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草原演義  作者: 秋田大介
巻一三
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第一九四回 ②

ムジカ釣魚之計に任じて三たび背走し

ドルベン首鼠両端を持して常に遅疑す

 やむなく四頭豹は馬首を返す。こうなっては突撃するふりだけでもせねばならぬ。だがムジカほどの名将が、何の策もなく寡兵にて現れるはずがない。きっと善からぬことを企んでいる。しかしその内実(アブリ)については、模糊(もこ)(注1)として想像もつかない。


 どうも慕兼成と絡むようになってから、智慧が鈍ったようである。同じ梁将でも鬼頭児や尸解(しかい)道士には遠慮なく、いっそ上からものが言えた。何なら彼らの思考も情動(ドウラ)も、すべて見透かすことができた。ところが慕兼成だけは思うままにならぬ。それどころか何を考えているのか、さっぱり解らない。


 実はこれらはすべて、()()()()()()()()()()()齟齬(そご)(注2)に原因があった。一個は同じ人と思って情理を尽くしても、一個はこれを禽獣(アラアタヌイ)として扱っているのだから意思(オロ)が疎通するわけがない。何を言おうが、(ノガイ)がぎゃんぎゃん()えているのと同じことである。


 四頭豹は憮然(注3)たる面持ちで帰陣すると、ともかく出撃の準備を命じる。そこへ左翼(ヂェウン・ガル)から伝令(グユクチ)が来て言うには、


「聞隆運様よりご伝言です。側面は援護するゆえ、存分に突貫されよとのこと」


「ほう、大刀冠者が……」


 やや意外に思って呟く。伝言の内容にこれといった意味はない。それをわざわざ伝えるとはどういう意図か。白心(ツェゲン・セトゲル)に受け取れば、四頭豹を気遣(きづか)って励ましたようでもある。見たところ、あの武人は肚裡(とり)(注4)に刀を(かく)して人を(おとしい)れるものではなかったが……。


「まあよい、承知した。ご厚意に感謝するとお伝えせよ」


 疑い惑っているときではない。敵人(ダイスンクン)は眼前にある。肝要なのは、これに気を奪われて奸計に()まらぬこと。そして、()()()()()()()()()()()。うっかり突出して敵中に孤立しようものなら、あの慕兼成のことである。四頭豹を助けようなどとは決して思わず、平然(ガイグイ)と見棄てて退いてしまうだろう。そう思えば、なおさら全速(ツォギオ)での突撃などできようか。


 その間にもムジカ軍の戦列(ヂェルゲ)は着々と整いつつある。後方からは攻撃を(うなが)す銅鑼が轟く。(ようや)く四頭豹は(オロ)を決めて突撃を命じた。ただし全速ではない。疾駆(ダブヒア)より遅く、跑足(ショグショウ)より速く(注5)進め、という何とも奇妙な命令(カラ)を下す。兵衆は(いぶか)しく思いつつも、忠実(シドゥルグ)にこれを実行する。


 本営(ゴル)よりそのさまを視ていた慕兼成は眉間に皺を寄せて、


「古より塞外の騎兵は剽悍と恐れられているが、いざ実地に見てみれば、馬はまるで鼠のごとく小さく、足はすこぶる(のろ)い。鎧も紙のごとく薄く、あれでは裸と変わらぬ。何と貧弱でみすぼらしいことか。やはり蛮族は蛮族よ」


 と、少し離れたところにいた毛可功が何か言いかけたようだったが、すぐに小さく首を振って緘黙(かんもく)(注6)する。その様子に気づいたものはない。


 ついに南北の前軍(アルギンチ)は指呼の間に迫る。まずは互いに矢を応酬し、次いで得物を掲げて交戦(アヤラクイ)に及ぶ。だが全速全力で激突したわけではない。ともに思うところがあるためか、どこか勢いに欠ける。


 北軍の指揮を()るムジカは、たちまち違和を覚える。傍ら(デルゲ)の打虎娘タゴサも首を(かし)げて言うには、


「妙じゃない? 四頭豹の兵にしては鋭さ(クルチア)がない。何か企んでるのかも」


「ふうむ……」


 ムジカはひと声唸って戦況を睨んだが、やがて莞爾と笑って、


「それならそれで好い(サイン)。我らの為すことに変わりはない。敵人に策があるなら、かえってうまく運ぶかもしれん」


 すでに迷いはない。まさに神色自若(注7)かつ明鏡止水(注8)、その泰然たるさまは将兵の雄心(ヂルケ)をいやが上にも()き立てる。進むも退くもすべて主君(エヂェン)の意のまま、全幅の信頼を寄せて(ごう)も疑わぬ。


 かくして半刻あまりも干戈を交えたが、どちらも得るところがない。慕兼成は業を煮やして、


「ええい、何をもたもたと……。両翼の急戴白(きゅうたいはく)と大刀冠者を突っこませよ!! 我が騎兵の突貫を蛮族どもに見せてやれ!」


 応じてどっと金鼓が打ち鳴らされる。


 右翼(バラウン・ガル)の急戴白こと趙粲はもとより猛将(バアトル)、待ってましたとばかりに(ヂダ)を掲げて馬腹を蹴る。二万騎が喊声を挙げてこれに続く。大馬(トビチャグ)馬蹄(トゥル)はエトゥゲンを揺るがし、兵衆の咆哮はテンゲリをどよもす。そのまま奔流(キヤト)のごとく、北軍の左翼に挑みかかる。


 そこにあったのはキレカ。一瞬、(ニドゥ)(みは)ったが、


「なるほど、あれが噂の突貫か。たしかに威力はありそうだ」


 呟くと、何やら指示を出す。すると兵衆はただちに馬首を転じて、散開しながら後退していく。キレカもまたくるりと反転して、するすると退く。


 一方、大刀冠者こと聞隆運に相対したアステルノも迎え撃つ素振りすら見せず、あっさりと(きびす)を返す。整然たる戦列も(なげう)って、脱兎のごとく逃げ散る。中央(オルゴル)のムジカも時を同じくして反転、あっと言う間に遠ざかる。


 驚いたのは四頭豹、あまりに鮮やかな退却に俄かには追うべきか決めかねる。


相国(サンクオ)様、追わなくてよろしいのですか」


 千人長(ミンガン)に問われた四頭豹は、答えて言った。


「追え! いや(ブルウ)、追うな!」


 これを聞いた千人長は、(アマン)をぽかんと開けて立ち尽くす。四頭豹はその(ヌル)を見て、はっとすると、


「すまなかった。追おう。ただし疾駆は不要(ヘレググイ)。先の突撃における速さを保て」


 こうして四頭豹の軍勢もおもむろに追撃に移る。しかし主将の狐疑逡巡を映してか、どうにも意気が揚がらない。両翼に大きく遅れつつ漸進(ぜんしん)(注9)する。

(注1)【模糊(もこ)】ぼんやりしているさま。はっきりしないさま。


(注2)【齟齬(そご)】ものごとがうまく噛み合わないこと。食い違うこと。ゆきちがい。


(注3)【憮然】失望、落胆してどうすることもできないでいるさま。また、意外なことに驚きあきれているさま。ここでは前者の意。


(注4)【肚裡(とり)】腹のうち。心中。


(注5)【疾駆(ダブヒア)より遅く……】(アクタ)の駆ける速度。速い順に、全速(ツォギオ)疾駆(ダブヒア)跑足(ショグショウ)並足(ハティラー)歩き(アルハー)


(注6)【緘黙(かんもく)】口を閉じて、何も言わないこと。押し黙ること。


(注7)【神色自若】重大事に直面しても顔色ひとつ変えず、平然として落ち着いている様子。ものごとに動揺しないさま。


(注8)【明鏡止水】邪念がなく、澄みきって落ち着いた心境のこと。


(注9)【漸進(ぜんしん)】急ぐことなく、少しずつ進むこと。

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