジョルチン・ハーン)は、今や草原の大半を手中に収めんとしている一世の梟雄(きょうゆう)(注3)。どんな強兵を擁しているのかと思いきや、案外でしたなあ」


 言うまでもないことだが、インジャは昨夏に帝号を改めてミノウル・ハーン(大原大合罕)と称している(注4)。しかしここではあえて旧号を用いて、これを(おとし)めんとしたもの。いかにも名に(こだわ)中華(キタド)らしいことではある。


「ふん、所詮は蛮族の下等な争いを制しただけのこと。四頭豹とやらは殊更(ことさら)にこれを持ち上げて騒ぐが、何のことはない。敵が強いのではなく、己が弱いのだ」


 とて、慕兼成は歯牙にもかけない。ところが次の日にも北軍が姿(カラア)を見せると、


「愚鈍にもほどがある。まるで蠅のようだ。何と(わずら)わしい」


 うんざりして、まさに虫でも払うように(ガル)を振って撃退を命じる。ところが前線の四頭豹だけは敵軍の僅かな差異に気づいた。


左翼(ヂェウン・ガル)に在るのは紅火将軍(アル・ガルチュ)ではないな。……あれはウリャンハタの花貌豹か。何かしかけてくるか?」


 徒爾(とじ)(注5)に終わるとは思いつつ本営(ゴル)に伝令を()って、あの花貌豹サチは(ブスクイ)だてらに西原の兵権を統べる名将ゆえ警戒すべきであると伝えさせる。

(注1)【形名分数】軍の指揮系統、統制、編制のこと。


(注2)【狡智】ずる賢い知恵。悪知恵。奸智。


(注3)【梟雄(きょうゆう)】残忍で強く荒々しいこと。また、その人。悪者などの首領にいう。


(注4)【昨夏に帝号を改めて……】第一七四回②参照。


(注5)【徒爾(とじ)】無益であること。無意味なこと。(むな)しいさま。いたずらなさま。

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